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2014年01月27日
第557回「許される人」
世の中には、許される者と、許されざる者がいます。許される者というのは、何をいっても、というわけではありませんが、たいていの人が言うと場の空気が崩壊するようなことでも、大目に見られる人のこと。嫌な印象を与えない人。そういう意味で、いま、もっとも許される者のひとりは、ふなっしーでしょう。
あの愛らしい表情もさることながら、妙に機敏な動きと、はしゃぎっぷり、どこか拍子抜けな声色は、見ていてまったく嫌な気持ちになりません。多少、強引なことをしていても、まわりが許すどころか、その現象を楽しんでくれます。しかし、どうでしょう。ひとたび、あの黄色の着ぐるみを脱いだとき。生身の人間が同様の言動をしたとき、人は、同様の印象を受けるでしょうか。きっと、そうはならずに、むしろ、嫌悪感が芽生えてしまうのではないでしょうか。ふなっしーならスカートめくりをしても洒落になる可能性は高いけれど、生身の人間ではまったく洒落にならない。同じことでもまったく印象は異なるのです。ここに見えない境界線が存在するわけですが、許されるかどうかは、ゆるキャラかどうか、ということではありません。
生身の人間でも「許される者」は存在します。国民的音楽番組の司会でミスを連発しても許される人。(許していない人もいるかもしれませんが。)歯に衣着せぬ物言いをしても問題人ならない人。それらは、社会的立場やイメージなどの影響が強く、どこでその免罪符を手に入れるのか、「許される者」には、表現可能な幅が広く、また、だれもがなれるわけではないのです。もちろん、何を言ってもいいわけではないのですが、「許される者」は、だれも言えないことを言える権利を持っているのです。
某欧州系の航空会社での対応はあまりに横柄だと言われていますが、同じ横柄な対応でも、それがアジア圏の場合だとどうでしょう。きっと、違う感情を抱くはずです。前者の横柄の向こうにはヴェルサイユ宮殿が見えるのに対し、後者のそれは、万里の長城ではなく、食材に段ボールを使用する人々、並ばない人々、というイメージが見えてしまうのです。同じ横柄な態度を、平等に扱えないのです。日本人の、金髪の人に対するイメージは、ペリーのときから変わっていないのかもしれません。
世の中は、実態よりも、イメージなるものがうごめいていて、それに大きく左右されます。人間は、理論的に正しいかどうかよりも、イメージのいいものを選択しやすい生き物。言葉よりも、言葉の持ち主。たしかにイメージにも要因がありますが、イメージに振り回されすぎている感も否めません。もしかすると、真実は「許されざる者」のなかにあるかもしれないのに、イメージで敗北してしまう。現代はとくに、イメージ社会といえるでしょう。
許される者と、許されざる者。今年、もっとも許されるのはだれなのでしょうか。
2014年01月27日 13:18