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2006年06月11日

第224回「便利の功罪」

ここ数年間、「便利」という言葉について考えています。一般的には良い意味で使
用される言葉ですが、果たして本当に、「便利という言葉は良い言葉なのだろうか」
そんなことをずっと考えているのです。

自動車の発明により、世の中はとても便利になりました。電車が走ることで、移動が
便利になりました。便利さを追求した結果、人間の暮らしが豊かになったことは否め
ません。しかし、便利さはときに悲劇を生むということも否めません。便利さに埋没
してしまい、大切なことを見逃してはいけないのです。

いまもなお、交通事故は後を絶ちません。車社会で生活が豊かになっている陰で、
それによって命を奪われている人たちが常に存在しているのです。いわば便利な世の
中の犠牲になっている人たちが存在している、ということから目を背けてはいけない
のです。便利なものを利用する際は、常にその扱いに注意を払わないと、思いがけな
い悲劇につながる可能性がある、ということです。人間の頭脳を駆使して、いくら便
利さを追求しても、そこには危険というものが必ず追いかけてきて、それらを振り
払って走ることはできないのです。便利には必ず危険が伴うのです。

ただ、危険を振り払うことはできなくても、危険に追いつかれないようにすること
はできます。それは、「安全」に努めることです。そうすることで、危険を遠ざける
ことができるのです。便利なものを追求する際は、それと同じ位、安全に対しても同
じ量の情熱を注がないと危険に追いつかれてしまう、ということです。

そういう意味では、エレベーターが乗り物である、ということを僕たちは少し忘れて
いたのかもしれません。建物に当然のようにあるエレベーターは、その便利さに慣
れ、それを便利だと感じれないほど、当然のものになりました。「このマンション、
エレベーターなくて不便だぁ」と思う人はいても、「このエレベーター便利だぁ」と
感動しながら乗っている人はあまりいません。しかし、エレベーターこそ便利な乗り
物であって、それだけに危険が伴っていることを、すっかり忘れていたのかもしれま
せん。おそらく、社会にエレベーターが登場したとき、人類は慎重に乗ったことで
しょう。しかし、いつのまにか慣れてしまって、その危険性を見失ってしまったので
す。いくら技術が進歩していても、無人の乗り物であることには違いないのです。

少し余談になりますが、エレベーターにはたいてい「緊急連絡先」みたいなのが表示
されています。だけど、大きな地震が訪れたときに、たとえば東京のほとんどのエレ
ベーターがとまってしまったとき、管理システムはそれに対応できるのでしょうか。
もしも東京で地震が起きたら、ほとんどのエレベーターが管制センターとつながらな
い気がするのです。そんなことを思うと眠れなくなります。すべてが終わってから改
善するのでは手遅れだから、今のうちにちゃんとして欲しいです。話を戻します。

人類は、悲しいかな、だれがなんと言おうと、楽なほうに流れてしまう生き物で
す。そういう意味では、アリとかよりもずっと怠慢な生き物かもしれません。だか
ら、便利なものがでるとそこへみんなが流れてしまいます。でも便利なことを追求し
てきたわりにはいまだに人類は満たされていない気がします。そう考えると、「便
利」というものは幻想でしかなくって、人類はどの時代もその落とし穴にはまってい
るような気がします。洗濯するのが大変だから、世の中に洗濯機が登場しました。い
まは、「こんな商品をだせば儲かるかもしれない」という価値観で登場する商品が少
なくない気がします。たとえ誰も求めていない便利さであっても、人類は一度味わう
とそこから抜け出せなくなってしまうしょうもない生き物なのです。だからといっ
て、いまさら「便利禁止法」みたいに、「この便利さは人類を堕落させるから発売中
止!」みたいなことは、現状の資本主義経済の中では難しいでしょう。となるとやは
り、僕たちが常に意識することが大事になってくるのです。「便利さの陰には必ず危
険が潜んでいる」ということを。そして、便利さが大きければ大きいほど、その危険
度も高くなるのです。乗り物とかじゃない便利なものも、当然危険は伴っています。
便利になった分、なにかを失っているのです。人間はいったいいつまで「便利」とい
う幻想を追い求めるのでしょうか。便利の光を浴びているだけでは、いつまでたって
も悲劇は消えないのでしょう。

1.週刊ふかわ |2006年06月11日 10:00