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2005年03月13日

第161回「SとMのカンケイ」

まったくそんなつもりはなくっても、「カンケイ」と表記すると否が応にも「おしゃれカンケイ」を想起してしまいます。それは決して悪いことではなく、ある意味、日本人である証なのかもしれません。しかし、それだけ日本人の脳に焼き付いている「おしゃれカンケイ」も、もうすぐ見納めになってしまうらしいです。業界の中にいるくせに伝聞形で申し訳ないのですが、4月からは「おしゃれism」という番組にリニューアルし、メインパーソナリティーは藤木直人氏が務めるそうです。個人的な意見をいえば、番組タイトルに「おしゃれ」を残すよりも、愛着のある「カンケイ」を残して欲しかったのですが。ちなみに「カンケイ」には、数年前にいちど出演したことがあります。でもそのときはスペシャルの回で、いわゆる通常と違い、ひとりのゲストに対する時間が短かったので、あまり出演したと胸を張って言えなかったのです。それだけに、いつかちゃんと単品で出演したいと思っていたので、それを果たせぬまま「カンケイ」が「ism」になってしまうのは、ちょっと残念でもあります。古館氏の軽妙なトーク術、満里奈さんの笑顔。また、日曜の夜は、「おしゃれカンケイ」「電波少年」「ガキの使い」というゴールデントリオの時代がありました。「明日は月曜日だ」と日本人が抱える憂うつを払拭してくれたものです。いまでは「ブラックバラエティー」の良純氏が担ってますが。いずれにせよ、報道ステーションを担当するようになった古館氏にとって、「おしゃれカンケイ」が少なからず負担になってしまったのかもしれません。あとは直人氏に期待したいものです。「カンケイ」という言葉のせいでだいぶ寄り道をしてしまいましたが、こんなことを言いたかったわけではありません。

リビングにあるリモコンをテーブルの上に並べてみると、ひとつの部屋だけで6個のリモコンが存在することが判明しました。テレビ、ビデオ、ハードディスクレコーダー、ケーブルテレビ、エアコン、コンポ。ひとつの機器に対しひとつのリモコンがあるわけだから、こんなリモコンだらけの状況になるのも当然で、珍しいことではないでしょう。ただ、いまとなっては当然のように存在するリモコンですが、かつてはそんなものはなかったのです。

チャンネルを変えるために腰を持ち上げることが億劫になった人類は、「リモコン」という夢の道具を開発することに成功しました。おかげでソファーに座ったままチャンネルを変えることが可能になったのです。しかし、夢の生活にも落とし穴がありました。やがて人類は、「テレビのリモコンが見当たらない」という問題に直面することになったのです。結果、チャンネルを変えにいく手間は省けたものの、「リモコンを探す手間」が生まれてしまったのです。この問題に対し多くの研究が進められましたが、現段階での最良の対応策として、「カゴとか、なんらかのリモコン入れを設置してみては」ということが提案されました。しかしこれに至っても、実際にはほとんどのリモコンがそこに戻ってくることはなく、滅多に使わないリモコンだけがひとりで留守番し、最終的に単なる小物入れと化してしまう、という結果になりました。このリモコン問題は、快適な生活をのぞむ現代人を少なからず悩ましているのです。ただ、このリモコン問題を扱ううえで最も大事なことを我々は見落としてはいけません。それは、彼らは生き物だということです。リモコンは生きているのです。このことに気付かなければならないのです。つまり、彼らがソファーのすき間や新聞の下、電話の横やなぜか玄関などにいたりするのは、彼らが生きているからなのです。だから、リモコンを使用することは、ペットを飼うくらいの気持ちがないとだめなのです。「母さん、テレビのリモコン知らない?」ではなく、「母さん、デュークどこいった?」というように、名前をつけてやらないと、リモコンたちもなついてこないのです。放り投げたり、乱暴に扱ってしまえば逃亡するのも当然なのです。これらのことをしっかり認識せずにリモコンを扱うと、リモコンに動かされることになってしまうのです。このように、リモコンは僕らの生活を快適にし、もはや欠かせない存在になっているわけですが、リモコンによる影響もあるのです。

リモコンを手にしたことによる一番の影響は、「視聴者が待てなくなった」ということです。リモコンのない時代は、一度チャンネルを設定するとCMになっても、多少興味のない映像が流れても、すぐに変えようとはしませんでした。しかし、「ザッピング」という言葉が生まれたように、リモコンを手にした視聴者は、ちょっとでも興味のない映像が流れるとすぐに他のチャンネルに移行し、自分の興味にあてはまる映像を選ぶようになりました。これによって、視聴率が1分間で大きく変動するようになり、番組を作る側は、「どの瞬間を切り取っても興味が持てる番組」を作るようになったのです。10秒でも飽きさせてしまったら、リモコンで変えられてしまうからです。だから、CM前に盛り上げて、CMをまたいでから結論を出すことが主流になるのも必然なのです。人類がリモコンを手にしたことによって、「CMまたぎのストレス」がついてきたわけです。また、「ヒロシです」などの一言系ギャグが流行るのは、瞬間で切り取れるという点で、時代に合っていたということも、その要因のひとつと言えるでしょう。ただ、この状況が悪いと決め付けることは出来ません。瞬間瞬間で勝負することはとても大変なことです。映画は観てすぐには感動できません。テレビはつけたらすぐに面白いです。どちらが優れている、とかじゃなくって、性質が全く異なるということです。映画館のように、見る人が最後まで見るという前提でつくる映像と、リモコンで変えられてしまうかもしれないという宿命の中で作る映像では、根本的に違うのです。だから僕は、映画が芸術でテレビが低俗で、みたいな議論は全くナンセンスだと思うのです。

このように、テレビが瞬間で勝負するようになったことこそ、テーブルの上に置かれたリモコンのせいなのです。視聴者は、もう待ってはくれないのです。リモコンを手にした視聴者はテレビに対し、チャンネルを変えるという苦痛を与え、テレビはどうにか苦痛に耐えようとする。しかしテレビはその苦痛を拒んだりしない。リモコンを持つものは無意識のうちにサドになり、テレビはいつのまにかマゾになっている。つまり「SとMのカンケイ」にあるのです。では、「カンケイ」に代わる「ism」が、この苦痛に耐えられるのか、しばらく見届けてみましょうか。

1.週刊ふかわ |2005年03月13日 11:00

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