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2005年06月12日
第173回「前に住んでいた部屋」
第173回「前に住んでいた部屋」
ちょっとだけ遠回りして帰れば、僕が前に住んでいたマンションを見ることができます。僕が初めてひとり暮らしをした、3階建てのうぐいす色のマンションです。その部屋から数えて引越しを3回していますが、一度渋谷に出たものの、だいたいがその近隣を転々としている感じでした。だからいまでも、ちょっと帰り道のルートを変えれば以前住んでいたマンションの前を通ることができるのです。実際そのマンションの前を通ってみると、やはり以前生活していただけあって、どこかふるさとに似た懐かしさがあります。特にこのうぐいす色のマンションは、初めて一人暮らしをした場所だけあって、独特な空気が流れているのです。
「203の府川さん?」
「はい、203の府川です」
この都内のワンルームマンションに引っ越したのは大学をでてすぐのことでした。なんかわからないけど、社会人になったら一人で生活するべきだというイメージがあったようです。新築で1Kタイプでバストイレ別で、2階の角部屋で、7万8千円だった気がします。当時の僕はすでにテレビで活動していたので、それくらいの家賃であれば仕送りなく生活できました。男にとって一人暮らしというのは、それはもう夢の生活であって、自由の象徴でもあります。ことに、20代前半の男にとって、自分だけの城があることがどんなにうれしいことか。結局のところ、毎日でも女の子を連れてきたくなるわけです。連れてこなきゃ損だと思ってしまうわけです。自分のこととは思えないくらい、本能が理性を上回っていた時代でした。このように、初めての一人暮らしを謳歌していた僕でしたが、1年以上経ち、なにかが足りないと感じていたのでした。
「じゃぁ、とりあえず運ぶルートを確認しますんで」
「わかりました、エレベーターがないんで階段なんですけど...」
僕はグレーの作業着を着た運送屋さんを自分の部屋まで案内しました。
「このベッドのまえあたりにおいて欲しいんですけど...」
「ん?ここに置くの?」
どんなに自由な生活ができても、どれだけ女の子を連れ込んでも、僕の心が満たされなかったのは、ピアノがなかったからでした。
「そうです、ここしかないんで...」
「じゃぁ、とりあえず運んじゃいますよ...」
実家に住んでいる頃は、たまにちょこっと弾く程度だったので、ピアノの必要性なんて、これっぽっちも感じていませんでした。しかし、実際に一人暮らしがはじまり、たまに弾くこともなくなり、ピアノに触れる機会が全くなくなってしまうと、なぜだか禁断症状のように無性に弾きたくなって、いてもたってもいられなくなってしまったのです。ピアノのない生活が1年以上も続き、どうしてもこのワンルームの部屋にピアノが欲しくなったのです。で、さっそく大家さんに相談したところ、音の出ないタイプであればいい、ということだったので、僕はすぐに「普通にも弾けるし、ヘッドホンをしても弾ける、猫足のクラシカルなピアノ」を購入したのでした。
「じゃぁ、ここでいいですね?」
「はい、ありがとうございました」
よくこんな狭い部屋にピアノを置くなぁなんて表情をしながら運送屋さんは帰っていきました。これによって、僕の部屋はピアノ部屋へと変わりました。7畳ほどの部屋の真ん中にドーンとピアノがあり、その横にベッドがありました。テレビはピアノによって完全にふさがれ、ピアノの横からななめに見ないといけなくなりました。
「毎日弾くわけじゃないけど、弾きたいときにすぐ弾けることが大事なんだよ」
まるで音大生の部屋のようになった僕の部屋には、女性の出入りも少なくなりました。
「今はどんな人がすんでるのかな?」
僕が去ってから6,7年たっているのだから、もう5代目くらいになっているかもしれません。同じ部屋に住んでいたからといって、そこにタテのつながりがあるわけじゃなく、先輩だからと言って勝手に部屋にはいっていいわけでもありません。ただ、いまになってあの部屋に自分が住んでいたんだなっておもうと、不思議な気持ちになります。なんかタイムマシンで過去を見にきたような。前に住んでいたマンションの前を車で通過する、ほんの数秒の間、あの頃の空気がよみがえってくるのです。その空気を味わいに、僕はときどき遠回りをして帰るのです。
1.週刊ふかわ |2005年06月12日 10:00