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2007年02月25日

第257回「新しい生き方」

 「事実は小説より奇なり」という言葉があります。イギリスの詩人バイロンの言葉で、「世の中に実際に起こる出来事は虚構の小説よりかえって奇妙で不思議である」という意味です。たしかに日々のニュースは、これまでどんなに経験を積んできた人さえも驚かせる意外性を持ち、その事実をモチーフに小説がかかれたりするわけだから、現実というものがいかに人間の予想を裏切るものなのかがわかります。
 現在作られている僕たちの未来も、おそらく人間の予想以上のことが作られているわけで、それを僕たちは少しずつ受け入れながら生活しているわけです。毎日ゆっくりと変化しているので、その変わり具合に気づくことは滅多にありません。「今日は、昨日よりもどこか違うなぁ」なんて感じながら生活している人はおらず、どちらかというと、「毎日同じことの繰り返しだ」なんて思いながら生活し、数年たってからその違いや変化に気づくものです。現在からバブル時代を振り返るように、10年前、いや5年、3年前でも、その変化に驚くことでしょう。もしも10年前の僕を覗き見たら、恥ずかしくて赤面してしまうほど、今となってはおかしな生活をしているのでしょう。逆に、10年前の僕が10年後、つまり現在の僕の生活をのぞき見ることができたなら、その光景を受け入れることができないほどに、衝撃的なものかもしれません。それくらい予想外の未来がゆっくりと現実となってやってきているわけです。つまり、僕たちの生き方はほんの少しずつ変化していっているのです。
 では、もしもいま10年後を覗き見ることができたら、どんな光景を目の当たりにするのでしょうか。現代の科学技術ではそれがまだ難しいので、想像力という無敵の力をつかって未来予想図を描いてみたいと思います。その前に、2007年からの10年は、古代や縄文時代、江戸時代の10年とはわけが違います。変化の速度がそれこそ何万倍にもなっています。現代人のほとんどが、この変化についていけず、ストレスになっているわけです。普通に生活しているだけで、新幹線の中にいるようなものなのです。その感覚を保ちつつ想像しなければいけません。
 まず、僕たちにとって一番身近なケータイはどうでしょう。ケータイどころか、ケータイしていることすら感じさせない状況になっていることでしょう。つまり、体の一部、人体に埋め込まれているのです。だからメールを打つときは指さえ使いません。頭の中の脳波でキーボードを打ち、それを送信するのです。その光景は、かつて人類が想像したテレパシーのようにみえるかもしれません。10年前にしてみたら、親子がメールで会話していることを誰も想像していませんでした。パソコンだって、一人一台という時代がくるなんて、あの頃は誰も思っていませんでした。でも実際にはそんな現実が訪れました。テレパシーなんて、と思うでしょうが、そんなことを未来はいとも簡単に現実に変換して訪れるのです。たとえ100年かかりそうなことも、10年くらいで現実にしてしまうのです。それだけではありません。まぶたをぱちんと閉じればそれがカメラとして機能して、メールに添付して送れるようになっているかもしれません。目に映ったものをテレパシーで送る感じです。そうなると、人々の会話も減ってしまうでしょう。おそらく現段階でも、昔に比べたら僕たちの会話の量はぐんと減っているはずです。徐々に減ってきたからその具合に気付いていないだけなのです。だから将来的には、言葉を発したコミュニケーションは激減し、メールのようなデータのやりとりがもっと増えるのでしょう。それだけにリスクもあります。電車で隣に座っているひとに、頭の中にある情報を読み取られてしまうのです。だから個人情報の保護がさらに厳しくなることでしょう。電車といえば、いまのsuicaのような機能も当然人体に埋め込まれているので、ゲートを人間がくぐればいいようになるでしょう。だから、建物の入出の管理もさらに厳しくなるということです。
 それらに伴って生まれるのが、渋滞問題です。これは10年たっても相変わらずなくなりません。ただ、渋滞といっても現在のような車の渋滞ではありません。情報の渋滞です。今以上に情報が錯綜しているわけで、情報の交通整理がいま以上に大変になっているでしょう。年末年始にケータイが使えなくなったように、情報が渋滞してなかなか伝えられなくなっているかもしれません。現在の首都高の掲示板のように、ネット上の渋滞情報が表示されるのです。
 社会全体としては、今以上に個人主義が強くなることも否めません。人々が集まる機会がさらに少なくなるのです。人を集めた映画館をお茶の間に運んでくれたテレビはいま、ワンセグというかたちで、さらに個人のものになろうとしています。人はどんどん個人へと分散していきます。個人というものをさらに尊重し、尊重しすぎたばっかりに、人と人との距離がどんどん広がっていくでしょう。待ち伏せする男がストーカーと呼ばれるようになり、今後はちょっと見つめただけでも犯罪者扱いになってしまうかもしれません。そのくせ、ネット上でのつながりは強化され、そこでのお見合いが普通になり、いままで会ったことのない男女が家族になることが普通な時代になります。ようやくできた家族は個人を重んじ、家族のありかたが変わってしまうでしょう。昔から比べたら現在のあり方だって信じられないと思います。10年後の家族は、どんなときに集まっているのでしょうか。愛はいつ生まれるのでしょうか。家族への引力が今以上に弱まると、子供を今以上に生まなくなってしまうでしょう。そして数少ない子供はさらに過保護になり、老人ばかりの社会で若者が大もうけしているかもしれません。いったい、世の中どうなってしまうのでしょうか。人類は大丈夫なのでしょうか。それとも、人類が滅びる前に、地球が滅んでしまうのだろうか。個人主義は、エゴイズムの裏返しであって、このままでは地球は人類によって滅ぼされてしまいます。
 さすがに、10年先をこまで悲観視しなくてもいいような気もしますが、方向性としては十分ありうる話だと思います。となると、いま僕たちにできることはなんなのでしょうか。それは、人間主体の目先の幸福に流されないことでしょう。むしろ、これまで人間にとって幸福だと感じていたこと、正しいと思われていたことを、あらためて問い直す必要があります。それはつまり、新しい価値観、新しい生き方を探すことかもしれません。僕たちはもはや、いままでの価値観ではなく、新しい価値観で生活しなければならなくなったのです。新しい生き方、それが僕たちに課せられた任務なのです。こうした僕の未来予想図さえも超えた未来が待っているのでしょうが。

1.週刊ふかわ |2007年02月25日 10:00

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