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2014年04月20日

第568回「カタチは記憶のなかに」

 予期せぬことが起こりました。厄介なことが起きてしまいました。まさかないだろうと思っていたから自分でも驚きました。味をしめてしまったわけではありませんが、舞台にはまる人の気持ちが、僅かながら僕なりに、わかってしまったのです。というのも、本番を目前に控えたいま、不安や緊張感のなかに、別のものが生まれていました。

「もう、終わってしまうのか…」

はじまる前から終わりのことを考えているのかと思うでしょうが、僕の心のなかで確実に、「終わってしまう」ことに対する、一抹の寂しさの存在を実感していたのです。

 20周年、初舞台、初主演。いろいろなことを覚悟してのぞみ、ほとんどはじめて会うスタッフ・キャストらとはじまった稽古の日々は、決して快適なものではありませんでした。生放送の前後に稽古場との往復。学生時代の部活の再来のような感覚は、集団行動が苦手な大人にとっては気持ちを維持するだけでも困難。さまざまな犠牲が生まれる禁欲的な生活に、「あぁ、はやく解放されたい…」と深い息も漏れてしまいます。それなのに、どうしたことでしょう。いざ本番が近付いてくると、この生活が終わってしまうのかという感覚がときどき、靴を履きかえているとき、休憩のあいだ隅でコーヒーを飲みながら稽古場を見渡しているとき、いつもは使わなコンビニで買い物するとき、帰りの車内で、頭をよぎるようになってしまいました。はやく解放されたいという気持ちもなくはないけれど、解放されたくないという気持ちが、確かに存在している。

僕がこれまで、アルバムや本を制作することに力を注いできたのは、もしかすると、テレビやラジオというものが流れてしまうものだからかもしれません。あるいは単純に、カタチというものに対する想いが、それは「死」への意識と関連しているのかもしれませんが、あるからかもしれません。しかし、舞台というものは、カタチはあってないようなもの。瞬間的にはカタチになるけれど、終わってしまったら何も残っていない。形にならないもののために僕たちは、どうしてこんなにも情熱を注いでしまうのか。地位や名誉、お金のためでは決してありません。僕たちは、目には見えないカタチを、みんなで支えているようでした。

初日を迎え、そして千秋楽を終え、そのとき、僕の心のなかにどのような感情があるのかわかりません。きっと、悔しさもあるでしょう。でも、ここで生まれるすべての感情はかけがえのないもので、この束縛された日々に通り過ぎてゆく風景は、すでに素敵な時間となって存在しています。本番に向かって歩んでいる日々が、もう、愛おしくなっているのです。

 まだ早いかもしれませんが、本当に、素敵な作品・人々に出会えました。みんなでひとつのものを築いていくことは、どこか懐かしさすら覚えます。出演者やスタッフたちと共有するカタチ。そこに、お客さんの気持ちが合わさって、ひとつのカタチができあがる。カタチは消えてしまうけれど、人々の記憶のなかにとけてゆく、そんな舞台になるように。それではみなさん、本多劇場でお会いしましょう、と、千葉が言っていたので。

 

2014年04月20日 15:00

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