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2006年10月22日
第242回「そして僕は嘘をついた」
トイレから出てきた僕は目を疑いました。彼女の瞳から涙があふれていたのです。
二週間ほど前に、欲しい車があるということを発表した途端、いま乗っている車の調子が悪くなってきました。エンジンをかけると、表示板に見知らぬマークが赤く点灯し、ピーピーと警告音を鳴らすようになったのです。
「なんか赤いランプが点灯しちゃうんですけど...」
詳しい人であればなにが問題なのかわかるのだろうけど、僕の場合、異状があると自分でどうにかしようとせず、すぐにディーラーを頼ります。
「もしかしたら、冷却水が少なくなってるかもしれませんね」
「冷却水?」
これくらいは教習所で習っているはずです。
「はい、タンクにはいってる水が少なくなっているのかもしれないので、ちょっと足してみてもらえますか?」
「自分で、ですか?」
「そうです。ボンネット開ければわかると思うんで」
後ろのトランクは何万回と開けてきたものの、前のボンネットとなるといまだに開けたこともなく、そもそもどこにそのレバーがあるのかさえ知らない僕は、ガソリンスタンドのおじさんにやってもらうことにしました。
「あぁ、もしかしたら、タンクから漏れちゃってるかもしれないね」
「漏れちゃってる?」
「うん、なんか水いれても減っちゃってるからねぇ」
「減った状態で走るとどうなっちゃうんですか?」
「最悪オーバーヒートだね」
「オーバーヒート?」
今でこそあまり見かけなくなりましたが、僕がまだ小さいころは、夏休みの帰省渋滞の横で、車をとめて途方にくれている人をよく見かけました。実際のところ、自分の所有する車とは無縁の言葉だと思っていました。
「とりあえず水いれておくけど、それでもまだランプがつくようだったら一回修理にださないとだめだよ」
おじさんに水を入れてもらうと、ランプは消え、とりあえずは問題なく走ることができました。しかし翌日のことです。
「ピーッピーッピーッ」
エンジンをかけるとまた警告音が鳴り始めました。
「やっぱりタンクから漏れているのかもしれない...」
タンクに小さな穴があいてて、そこから漏れて、一晩で空になってしまったのではないかと想像できました。
「こうなったら、自分でやるしかない!!」
その日から、運転前に必ずタンクに水を補充するようになりました。すぐに修理にだしたかったのですが、工場とのタイミングがあわなかったので、こうするしかなかったのです。
「頼む、今日一日もってくれよ!」
その日は、どうしても遠くに行かなければならない日でした。いつものように、タンクに水をいっぱいにし、さらには緊急用のペットボトルも大量に積んでいました。しかし。
「ピーッピーッピーッ」
やはり、時間がたつと警告音が鳴りだしました。
「え、もうなくなっちゃたの?」
高速道路なので停車するわけにいきません。警告音が鳴る間隔が徐々に狭まってきます。さらにはエンジンから妙な音まできこえてくるようになり、ついに力尽きたようにエンジンが停止してしまいました。
「最悪オーバーヒートだね」
僕は、ガソリンスタンドのおじさんの言葉を思い出しました。車を降り、ボンネットをあけると、熱気が顔を包み込み、どうにも手を出せない状態になっていました。まさに、幼いころにみた、高速道路の脇で途方に暮れている人になっていました。幸い、惰性で道路脇に停めることができたので、大惨事にはならなかったものの、周囲がびゅんびゅん走っている中でぽつんと立っているのが世界中で一番惨めな気分でした。
「とりあえず、近くのサービスエリアまでいければ」
サービスエリアにさえたどり着けば、水もあるし、なにより安心感が得られるわけです。僕は積んであったペットボトルの水を補充し、いつ警告音が鳴りだすかわからない不安と戦いながらどうにかサービスエリアまでたどり着きました。
「もう限界かもしれないな...」
水をいれながらだましだましやってきたものの、さすがにこう頻繁にやるとなると、もはや限界を感じていました。僕はトイレに空き容器を持っていき、次の緊急事態に備えました。最近の公衆トイレは蛇口をひねるタイプでなく、センサーなのでペットボトルの角度が少しずれるだけで出なくなってしまい、やたらとイライラする作業でした。
「あぁ、バイクにしておけばよかった...」
そもそも出かける前に迷っていたのです。車で行こうかバイクにするか。しかし、寒暖差の激しいなかでバイクに乗ったら風邪をひくにちがいないと判断したものの、車に乗ったら、車のほうが熱を出してしまったわけです。ペットボトル数本を抱えてトイレを出ると、僕は、いままで見たことのない光景を目の当たりにしました。
「な、泣いてる...」
僕の車が泣いていました。まるで涙を流しているかのように、車から水があふれていました。ライトの部分が目のように見えて、ほんとうに泣いているように見え、その涙は、頬をつたうように、アスファルトを流れていました。
「ビー子!!!」
ここからは妄想です。ペットボトルが僕の手から地面にこぼれ落ちていきました。
「どうしたんだよ!ビー子!」
僕は急いでそばに駆け寄りました。
「ごめんなさい、私、りょうちゃんの愛情を確かめたかっただけなの...」
「ビー子...」
「りょうちゃんが、最近冷たくなった気がしたから...」
「ごめんよ、俺がアメ車が欲しいなんて言ったからだよな...もうそんなこと言わないから、泣かないで!」
僕は彼女を強く抱きしめました。
「ほんと、迷惑かけちゃってごめんね...」
「ううん、俺が悪いんだから...でも、お前を手放そうとはしていないってことだけは信じてくれ!ビー子のことは絶対に手放さないから!」
「...うん、ありがとう...」
もう5年も一緒にいると、たとえ物だとしても、そこには感情が芽生えるのかもしれません。だから、彼女は妬いていたのです。僕の気持ちがほかの車に向いていたから。やきもちどころか怒っていたのかもしれません。それでピーピー鳴いていたのです。
「でも、一番大切なのはビー子、お前だから」
その後、高速をおりるとまもなくボンネットから大量の煙があがり、爆発するとしか思えない量の煙がガラスをさえぎりました。すぐに道路脇にとめて車を降りると、テレビとかでみるような事態が目の前に起きていました。ここまでくると、もうペットボトルでどうこうする騒ぎではありません。どうすることもできず、ただ僕は煙がおさまるのを待つしかありませんでした。
「では、いまからそちらに向かいますので...」
JAFの人が到着したのが22時くらいのことでした。作業員が迅速に動き、車は大きなトラックの上にのせられました。その姿は、まるで担架で救急車に運ばれるひとのようでした。そしてそのまま工場に入院することになりました。
「少し体を休めてな...」
5年間、ほぼ毎日乗っていたのだから、調子が悪くなってもおかしくなかったのです。
「私...」
「え、なに?」
「私...アメ車買っても怒らないから...」
僕は言葉につまりました。
「大丈夫、もう買わないよ...」
それは、僕が彼女についた初めてのうそでした。そのときの僕の心の中にはすでに、アイツが存在していました。退院したらちゃんと話をしなければ。
1.週刊ふかわ |2006年10月22日 10:00