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2013年07月21日
第539回「だからといって僕は、それを食べログで調べたりはしない」
「あれ?」
ハンドルを握る手が異常を察知する。手ごたえがない。アクセルを回しても、音が聞こえない。出来の悪さも遂にここまできたのか。踏切で停車中、勝手にエンジンが切れる始末。
「え?ここで?」
電車が通過すると僕は、邪魔になるのでその場を離れ、スクーターのお尻を引っ張るように持ち上げる。
「ほんとにお前ってやつは…」
腹が立つのは、出発するときは、まだまだいけるよ!的な雰囲気を出していること。最初から無理ですと降参してくれればいいものを。玉の汗がアスファルトに落ちてゆく。ここから押していくにも、あの登り坂が気になる。20代ならチャレンジしていたかもしれないが、いまは、精神力はあっても、腰がついていかない。半ばやけくそになりながら、何度もキーを入れなおしては、鉄の棒を踏み込んでみる。
「ったく、もう、買い換えてやる…」
すると突如、手に振動を感じた。尻尾から煙がでている。もう懲り懲りだとため息交じりにヘルメットをかぶりなおすと、少し離れたところの看板が目に入る。水出しコーヒー、BLTサンド。何度も通った道でも、そこがカフェだとは知らなかった。行きつけのカフェができればいいのにと思ってはいるものの、こだわりの強い男ゆえに、そう簡単に「行きつけ」ができない。店の外観や名前、そして「水出しコーヒー」の文字に期待値があがる。しかし、初めてのお店にはいるのは、いささか、勇気のいること。しかも、このタイミングではいったら、でるときまたアスファルトに潤いを与えることになりかねない。ここなら、家から歩いて来れなくもない距離。とりあえず、今度にしよう。そして僕は、この出来の悪い子に運ばれて、踏切を越えていった。
2013年07月21日 14:08