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2013年07月21日

第539回「だからといって僕は、それを食べログで調べたりはしない」




  よりによって、という言葉はこのためにあるのではないかと思うくらい僕はこのスクーターに対して「よりによって」を連発しているのは、いつも家をでるときは順調なのに、きまって出先になると不具合が生じるから。そもそもキックじゃないとエンジンがかからない状況になってから久しいというのに、買い換えようと思いながらもなんだかんだ時が経ち、いまじゃ雑誌のカヴァーにこそなっていないものの、愛着という厄介なものが僕からバイク屋を遠ざけ、気が付けばもう、かれこれ15年くらい、僕を、コンビニやパン屋、おにぎり屋さんなど、ちょっとした場所まで運んでいる。問題が発生するのは、パンやおにぎりを買ったあと。お店からでてエンジンをかけようとすると、ここまで運んできたことが幻かと思うくらい、うんともすんともいわない。「どうした、さっきはこれですぐにかかったじゃないか」といいながら何度キックしても、まるで永遠の眠りに就いてしまったかのように、反応しない。ここまできて急にエンジンがかからないなんて、あまりに卑怯じゃないかと、原付の腹の部分を蹴り下ろす力が増す。行き交う人々の目。10分くらい奮闘してようやくエンジン音が鳴り響いたときには汗びっしょり。諦めて、家まで押して帰ることも何度か。それで後日、家を出ようとすれば、一発のキックでかかったりする。まるで、おちょくっているかのよう。だから、エンジンを切らずにパンを買ってきたりすることもあるのだけど、これだけ散々な目に遭っても僕は、できの悪い子ほどかわいいというものなのか、別れることができない。その日も、ちょっと出かけた際に、「よりによって」がこみあげてきた。





「あれ?」





 ハンドルを握る手が異常を察知する。手ごたえがない。アクセルを回しても、音が聞こえない。出来の悪さも遂にここまできたのか。踏切で停車中、勝手にエンジンが切れる始末。





「え?ここで?」





 電車が通過すると僕は、邪魔になるのでその場を離れ、スクーターのお尻を引っ張るように持ち上げる。





「ほんとにお前ってやつは…」





 腹が立つのは、出発するときは、まだまだいけるよ!的な雰囲気を出していること。最初から無理ですと降参してくれればいいものを。玉の汗がアスファルトに落ちてゆく。ここから押していくにも、あの登り坂が気になる。20代ならチャレンジしていたかもしれないが、いまは、精神力はあっても、腰がついていかない。半ばやけくそになりながら、何度もキーを入れなおしては、鉄の棒を踏み込んでみる。





「ったく、もう、買い換えてやる…」





 すると突如、手に振動を感じた。尻尾から煙がでている。もう懲り懲りだとため息交じりにヘルメットをかぶりなおすと、少し離れたところの看板が目に入る。水出しコーヒー、BLTサンド。何度も通った道でも、そこがカフェだとは知らなかった。行きつけのカフェができればいいのにと思ってはいるものの、こだわりの強い男ゆえに、そう簡単に「行きつけ」ができない。店の外観や名前、そして「水出しコーヒー」の文字に期待値があがる。しかし、初めてのお店にはいるのは、いささか、勇気のいること。しかも、このタイミングではいったら、でるときまたアスファルトに潤いを与えることになりかねない。ここなら、家から歩いて来れなくもない距離。とりあえず、今度にしよう。そして僕は、この出来の悪い子に運ばれて、踏切を越えていった。





 





 





 



2013年07月21日 14:08

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