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2005年05月29日

第171回「一枚のティッシュ」

箱からとりだした一枚のティッシュを顔に近づけると、グレープフルーツの香りが顔中を覆いました。

「な、なんていい香りなんだろう」

一般的にはすでに知られているのかもしれませんが、僕はこの前初めてその存在を知りました。花粉症が騒がれる時期にミントの香りのするタイプのものはときどきみかけましたが、グレープフルーツのような柑橘系のタイプはこの日まで見たことはなかったのです。もういまは、ティッシュにグレープフルーツの香りがつく時代になったんですね。ティッシュも出世したものです。箱にそう書いてあるからそれほど期待もせずに買ってみたら、ほんとに口にいれてしまいたくなるほどにグレープフルーツの香りがしてきたのです。たかがティッシュ一枚でとても幸せな気分になれたのです。おかげでいまは、僕の車内はグレープフルーツの香りがしています。

「小川の隣になっちゃったよ...」

たしか、小学校3年の2学期だったと思います。席替えで「小川さん」の隣になったのは。どの学校にも、どこのクラスにもたいてい、ひとりぼっちの女子がいるものです。先生に指されてもただ黙っていて、誰かと仲良く遊んだりもせず、会話をしているところすら見かけたことのないような女の子。「小川さん」はまさにそんな女の子でした。完全に周囲にこころを開こうとしないのです。だから女子の間でも男子の間でも相手にされることはなく、休み時間も、遠足のときも、いつも彼女は一人でいました。いつも彼女は孤独でした。ただ、はたから見るとさみしそうに見えても、彼女自身がそう感じていたかどうかはわかりません。というのも、彼女には友達がいました。休み時間になると彼女は、クッキーがはいっていたであろう缶を机の上にだし、その中にはいっている大量のシールをいじっていました。彼女にとっては、どのクラスメートとおしゃべりするよりも、集めたシールを眺めているほうがよっぽど楽しかったのでしょう。だから、たとえ一人でいようとも、孤独に見えても、それが彼女にとっては悲しい状況ではなく、むしろ自分の世界として完結していただけで、彼女にとっては充分しあわせだったのかもしれません。そんな小川さんの隣の席に僕は座っていました。隣だったから、缶の中身を知っていたのです。黒板に書かれた座席表の、僕の隣の欄に「小川」という文字が書き込まれたとき、ある意味、2学期は終わったと思いました。一気に学校に行くモチベーションが半減したのです。小学生のときなんてちょっとかわいかったらすぐ好きになっちゃうもので、クラスに3人くらいはお気に入りの女子がいたりするものです。だから当然その3人のうちの誰かが隣に来ることを願っていたのだけど、そううまくいかず、友達と交渉しても、「小川の隣」というカードとは誰も交換してくれませんでした。そうして憂鬱な2学期が始まったのです。もしも、意中の子がとなりだったら、わざと教科書を忘れたりして、机をくっつけて、よりそいながらひとつの教科書をみたりするものです。わざとケシゴムを忘れて、会話のきっかけを積極的に作ったりするものです。しかし、2学期の僕は違いました。小川さんのおかげで忘れ物をしない生徒に変わりました。なんとしても忘れ物をしないようにしたのです。そして、僕と小川さんは、ただ席が隣というだけで一切会話をすることはありませんでした。そのときがくるまでは。

「...ティッシュ、いる?」

そう声を掛けてきたのは小川さんでした。もともと鼻が弱かった僕は、授業中、よく鼻をすすっていました。その日は特にひどく、すすってもすすっても透明な液体が鼻から垂れてくるのがわかりました。わんぱく少年だったからティッシュやハンカチなんて当然持ってません。やばくなったらトレーナーの袖の辺りで拭いたりしていました。その光景を目の当たりにした小川さんは、そのとき初めて僕に声を掛けてきたのでした。

「...えっ?持ってるの?」

ティッシュを持っているかどうかよりも、小川さんが僕に声を掛けてきたことに衝撃を受けていました。クラスのだれも会話をしたことのない小川さんがいま僕と会話をした、しかも小川さんのほうから話し掛けてきた。

「ちょっと待って...」

そういうと、授業中にもかかわらず、例の缶を机の上に置くと、フタをあけ中をゴソゴソしはじめました。

「えーっと、どれにしようかなぁ...これがいいかな...」

そういって、ピンク色の小さなティッシュを一枚僕に渡してきました。拒否するすべもなく、そのティッシュを受け取りました。なにかかわいらしいキャラクターみたいな柄がプリントされていました。そして僕は、その一枚のティッシュを広げ、鼻をかもうと顔に近づけると、なにやら甘い香りが漂ってきました。

「...なんか、いいにおいがする...」

バニラのような甘い香りが顔中を包み込んできました。

「それ、いいにおいするでしょ」

そのときはじめて小川さんの笑顔をみました。それから2ヶ月くらい同じ席で過ごしましたが、その間に会話をすることも、その笑顔を見ることもありませんでした。そうして何十年と経ち、いまになってグレープフルーツの香りのするティッシュをかぐと、あのときの小川さんの笑顔がよみがえるのです。大量のシールとティッシュがはいっていたあの缶は、いまどんな香りがしているのだろうかと、ときどき考えるのです。

1.週刊ふかわ |2005年05月29日 11:00

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