« 第174回「家庭の事情」 | TOP | 第176回「心地よい場所」 »
2005年06月26日
第175回「苦痛の器」
連日のワイドショーなどで見せるやつれきった顔に、なにが真実なのかという議論よりも、この人はだいじょうぶなのだろうかという心配の方が先にたってしまいます。おそらく大きな組織のことだから、僕らには理解できないようなことがたくさんあるのでしょう。華やかな舞台の裏側で、それこそ縄のサークルの中でのそれよりも、熾烈な争いが繰り広げられていたのかもしれません。だから、テレビの中の彼の言葉が正しいのか正しくないのかは、僕らにとっては予想の範囲でしかわからず、どこかでメディアに踊らされている部分も否めないでしょう。やがて世間の関心が弱まれば自然と彼の露出も少なくなり、そのまま真実も闇の中に消えてゆくのでしょう。ただ、彼の言動で明らかになった真実もありました。闇に消えない真実がありました。それは、人間の弱さです。それだけは真実として残りました。肉体的なものではなく精神的な、つまり人間の心がいかにもろく、弱いものであるかが露呈したのです。
これは僕の考えなので適当に聞き流してもらってかまわないのですが、人間には「苦痛の器」というものがあるのです。それは「苦痛的状況」に耐えるための器で、皆が持っている器です。当然、個人差はあって、それがコップ一杯分しかない人もいれば、バケツ一杯分の人もいます。海のような器の人もいるでしょう。いずれにせよ、人は生きていくうえで感じた苦痛を一時的にその「苦痛の器」に溜めているのです。その器に溜まっている間はまだ理性でコントロールできるのです。しかし、その苦痛の量が器からあふれたとき、人は理性を突き破り、破綻してしまうのです。「もうやってらんねーよ!!」とバケツごとひっくり返してしまうのです。
某電機会社に勤める耕一は、ふたりの息子と3つ年上の奥さんをもつ、ごく一般的なサラリーマンです。結婚して10年を迎え、仕事も軌道にのり、ようやく生活も安定していました。そんな耕一の生活が揺らぎ始めたのはつい先日のことでした。
「ちょっと、部長!これどういうことですか!!」
耕一は掲示板に張り出された紙をはがすや、部長のところに走ってきました。
「どういうことって、そういうことだ」
「そういうことって、なんで僕がはずされなきゃいけないんですか!」
「きみはまだそのプロジェクトに参加するには早すぎる。まぁ悪く思わないでくれ」
「部長!早すぎるも何も、そもそもこのプロジェクトは僕が企画した...」
「あんまり上司にたてつくと、いいことないですよ...」
「部長!!」
耕一は、あまりに理不尽な上司に対し、やり場のない怒りがぐつぐつ湧いてきました。
「あなた、耕太のことなんだけど...あなた?」
「...ん?あぁ、受験のことだったな...まぁ、また今度にしよう...」
「もういい加減にしてください!また今度また今度って、いったいいつになったら真剣に考えるのよ!仕事と耕太とどっちが大切なのよ!!」
会社で狂ったしまった歯車が、家庭にまで影響してきました。
「ちょっと、なにすんのよ!」
「は?なんですか?」
「とぼけてんじゃないわよ!あなたわたしのお尻いま触ったでしょ!!」
「いや、ちょっと、誤解ですよ...」
「なにとぼけてんのよ!あんた、この車両の常習犯でしょ!」
「いや、なにいってるんだ、キミ!」
「わかってんのよ、いつか捕まえてやろうと思ってたのよ!みなさん、この人痴漢です!常習犯です!!」
気付くと耕一は川を眺めていました。会社も家庭も、耕一にとってはなにもかもうまくいってないように感じました。
「いったい俺の生活はどうなっちまうんだ...」
耕一の生活は苦痛ばかりでした。なにをしてもうまくいきませんでした。苦痛の器はもう満タンでした。表面張力でどうにか保っているようなものでした。あと1滴でもたらしたら一気にバランスが崩れあふれてしまいそうでした。苦痛の器はどのようにして満タンになったのでしょう。
耕一の苦痛の器には「10苦痛」と書かれていました。つまり「10苦痛」までは溜まりますよ、ということです。まず、理不尽な上司によって「5苦痛」が、続いて家庭でのいざこざにより「3苦痛」、車内で痴漢扱いされ「2苦痛」が注がれ、気付くと器にはあふれんばかりの苦痛が溜まっていたのです。もうあとひとつ苦痛をあたえられたら耕一の心は崩壊し、爆発し、破綻してしまうのです。「もうやってらんねーよ!」となってしまうのです。
おそらく、テレビでしゃべりまくる彼は、それはそれは大きな器を持っていたはずです。その大きな器にずーっと溜めてきたのです。幼い頃から文句ひとつ言わず、ただただ溜めてきたのです。しかし、大切な人を失った悲しみによる苦痛が注がれ、その大きな器の容積を越えてしまったのです。それで、いままで溜めてきた苦痛がすべて溢れ出てしまったのです。「もう溜めるなんてばかばかしいや!」となってしまったのです、きっと。
「あら?耕一先輩?」
振り向くとかわいらしい女性が立っていました。。。長くなりそうだから来週にしようかな。
1.週刊ふかわ |2005年06月26日 11:00