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2006年09月10日

第236回「カナリア」

 そう考えてみると、合コンなんてもう5,6年やっていないかもしれません。合コンという言葉が今も存在するかどうかさえわからないほど、いわゆる男女の飲み会的なことをもう何年とやっていないのです。芸人さんというと、世間的には遊んでいるイメージが強いかもしれませんが、決して自分を守るわけではないけれど、僕の実情はまったくそのイメージに反しています。つまり、遊んでいないのです。だからと言って、昔やり倒したからもう卒業した、ということでもありません。学生時代に周囲でよく開催されていましたが、決して自分を守るわけではないけれど、ほとんど参加しなかったのです。はじめの2、3回は楽しかったのだけどすぐに、「合コンのときの俺は本当の俺じゃない!!」みたいに冷めた自分がでてきて、すっかりモチベーションが下がってしまったのです。だから、人生単位で考えても、もう数えるほどしか経験がないのです。ただ、いま行かない理由は、学生の頃のそれと少し違います。
僕が合コンに行かない理由の一つは、女の子と出会うよりも、ほかに出会いたいものがあるからです。当然、男性と出会いたいという意味でも、女の子が嫌いと言う意味でもありません。たとえば、心地よい音楽だったり、文章だったり、そういったものに出会いたくて、家に帰ってしまうのです。さぁ、とんでもない発言をしています。これがミュージシャンや作家ならまだしも、いち芸人の発言だから困ったものです。ただ、誰がなんと言おうと、真実だからしょうがないのです。僕にとって、一曲を作ることと、ひとつのコラムを書くことは、わりと近い感覚なのですが、その作業の過程で「自分の中から生まれてくるもの」に出会いたくて、家に帰ってしまうのです。だから、僕が求めているものはつまり、自分との出会いなのかもしれません。
 そして僕は、歌を忘れたカナリアのように、遊ぶことを忘れた大人になってしまいました。こんなことをいうと必ず、「じゃぁ、音楽とか文章を書くことが遊びになってるんだよ」とか解釈する人がいます。僕自身もそう感じたことがありました。しかし、それは大きな間違いでした。そこに強い責任感が存在している以上、決して遊びではないのです。音楽も文章も、そんな片手間でやれるならよほどラクですが、でも僕は、情熱の量を調節するほど器用にはできないのです。仕事という言葉がふさわしいかはわからないけど、どんなに好きでやっていても、そこに責任が存在する以上、遊びや趣味ではないのです。
 完全に遊びを忘れた僕は、遊ぶってどうやったらできるんだろう、と真剣に悩むときがあります。数年前にタバコをやめた際に、休憩のしかたを忘れてしまった覚えがあります。喫煙者の5分休憩はまさにタバコを吸う一服でできるのだけど、禁煙をしてタバコを失うと、5分休憩になにをしていいかわからず、アキレス腱をのばす、という結果に陥ってしまったことがありました。このままではまずいと、さまざまな5分休憩にチャレンジし、いまではコーヒーを飲んだり、のびをしたり、ぼーっとしたりというスベを身につけました。では、人生の休憩である、遊ぶことを忘れてしまった僕は、どうしたらいいのでしょうか。一般的な遊びであるカラオケも性に合いません。歌詞の世界に入り込みすぎて、過去の恋愛を思い出してしまうから、ぜんぜん楽しめないのです。ゴルフも朝が弱いからだめだし、ボウリングも投げたあとの表情がちょうどいい程度のものが見つからず、どうもだめだったのです。だからもっと無責任に没頭できるものを見つけたいのです。いっそ、河原にいって石ころでも集めてしまおうか、公園にでも行って一日中ブランコに揺られていようか、カルチャーセンターで手芸でも習おうか、むしろテレビを遊びにしてしまおうか、そんなことも考えました。でも悩めば悩むほど、遊ぶという本質から遠ざかっていくようで、もっと自然なカタチで遊びに出会いたくなりました。子どもの頃、毎日やっていたことができなくなってしまったのです。親に叱られてまでしていたことが、32歳になったいま、できなくなったのです。
「遊ぶってなんなんだろう...」
それが、いまの僕にとって最大の課題なのです。

1.週刊ふかわ |2006年09月10日 10:00