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2005年12月04日

第198回「群青色に染まる前」

朝5時とあって空はまだ真っ黒な色をしていました。玄関を出た僕の頬を冬のひんやりした空気が覆います。足早に車に乗り込むと、ストーブをつけるように急いでエンジンをかけました。
「ったく、朝早すぎるよ...」
地方でのロケだったために異様に集合時間が早かったその日は、絶対に寝坊しまいと、かなり余裕をもって目覚ましをセットしていました。車内が暖まってくると、まだ早い気がしたものの、ゆっくりと新宿に向かうことにしました。さすがに5時台だったので、道もそれほど混んでなく、想像以上に時間をもてあましそうな気がしました。
「せっかくだからどこかで朝食でも食べていこうか」
ふと、そんなことが僕の頭に浮上してきました。朝食と言っても、こんな早朝にやっているお店といったらだいたい限られていて、ファミレスか牛丼屋さんくらいになります。しかも、一人でファミレスにいくのには抵抗があるので、少し遠回りして、朝食メニューのある牛丼屋さんに寄ることにしました。
店の前に車を停めると、ガラス越しに、50代くらいのおじさんがひとりで食べているのが見えました。一応帽子をかぶって中に入ると、カウンターはカタカナのコの字型になっていて、向かい合うのも気まずかったので、おじさんからふたつ空けた席に座りました。おじさんは焼き魚をつつき、静かに食べていました。
「すみません...」
声をかけると、奥からメガネをかけた、やや太った感じの青年が出てきました。僕は特朝定食を注文すると、まるでそれを待っていたかのように、すぐに奥から運ばれてきました。交代制なのか、ほかに店員さんは見当たりません。それにしても、この特朝定食は、納豆や海苔、鮭など、ごはんに合うおかずが満載で、ごはん好きな僕にとってはまさにごちそうでした。中でもお気に入りなのは、たまごかけごはんで、そのメインディッシュに向うまでのプロセスを楽しむのが、特朝定食のスタイルなのです。
まず最初は納豆からはじめます。納豆2に対してごはんが1くらいの贅沢な割合で食べるのです。それが終わったら今度は味付け海苔です。だいたい一袋に5枚くらい入っていますが、どれもしょうゆなどつけず、これもやや少な目のごはんを軽く巻いて食べます。これがおわる頃、丼の中のごはんがちょうど平らになっています。そしたら鮭をまるごと乗せて、平らなごはんの上でほぐしていくのです。当然皮も食べちゃいます。家だったらある程度食べたところでお茶を注ぎ、鮭茶漬けにするBコースもあるのですが、お店ではやはりAコースを選びます。鮭ごはんを楽しんだ後、3、4口くらい残ったごはんの上に、なまたまごをかけるのです。ちなみに僕は、軽くしょうゆをかけてかき混ぜた「ときたまご」をごはんにかけるのですが、人によってはごはんにのせてから黄身を崩す人もいるようですね。いずれにせよ、専門店ができるほどに「たまごかけごはん」は日本人に愛されているといえますね。ごはんのもちもち感をなまたまごがやさしく包んだこの味は、日本人である喜びさえ感じさせてくれるのです。このように、一杯の丼で何種類もの味を楽しむ。当然、それぞれのつなぎ目にはお味噌汁やおしんこが活躍します。これこそまさに世界に誇る、日本の朝食といえるでしょう。そんなプロセスの中で、僕が鮭をほぐし始めたころ、入り口の窓が開く音がしました。
「焼き魚!」
まるで家で待っていた奥さんに「メシ」とでも言うかのように、男は入るやいなや、店員さんに声を掛けました。いわゆる長距離ドライバーといった感じの男で、僕の斜め向かいに座りました。はじめからいた中年男はまだ魚をつついていました。
「早いなぁ、もう12月かぁ...」
誰に話しているのか独り言なのかわからないトーンで発した言葉が店の中を漂いました。
「お待たせしました...」
という言葉もいらないほど、すぐに焼き魚定食が男の前に置かれました。
「やっぱり年末は忙しい?」
さっきの独り言がまだ店内から消えていないままに、男は再び、今度は確実に話しかけているトーンで、店員さんに言いました。あまり弾んではいないものの、よくこのお店に来ているのだろうと思わせる会話でした。
「そうですね...でもあんまり関係ないですかね...」
「あっそう...」
相変わらず言葉が宙に浮いてました。僕は鮭を終了し、生卵にしょうゆを軽くたらしました。中年男は、ようやく焼き魚を食べ終わったのか、ゆっくりお茶をすすっています。
「お正月は国に帰るの?」
「そうですねぇ...毎年帰って来いとは言われるんですけど...」
「やっぱり親は心配するだろう」
「そうですね。でも、たぶん今年も帰れないですね...」
「そうなの?どして?」
すると横の中年男が立ち上がりました。
「ごちそうさま」
なぜ帰れないのかききたかったのに、中年男の会計のせいで話が流れてしまいました。僕はいつものように、ごはんにたまごをかけて食べました。長距離ドライバーは黙って食べ始め、お店の青年は厨房のほうに戻りました。特にBGMもなく、ただごはんをかき込む音だけがしていました。
店の外に出ると、さっきまで真っ黒だった空も、ようやく群青色に染まってきました。相変わらず冷たい空気が顔を覆います。急いでエンジンをつけると温かい風が吹きだしてきました。
「いまから行けばちょうどよさそうだな...」
なにも起きていないありふれた朝。なにも起きてないのに、なんだか、がんばって生きよう、そんな気分になったのでした。

1.週刊ふかわ |2005年12月04日 10:30