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2005年07月03日
第176回「心地よい場所」
タイトルはかわりましたが、前回の「苦痛の器」の続編です。
「あれ?耕一先輩?!」
振り向くとそこに、かわいらしい女性が立っていました。
「やっぱりそうだ!耕一先輩ですよね?私のこと、わかります?」
「えっと...」
「ケイコです!大学時代のテニスサークルの後輩の!」
「...あぁ、ケイコちゃんか!なんか雰囲気変わってるからわからなかったよ!」
「だってもう何年ぶりですかぁ?ほんと久しぶりです!」
もう生きていく気力さえなくなっていた耕一の目の前に、大学時代の後輩であるケイコが現れたのです。
「そうそう!それで恐くなって、先輩に抱きついちゃったりして!」
「合宿は楽しかったよなぁ...」
再会したふたりは近くの喫茶店で思い出話に花を咲かせていました。
「...あのぉ、さっきから気になってたんですけど...それって...」
「ん?あぁこれ?結婚指輪...知らなかったっけ?」
「知らなかったですよぉ、そうなんだぁ!」
「ちなみにほら...」
耕一はケータイの写真を見せました。
「わー、もう立派なパパなんですねぇ!」
「いやぁ、立派なんてとても」
「...へぇ、かわいらしい奥さんですねぇ」
「もうだいぶ前のだから。いまじゃ色気も何も...学生時代がピークだったのかな」
「えっ?もしかして、同じサークルだったんですか?」
「3つ上の先輩でね。大人の魅力にやられたって感じかな...」
「そうだったんですか...」
ケイコはストローで残りのアイスコーヒーを吸い込みました。
「なにか、頼む?」
「いえ、だいじょうぶです...なんか、残念だなぁ...」
「え、なにが?」
「わたしももっと先輩にアプローチしておけばよかったなぁ...」
「な、なに言ってるんだよ」
「わたし、先輩のこと好きでしょうがなかったんですよ、気付いてました?」
「えっ?だってケイコちゃんはみんなにも人気があったし」
「わたしは先輩に会いたくってサークルにでてたんですよ!」
「ぜんぜんそんな風に思わなかったよ。そうだったんだぁ...」
耕一も、残りのアイスコーヒーを吸い上げると、同じものを注文しました。
「でもわたし、今日会えてよかったです...先輩にはかわいい奥さんもお子さんもいるけど...でも、先輩は今でも憧れの存在です...だから、会えてよかったです!」
ケイコの瞳にはうっすら涙が浮かんでいました。耕一は、その潤んだ瞳が、現実に起きている嫌なことをすべて忘れさせてくれるような気がしました。
「...先輩、また会ってくれますか?」
気付くと二人はベッドの上にいました。
「うん。また、会いたい...」
その日から、ケイコと会う日が続きました。耕一は、会社が終わるとそのまま家には帰らず、ケイコの待つ場所へと向かうようになりました。
「わたし、都合のいい女でかまわないから...」
ケイコはすべてわりきり、耕一にすべてを捧げました。耕一は、頭の中ではわかっているものの、ケイコから離れることができませんでした。なぜなら、耕一にとってケイコの待つ場所が、心地よい場所だったからです。当初のように、奥さんの顔がちらつくこともなくなると、耕一の生活にすっかりケイコとの時間が組み込まれていきました。
誤解されないように先にいっておきますが、決して不倫を支持しているわけではありません。あくまで例えばの話ですからね。
すっかり「苦痛の器」が満タンになり、破綻寸前のところまできていた耕一にとって、ケイコといる時間はあまりに心地よかったのです。まるで、器の底にある栓を抜き、にごりきった苦痛の液体をすーっとそこから逃がしてくれるような、そんな気分にしてくれたのです。疲れきっていた耕一には、ケイコという心地よい場所が必要だったのです。
それがゴルフだったり釣りだったり、タバコや酒だったり、温泉や海だったり、耕一にとってのケイコという「心地よい場所」は、誰にとってもあるものです。知らず知らずのうちに、そんな場所を見つけているのです。人はみなその場所で器の栓を抜き、苦痛の液体を逃がしているのです。ただ、人によってはそれがうまくできなかったり、心地よい場所すら見つからない人も当然います。心地よい場所が見つからず、苦痛を溜めるだけ溜めて、破綻してしまうのです。社会のルール、法律を破る人、罪を犯す人、ドロップアウトする人たちのほとんどは、こういった破綻から来ているのです。性犯罪や少年犯罪などもそうです。特に少年の場合、経験も少なく、心地よい場所すら見つかっていないのに、ただ苦痛だけを与えられていては、破綻してしまうのも当然といえるでしょう。だから、教育も見直さなければいけないのです。もう、知識を詰め込む時代は終わったのです。もっと、人間がどうすると壊れてしまうのか、どうすると破綻してしまうのか、そして、苦痛に対してどう対処するべきなのか、そういったことを少年たちに教えないといけないのです。方程式の答えはひとつでも、少年たちの心地よい場所は皆ちがうのです。少年たちに「心地よい場所」を見つけてあげるのも教育なのです。
「ねぇ...奥さんと別れること、できる?」
シャツに腕を通す耕一の背中に向かって、ケイコは突然つぶやきました。
「えっ?...なんて?」
「ううん、なんでもない...」
でも耕一にはしっかり聞こえていました。いつかそう言われるんじゃないかと覚悟はしていました。そしてこの言葉はまぎれもなく苦痛となって耕一の体内に入り込んできました。ケイコとの関係も時間の問題となりました。
「どうして?!どうしてわたしのことを捨てるの?!奥さんがそんなに大事なの!!」
耕一は泣きすがるケイコに一瞥することもなく言いました。
「キミは、栓を抜くだけでよかったんだ...」
そして、もはや心地よい場所ではなくなってしまったケイコのもとへ、耕一が訪れることはありませんでした。ケイコは「苦痛の器」の栓を抜くことができても、「愛の器」を満たすことはできなかったのです。耕一は、なんの記念日でもなかったけれど、ケーキ屋さんに寄ってから帰ることにしました。
1.週刊ふかわ |2005年07月03日 10:00