2007年11月18日
第294回「地球は生きている10〜children of nature〜」
それは、ある映画との出会いでした。もう10年以上前の作品で、当時見たときは、なんとなく綺麗で悲しい映画だなぁくらいしか感じられなかったのだけど、大人になってあらためて観てみると、以前は気付くことがなかったそのおそろしいほど核心に迫るストーリーに、ぐいぐい引き込まれてしまったのです。
アイスランドを舞台としたその映画は、「春にして君を想う」という映画です。フリドリック・トール・フリドリクソンというダジャレみたいな監督の、1991年の作品です。ただこの「春にして君を想う」というのは邦題で、この作品には原題がありました。以前見たときはその邦題の陰に隠れて気付かなかったのですが、それを目にしたときに、深い霧のあとの快晴のように、世界を覆う薄い膜みたいなものがつるっと剥がれるような感覚になりました。それはまさに、いま世界中の人々が意識しなくてはならないことです。「children of nature」、これこそ僕たち人間が絶対に忘れてはならないことなのです。
僕たちはいうまでもなく、母親の体から生まれてきました。でも、イメージをそこで切り離してはいけません。もっと視野を広くもって眺めるのです、人類というものを。僕たちが生きていくためには、いろんなものを食べて栄養をとらなければなりません。いろんな生命を体の中に摂取してるから生きていけるのです。つまり、いろんな生命を犠牲にして、僕たちは生きているのです。ゆえに、人間は決して、人間だけでは生きていけません。ひとりでは生きていけないのです。物理的には切り離されていても、生きるうえでほかの生命と切り離すことはできないのです。すべてはつながっているのです。
時折「母なる自然」「母なる大地」などという言葉を耳にしますが、自然が母であると同時に、僕たち人間は自然の一部であることを意識しなくてはなりません。えてして人間対自然という構図をイメージしてしまいがちですが、自然という大きな世界の中で人間はその一部分を担っているにすぎず、対峙するものではないのです。だから自然を破壊することは、自分自身を破壊するようなもので、アイスランドの大地も、フィンランドの森や湖も、僕たちとつながっているのです。
そしてなにより、僕たちは大自然に囲まれるとなんだかとても落ち着きます。海を眺めていると心が和みます。僕たちが自然に囲まれて安心するのは、僕たちが自然の中から生まれてきた、自然の子供たちだからなのです。なのに僕たちは、そのことに気付かずにいたのです。いや、気付かないフリをしていたのです。
青森の六ヶ所村で稼動を始めたプルトニウム再処理工場は、万が一のことがあったら日本列島を、場合によっては地球をも壊滅させる威力を持っています。うまく稼動させたとしても、核廃棄物が沖合いの海に流されることは避けられません。海に流せば必ず生態系が狂います。すでにイギリスではそういった事例が見られています。いずれにせよ、そんな不安と隣りあわせで生活している人たちがたくさんいます。どうして唯一の被爆国である日本が、わざわざ列島に原子力発電所を54箇所も設置し、さらにはその数百倍もの威力を持った再処理工場を作るのでしょう。当然日本だけではなく、世界のいたるところで原子力発電所は増え続けています。原子力発電所は果たして正解なのでしょうか。これが本来あるべき姿なのでしょうか。そこまでしないと人間は暮らせないでしょうか。地球上に暮らすって、そんなに大変なことなのでしょうか。どうしてもっと早く、国民に教えてくれなかったのでしょうか。
節電を訴える会社も、オール電化を進める会社も同じです。くさいものにフタをするように、真実を国民に教えてくれません。でも今回フタの下に眠るものは、臭いどころの騒ぎではありません。何百年と熱を持つ史上最悪の燃料です。それが日本中をトラックで運ぶようになるのです。これだけ重要なことなのに、テレビでは扱いません。扱うことができないのです。
ちなみに、水と地熱が豊富なアイスランドでは、水力発電と地熱発電がほとんどで、原子力はもちろん、いまや火力発電には一切頼っていません。自然の力を利用し、クリーンエネルギーだけで電力をまかなっているのです。旅をしていると時々地熱を利用した発電所を見かけますが、そこから噴き上がる煙はまさに自然、そして地球を守ろうとする心の現われのように見えます。
だからといって、日本もアイスランドと同じようにしようということではありません。風土も人口も違います。それでも、意識を持つことはできるはずです。意識することはお金も場所もとりません。国民全体の意識が高まれば、日本独自のエネルギー供給を見出せるはずなのです。地球を滅ぼす危険性をもつ施設を稼動させなければ生活できない国になってしまったのは、その意識が欠如していたからなのです。
自然の中で生きるって、そんなにも難しいことなのでしょうか。僕は、そんなことはない気がします。うまく欲望をコントロールさえすれば、自然を破壊せずに済むはずなのです。お金を儲けるために頭をつかうのではなく、自然を守るために知恵をしぼるのです。人間のあるべき姿、人々の生活をもう一度考え直すときなのです。温暖化はつまり、そのきっかけにすぎないのです。決して古代の人のような生活をするのではありません。大事なのは、意識を変えることです。自然の力を信じ、地球が生きていること、そして僕たちが自然から生まれた子供たちであることを意識することが、すべての始まりなのです。「children of nature」この言葉が世界を変えるのです。
1.週刊ふかわ |, 2.地球は生きている |09:40 | コメント (2) | トラックバック
2007年11月11日
第293回「地球は生きている9〜のどが渇かない街〜」
「どうしてだろう...」
僕はその日、ほとんど水を飲まずにいることに気付きました。なんだかのどが渇かないのです。もしかするとそれは、一人旅で口数が少なかったからかもしれません。時期も関係しているのかもしれません。個人差も当然あるでしょうが、でもそれにしたって普段必ずペットボトルを持参して車に乗る僕ののどが全然渇かないことは、少なくとも空気が澄んでいることを証明しているのではないでしょうか。空気が澄んでいるからのども渇かないし、虹もくっきり端から端まで見えるのです。空気が澄んでいるから、気分がよくなるのです。でも、ないのは「のどの渇き」だけではありません。日本にあって、アイスランドにないものが、たくさんあったのです。
日本にあってアイスランドにないもの、まず挙げられるのは、ビルなどの高い建物です。都市部でもあるのはせいぜい5階建てくらいで、それ以外はほとんど2階建ての家屋です。だから、空が日本で見るそれよりも何倍も大きく見えます。郊外へ踏み出せば、建物自体見あたらなくなります。家屋もほとんどなくなり、赤い屋根をした教会が時折現れる程度です。さらに商業的な看板も一切ありません。渋滞は当然のこと、信号待ちどころか信号すらないのです。ほかの車を見かけずに何十キロも走ることだってあります。山の合間をただ道が走っているだけです。自然の色だけで構築された世界、そして偶然にしてはうまくできすぎているその自然界の配色に、感動すら覚えるのです。正直、車を走らせることが申し訳なくなります。
日本にあってアイスランドにないもの。それはトンネルです。調べたわけではないのでひとつもないとはいえませんが、まず見かけません。こんなにも山ばかりなのに全然ないのです。日本だったら山があったら穴をほってトンネルを作ります。でもアイスランドではそうはならないのです。山があったら仕方ない、なのです。日本のように、山の中に穴を貫通させるなんていう考え方はそもそもないのです。山があれば、その裾野を走るか、周囲を走るしかないのです。自然を破壊しないのです。自然や自然の景色がしっかりと守られているのです。誰の所有物でもない景観にこそ、そこにいる人々を映す鏡だと思いますが、まさにアイスランドの人々の精神がそこに反映されているのです。
日本にあってアイスランドにないもの。それは大げさな柵や注意書きの看板です。大きな滝のところにそういったものがなく、ほんとうに簡単に飛び込むことができてしまうのです。もし過剰な柵や看板などに囲まれていたら、いくら名所といわれても、せっかくの景色が台無しです。ここでも、ありのままの自然が残され、尊重されているのです。でも尊重されているのはそれだけではありません。人間の判断力です。判断力を信じているから厳重な柵をつくらないのです。「ここに柵を作らないから事故が起きたんだ!」というのは、ある意味責任転嫁であって、人間には本来判断する力があるのです。それがまだ備わっていない子供たちは大人たちが守ればいいのです。アイスランドでは、自然だけでなく、人間の判断力も信じられているのです。判断力を信じられているから、それだけ多くの自由が与えられるのです。
アイスランドにいると、普段の生活がいかに制約を受けているのかがわかります。それに慣れてしまって気付かないのだけど、僕たちの生活がいかに受動的であることがわかります。それはルールがあるから仕方ないのですが、いろいろな局面で自分の行動にブレーキをかけているのです。アイスランドの生活を新幹線とするならば、日本のそれはJR山手線のようなものです。動いたらすぐ停まる、そんな生活を送っているのです。だから知らず知らずのうちに、ストレスばかりが蓄積していくのです。
アイスランドの人々にもストレスはきっとあると思いますが、過剰なルールもなく、それぞれの判断力が信じられている社会で受けるプレッシャーは、僕らの社会からしてみれば、ほんのわずかなものだと思います。たとえストレスが蓄積しても、それは雄大な自然が吸収し、人々から解き放ってくれるでしょう。アイスランドには、ストレスを粉砕してくれる環境があるのです。なのに僕たちは、その装置を破壊して、便利さだけを信じてしまったのです。僕たちが、海を眺めたり、山を登ったときに感じる開放感は、決して気分の問題じゃないのです。自然には、そういう力があるのです。
僕の気のせいかもしれませんが、アイスランドの人たちは待たされることでイライラしていないように思えました。気候によって自分の予定が変わることに対して憤りなどを感じていないのです。事実を受け止めて、「じゃぁ、仕方ない」と、受け入れることが上手なのです。人口の違いは当然ありますが、何時間も飛ばずに2時間おきに飛ぶか飛ばないかを判断されるようなことがあれば、日本ではどっかしらのカウンターで怒っている客への応対に苦労する様子が見られるものです。しかし、そういった光景がまったくみられませんでした。それはきっと人々にゆとりがあるからでしょう。ゆとりがあるからイライラもしないのです。でも、ゆとりというのは、日本の「ゆとり教育」というような単に時間があるとか、経済的なものだけでは手にはいりません。自然を破壊していたらいつまでたっても本当のゆとりを手にすることはできないのです。
日本にあってアイスランドにないもの、それは数え上げればきりがありません。アイスランドにないものはたくさんあって、もしかすると3ヶ月もいたら日本に帰りたくてしょうがなくなるのかもしれません。でもそこには、ありのままの自然、ありのままの地球がありました。それと同時に、アイスランドの人たちの心にある、自然を残そうとする意識、があったのです。
だからログハウスに住みましょう、とか森の中で暮らしましょうということではありません。もちろん、トンネルを元に戻しましょうということでもありません。ただ少しだけ、これまでの生き方を見直しましょう、ということです。それは大きくなにかを変えることではないのです。自然の力を信じることが大切なのです。
人間は、自然を軽視し、文明に振り回され、便利さに翻弄されていました。便利もある程度は必要だけど、ありすぎてはいけないのです。現在の人類は未来の人類に比べどこか残酷に生きているのです。その残酷な部分を少しずつそぎ落としていかないといけないのです。おそらくあと何十年もしたら、現在の暮らしを憐れむことでしょう。僕たちが、昔の人は大変だったんだなぁと想うように、未来の人も現在の人々の生き方をみて「大変だったんだなぁ。まだ気付いていなかったんだなぁ」と思うことでしょう。もしかすると人類は、この何千年という歴史の中で、人としてのあるべき姿をまだ見つけていないのかもしれません。
でも、アイスランドをはじめ、北欧の人々はもう気付いているのです。僕たちが気付かなかっただけで、もうずっと前から知っていたのです。人間がいい暮らしをするために環境を破壊してしまっては、意味がないということ。自然を破壊することは、それはやがて自分たちにかえってくること。自然とともにいきなければ、豊かな生活がおくれないこと。そしてなにより、僕たちが、自然の子供であることを。
1.週刊ふかわ |, 2.地球は生きている |09:33 | コメント (0) | トラックバック
2007年11月04日
第292回「地球は生きている8〜ノーザンライトな夜〜」
「まだ5時か...」
目を覚ますと、ちょうど夜が明けようとしていました。時差ボケもあって、いつもやたら早起きになってしまい、3時とか4時くらいに目を覚ましてしまいます。
「ちょっと散歩でもしてこよう」
ホテルの朝食は7時から。それまで待っているのもなんなので、僕はアークレイリの町をぶらぶらすることにしました。ホテルのすぐ横の階段をのぼると教会があり、そこから街並みを見渡すことができます。霧がかったフィヨルドの中には、飛行機雲のような細長い雲が、何百メートルにものびてゆっくりと移動していました。フィヨルドという地形ならではの雲なのでしょうか。しばらくすると、もやに包まれた夜明けのアークレイリに、ようやく太陽が山の向こうから顔をだしはじめました。
「帰りたくないな...」
その日は、レイキャヴィクに戻ることになっていました。アークレイリがあまりにきれいな街だったので、ほんの2日間しかいないのに、その地を離れることがとてもさみしくなります。僕は、目の前に広がる景色を目に焼き付けるように眺めていました。
朝食の時間にあわせホテルに戻ると、すでにたくさんの人たちがその場所に集まっていました。ホテルの朝食というのは旅行中の楽しみのひとつで、どんなに寝不足でも朝食だけは欠かせません。普段の生活では朝食なんて食べないし、食べてもヨーグルトひとつくらいなのに、旅先となるとまず抜くことはないのです。日本の旅館で味わう和朝食も好きですが、ホテルのビュッフェの、いろんなパンやハムとかソーセージとかフルーツとかジュースとか、普段思いっきり食べられないものが大量に並んでいるあの感じが好きなのです。子供の頃は、ハムとかサラミばかり食べることを禁じられていたので、その反動もあるのかもしれません。また、朝食をいっぱい食べておくと、なにより一日の原動力になるのです。でも、そんな楽しい朝食のときにも、ひとつ懸念していることがありました。
「またあの小さい飛行機に乗るのか...」
それだけが僕の不安でした。まるでセスナ機かと思わせるような小さい飛行機にさんざん揺さぶられた体の記憶がよみがえってきます。レイキャヴィクに戻るには、どうやってもあれに乗らなければならないのです。そう思うと気が重くなりました。
好きな街を離れる寂しさと、小さい飛行機に対する不安とが交錯するなか、荷物をまとめ、ホテルをチェックアウトしました。空港に到着し、手続きを済ませると、予想通りの小さい飛行機が待っていました。
「またキミか...」
「またとは失礼だな」
「今日は大丈夫なの?」
「全然平気だって。信用してよ!」
「そう言ってこの前めちゃめちゃ揺れてたけど」
「え、そうだったっけ?」
飛行機には結構なれたものの、どうしても小ぶりのはまだ駄目なようで、筋肉痛になるほど体中に力がはいってしまいます。でもその日は天候が穏やかだったこともあり、来るときはそれどころではなかった景色も少しは楽しめ、レイキャヴィクの街並みも、帰りはしっかりと見下ろすことができました。
「この前ほどは揺れなかったな...」
なぜだかレイキャヴィクに来ると雨が降るようで、その日も灰色の雲が空を覆っていました。空港からタクシーでバスターミナルに移動した僕は、そこからバスに乗り換えてある所に向かいます。というのも、アイスランドでの最終日を過ごそうと決めておいた場所があったのです。
「いよいよブルーラグーンだ」
それは、レイキャビクから1時間ほどのところにありました。いまやアイスランドの中で、もっとも有名な観光地といっても過言ではありません。アイスランドで一番有名で大きな温泉、そして世界最大の露天風呂、「ブルーラグーン」に向かっていたのです。これまでも散々温泉に入っていましたが、最終日も追い討ちをかけるように温泉にはいることにしていたわけです。国際空港から近いので、このブルーラグーンにたっぷりつかり、旅の疲れをとってから帰る人が多いそうで、僕もそれにならったわけです。
「ノーザンライトイン...」
翌早朝に出発を控えていた僕は、ブルーラグーンに隣接する、ノーザンライトインというホテルで最後の夜を過ごすことになっていました。ホテルといっても一階建てのかわいらしい建物で、従業員も仰々しくなく、ペンションか友達の家に招かれたような感覚になります。チェックインした僕は、すぐに荷物を置き、さっそく世界最大の露天風呂に向かいました。
「帰るときまた連絡ください」
ホテルの人がブルーラグーンまで送ってくれると、たぶんそんなようなことを言って去っていきました。ミーヴァトンネイチャーバスは、町営露天風呂といった感じでしたが、ブルーラグーンは、外観こそ自然に溶け込んでいるものの、中はとても近代的で、おしゃれなスポーツジムのようにシャワーだの更衣室だのが備わっていました。ちなみにアイスランドの温泉は水着着用なのですが、入る前に体全身を洗ってからじゃないといけません。かけ湯程度では駄目なのです。
「真っ青だ...」
扉を開けると、青い世界が待っていました。曇った空を忘れさせるほど、青空のような温泉に白い煙がたちこめています。ミーヴァトンのそれに比べるとお湯の温度は低いのですが、その分何時間でもはいってられそうでした。
「さっそくやってみるか」
ブルーラグーンを訪れたら必ずやることがあります。それがここの名物、かつシンボルにもなっているのですが、いわば泥(マッド)のパックです。泥といっても茶色とかではなく、見た目は白くて洗顔料のようです。それを男女問わず、顔に塗るのです。だから、温泉に入っている人たちはみな、真っ白な顔をしているのです。
青い温泉には、たくさんの人たちがいました。カップルや夫婦、友達同士や家族連れ、当然、僕のようにひとりではいっている人もいます。アイスランドの人だけではなく、ヨーロッパはもちろん、アメリカ、中東、アジア、つまり世界中の人々がひとつの温泉にはいっていました。僕も数々の温泉にはいってきましたが、外国の人たちに囲まれてはいったことはありません。でもそこに違和感はなく、むしろ理想郷にいるような感覚になりました。日本も同じ温泉国なのだから、そういった世界中の人たちが集まる温泉ができたらいいのにと思います。それこそ、温泉サミットとかやったらいいのです。温泉サミットをして、日本の温泉、日本の情緒、そして日本人の奥ゆかしさを世界にアピールできたらどんなに素晴らしいことでしょう。きっと世界中の人たちが集まってくるはずです。
「どこからきたの?」
「日本です。どちらですか?」
「オーストラリアだよ」
「そうですか。遠くから来たんですね」
温泉にはいっている人たちはみな、幸せそうな顔をしています。地球が用意してくれた温泉で、世界中の人々が笑顔になっているのです。いったい、誰が戦争を望んでいるのでしょう。
ノーザンライトの夜は静かに訪れました。あと2週間ほどずらせばここからでもオーロラが見えるのだそうです。それこそ、ブルーラグーンにつかりながら眺めることもできるのです。アイスランドの家庭料理を食べた後、「もしかしたら」と何度も窓の外を確認しましたが、やはりまだ現れてはくれませんでした。いつかは露天風呂にはいりながらのオーロラを味わってみたいものです。
「まだ真っ暗だ...」
翌朝ホテルをでると、外はまだ薄暗く、ひんやりとした空気に覆われました。アイスランドは、もう冬の支度を始めているようです。「ノーザンライトイン」と刻まれた表札が、光に照らされていました。
「また必ず泊まりにきますね」
空港まで送ってもらうと、握手を交わし、自然とそんな言葉がでてきました。たとえ一泊しかしていなくても、その中にいろんな会話があったから、ホテルの人との別れはつらいものです。そして僕は、ロンドン行きの飛行機に乗り、ほんのり明るくなってきたアイスランドをあとにしました。
1.週刊ふかわ |, 2.地球は生きている |09:55 | コメント (0) | トラックバック
2007年10月28日
第291回「地球は生きている7〜distance(羊との)〜」
それはまるで、遠くに見える白いゴルフボールのようでした。僕が立っている黄土色の台地の下に広がる果てしない草原に、ある白い物体を見つけたのです。
今回のアイスランドドライブの楽しみは、ダイナミックな景色だけではありません。途中に現れる放牧された羊や馬たちも、観光客の心を和ませ、楽しませてくれます。アイスランドでは、夏の間たくさんの羊たちが放牧され、いたるところで草を食べている姿を見ることができます。一日中草を食べている羊たちはとても愛らしく、見ているだけで思わず笑みがこぼれてしまいます。また、アイスランドの馬はポニーのようにこじんまりしていて、何頭か並んで立ったまま寝ている姿はとても滑稽で、力が抜けてしまいます。ちなみに、アイスランドの馬は絶対に外来種と掛け合わせることはないそうで、その品種が守られているそうです。
そんな羊や馬たちを見かけるたびに、ついついスピードを緩めてしまいます。特に羊たちは道路のすぐ近くにいることが多く、そうなると車をとめずにはいられません。一応、柵はあるものの、場所によっては何匹か出ていたり、道路を横切る羊の親子を見かけたりもします。
「だめかぁ...」
ずっと草を食んでいるからなにも気付いていないように見えても、ある程度のところまで近づくと、急に逃げてしまいます。どんなにこっそり近づいても、ちょっとした気配で、一斉に逃げてしまうのです。たまになかなか逃げないのがいたりしても、やっぱり触らせてはくれません。写真をとってもいつも後ろ姿ばかり。どうしてもそこに、distance(羊との)があったのです。だからといって、羊を見かけるたびにいちいち車を停めてチャレンジしていては、いつまでたっても目的地に着きません。そこで僕は、羊とのコミュニケーションの仕方を変えることにしました。
「おーい!」
羊たちの群れを見かけると僕はアクセルをはなし、スピードを緩めます。そして窓を全開にし、群れに向かって大きく叫ぶのです。すると、のんびりと草を食んでいる羊たちが一斉に顔をあげてこっちを向くのです。まるで、なんども練習をしたかのように、皆同じタイミングでこっちを見るのです。その姿といったらなんとけな気でかわいいのでしょう。あまりの愛らしさに胸がキュンとします。触ることはできないものの、なんだか羊たちと会話をしているようで、すごく心が温かくなるのです。だから僕は、群れを見かけるたびに窓をあけて羊たちに呼びかけていたのです。
「こんなところにもいたのか...」
静寂に支配され、恐怖に怯える僕の目に映ったのは、これまでずっとドライブを楽しませてくれた羊たちでした。眼下に広がる果てしない草原に、まるでゴルフボールのように、3匹の羊が見えたのです。
「一応、叫んでみようか...」
僕は、いつものように「おーい」と叫ぼうとしました。しかし、そう思うものの、なかなか声をだすことができません。静寂に支配されたその世界で、発した声がすぐに静寂に吸収されそうで、声を出すことに恐怖を覚えたのです。しかし、勇気をふりしぼって思いっきり声を出してみることにしました。
「おーい!!」
やまびこのような反響もなく、乾いた声が静寂の中に吸収されたそのときでした。
「あ!」
点のように小さくはあるものの、かすかに揺れていた三つのゴルフボールの動きがとまりました。はるか向こうの3匹の羊が、遠く台地の上に立つ日本人を見つめていました。
「聞こえたんだ...」
こんなにも遠いのに、こんなにも近くに感じたことをありません。羊とのdistanceが縮まった瞬間でした。地球に残された最後の一人とさえ感じていた僕の渇いた心を、3匹の羊たちが潤してくれたのです。僕は、これまでの人生でそのときほど羊に感謝したことはありません。そのときほど愛おしく思ったことはありません。そして一生、この瞬間の感動を忘れぬことでしょう。しばらくすると、羊たちはまた黙々と草を食べはじめました。
「よし、戻ろう!」
羊たちに癒された僕は、エンジンをかけ、少し先のところでUターンをし、逃げるように来た道を帰っていきました。
戻ると、標識には「デティフォス」と書かれています。やはり道は間違っていないようです。どこか心残りではあるものの、僕はさらに一号線のリングロードを東へと進んでいきました。
「あれ?まただ...」
再び、デティフォスを示す標識が現れました。心のどこかでヨーロッパ一の滝に対する未練があった僕は、吸い寄せられるようにその標識の方向へ進んでいくと、いわゆる「悪路ではあるものの、トヨタでも大丈夫だよ」くらいの道が続いていました。
「もしかして、この道だったの?」
どうやら、僕が最初に踏み入れたのは、たしかに滝に通じるものの、旧道みたいなもので、いうなれば「別にここからも頑張ればいけるけど、いくなら4WDじゃないとだめだよ」みたいなことだったのです。そこを無理やり2WDの車で踏み込んでいっていたのです。対向車がまったくないのも当然でした。
それでもそこから1時間くらいかかりましたが、どうにかヨーロッパ一の滝、デティフォスにたどりつくことができました。相変わらず、ヨーロッパ一の規模の滝にたいしても、ちゃんとした柵などはなく、自然がありのままの姿で残されていました。山を削るように勢いよく流れ落ちる氷河の水は、激しい音と瀑布を生み、周囲を圧倒しています。もう自然にはかなわないというよりほかありません。自然の作り出した景観は、強さと美しさとを兼ね備えた、超芸術といえるでしょう。
「まぁとにかく見られてよかった」
本来の目的であるデティフォスの滝を体感した僕は、暗くなる前に帰ることにしました。9月のアイスランドの日没は、だいたい夜9時くらいです。僕は、あいかわらず草を食んでいる羊たちに声を掛けながら、来た道を戻っていきました。太陽がようやく山の向こうに隠れようとしています。帰り道がもはや、懐かしく感じるようになっていました。
2.地球は生きている |09:39 | コメント (0) | トラックバック
2007年10月21日
第290回「地球は生きている6〜静寂〜」
「おかしいなぁ...」
行けども行けども、滝が出てくる気配がありません。滝どころか、どんどん雲が迫ってきます。まるでこのまま天空の世界へ行ってしまいそうな気がしました。
「よし、今日は絶対デティフォスを見るぞ!」
デティフォスとは滝の名前で、その規模はヨーロッパ一と言われています。朝ホテルを出発した僕は、ガソリンを満タンにしてアークレイリの街をあとにしました。デティフォスの滝は、昨日のネイチャーバスのさらに先にあるので、途中までは同じルートになります。それだけ、海外での運転に対する抵抗や緊張も、もはやなくなっていました。
「とりあえず、いっとくか」
昨日見たばかりなので寄るつもりはなかったものの、どうしても体が言うことをきかず、通過することはできませんでした。いつ見ても同じだろうと思っていたゴーザフォスの滝は、あんなにも吹き荒れていた風が嘘だったかのように、今日はとても穏やかな空気が流れていました。自然も人間と同じように、機嫌のいい日と悪い日があるのかもしれません。
「とりあえずここも、いっとくか」
昨日はいったばかりなので寄るつもりはなかったものの、次いつ来られるかわからないと思うと、ここもどうしても素通りできません。結局この日も、ミーヴァトンのネイチャーバスにはいることになりました。しかも、昨日は僕のほかに7、8人(これも相当少ないですが)いたのに、そのときはまさに貸し切り状態で、まったく人の気配がありません。たった一人でブルーの温泉に浸かっていると、地球にあたためてもらってる、そんな気分にもなります。もはや楽園というよりも、地球を独り占めしている気分でした。
「さぁ、ここからだぞ」
すっかりぽかぽかになった体で窓を曇らせた車は、未開の地へと進んでいきました。しかし、デティフォスの滝まで直行するつもりだったのに、出発してすぐ、車を停めることになりました。
「これは通過できない...」
それは、僕が子供の頃見ていたアニメの世界でした。いまにもマンモスがでてきそうな荒涼とした黄土色の大地に、ものすごい勢いで煙を吐き出している小山。セメントのような灰色のどろっとした液体が沸騰するようにぐつぐつ泡をたてている池みたいなのが点在しています。それは、さっきの楽園から、いっきに地獄に突き落とされたかのような光景でした。原始時代にタイムスリップしたかのようにも見えます。それにしても煙の噴き出し方が尋常じゃありません。いったいどれくらいの年月をかけて噴き出しているのでしょう。とめどなく吐き出される白煙は、はるか遠く、溶岩台地の上を這うように流れていきます。その光景は、地球の呼吸というよりもむしろ地球のおならといったほうが適切かもしれません。
「デティフォス...ここだ!」
気になるものを見つけては車を停めていたので、目的地の標識を見るまで予想以上に時間がかかってしまいました。相変わらず控えめなその標識によると、デティフォスの滝は、そこから28キロとのことでした。
「なんか書いてある...」
標識どおりに曲がるとそこには、「4WD以外の車、進入禁止」という看板が立っていました。道が悪いため、通常の車でなく、オフロードタイプの車でないと駄目ということです。僕のトヨタ車は、オフロードのものではありません。
「まぁ、悪路だけど、トヨタでも平気だよ」
途中に立ち寄っていた観光案内所のおじさんの言葉が浮かびました。看板はきっと大げさで、4WDじゃなくても問題ないんだ、案内所のおじさんの言葉を信じよう、そう勝手に判断すると、トヨタ車は舗装されていない道をゆっくりと進んでいきました。
「それにしても、ずいぶんひどい道だな...」
たしかに道は悪く、ヨーロッパ一の滝までの道のりなんだからもっと整備されていてもいいはずなのに、穴ぼこだらけで放置されている感じでした。それらをよけながらだったので、どうにもスムーズに進みません。
「ほんとにこの道であってるのかな...」
それにしてもなかなか滝が現れる気配がありません。いけどもいけどもでこぼこ道が続きます。すれ違う車はもちろん、あとにも先にも車はなく、どうも普段利用されている気がしません。どこから落ちてきたのか、大きな岩がごろごろと転がっています。気付くと、僕のクルマは360度、一面乾燥した黄土色の台地に囲まれていました。地球の果てまで見えてしまいそうな見渡す限りの荒野に、ついに不安が期待を追い越してしまいました。
「ここでもしも穴にはまって身動きがとれなくなったら...」
嫌な予感しかしなくなってきました。車が動かなくなったら助けを呼ぶにも呼びようがありません。もはや、歩いて引き返すには遠すぎるところまで来ています。街に戻れないどころか、日本にも帰れません。下手したら命にまで関わってきます。地面に落ちている白く枯れた枝が、白骨のように見えてきました。
「ここで引き返すわけにはいかない!」
ここまで来て、ヨーロッパ一の滝を見ずに帰ったら一生後悔すると、僕は気持ちを奮い立たせ、ただ前だけを見て進んでいきました。
「頼むぞ!世界のトヨタ!」
あとはもう、日本が誇る、世界のトヨタの技術を信じるしかありませんでした。どの国に行っても看板をみないことはない、世界のトヨタの力を信じて、僕はひたすら天空へと続く荒涼とした台地をさまよっていました。
「よし、あの坂を上ったら」
なんども繰り返す起伏の度に、ため息がこぼれました。坂をのぼったときに果てしなく続く道が見えると、あそこまで行くのかと、気持ちが萎えてきます。そこで僕は、どうにかテンションを維持するために、カバンの中からあるものを取り出しました。
「頼むぞ!世界の亀田!」
取り出したのは、世界に誇る日本のおかき、亀田の柿の種(わさび味)でした。これを食べてどうにか不安を軽減させようとしたのです。海外でこそその看板を見たことはありませんが、亀田の柿の種(わさび味)はまさに世界に誇る日本の味です。亀田に限らず、こういったおかきをはじめ、日本のお菓子は世界に誇るものなのです。お菓子といってもパティシエが作るようなものではなくて、いわゆるコンビニで売っているお菓子。ポテトチップなどのスナック菓子にしても、その緻密に計算された味に匹敵する海外のお菓子はないといっても過言ではありません。ハッピーターンのような絶妙な味は、そう簡単には真似できないのです。もっというと、おいしい和食を食べてると、結局これが世界一だと思うことがあります。海外の料理はどこか味付けでごまかしている感があるのに対し、日本の料理は、その素材の良さを存分に引き出して勝負している気がします。だから飽きないし、疲れないのです。日本人の僕がいうのだから説得力ないかもしれませんが、いずれにしても、日本のお菓子には、日本人の味に対するこだわりと、繊細な心が反映されているのです。
「世界のトヨタ!世界の亀田!」
ひたすらそう口にすることで、どうにか不安を払拭しようとしていました。この2大スポンサーに支えられて、前に進んでいたのです。しかし、イケイケムード(なつかしい!)もそう長くは続きませんでした。
「やっぱり間違えたのかも...」
アルファベットではあるものの、英語ではありません。アルファベットでは表記できない文字も混ざっています。僕は、あの時見た標識が、本当にデティフォスと書かれていたのか確信できなくなっていました。満タンに表示されていたガソリンの目盛りも減り始め、唯一の食料であるお菓子もなくなりました。そして、もう一度地図を見ようと、車を停め、サイドブレーキをかけたときです。
「えっ...」
体が妙な感覚に襲われました。それまで悪路を走る音で騒々しかったけれど、車を停めた途端、目に映る大自然の中から音がなにも聞こえていないことに気付きました。ただ、エンジンの音だけがガタガタとなっています。そして僕は、ゆっくりと車のキーを回しました。
それは、音のない世界でした。まるで地球上の音すべてがリモコンでピッとミュートされたかのように、プツッと切れてしまいました。目の前には荒涼とした台地が延々と広がり、視界にはこんなにも広大な景色があるのに、まるですべてが遮断されたかのようになにも聞こえてきません。ただ雲は流れ、太陽が燦燦と輝いています。世界が一瞬にして、静寂に包まれました。そして、音のない世界に対する感動は、やがて恐怖へと変わっていきます。怖くて音を発することすらできません。静寂が、すべてを支配していました。まるで、音を発することが禁じられているかのようです。静寂は、どんなに激しく強い音をも飲み込んでしまう、この世でもっとも強い音なのかもしれません。
「どうしたらいいんだ...」
静寂がこんなにもおそろしいものとは知りませんでした。静寂が支配する世界、音が閉ざされた世界に僕は、地球を独り占めというよりも、地球の最後の一人になったようでした。
車から降りると、ひとつひとつの行動から生じる音がすべて、静寂に吸収されていきます。怖くて深呼吸すらできません。突如UFOでも現れてさらっていくんじゃないだろうか、そんな不安もよぎります。それでなくとも、どこか違う惑星に来てしまったような感覚になります。心臓をぎゅっと掴まれるような、感動と恐怖とが激しく拮抗している中、僕の目にあるものが映りました。
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2007年10月14日
第289回「地球は生きている5〜虹と滝と温泉と〜」
「すごいことになってる...」
飛行機を降りた僕の目の前に、地面から地面へとコンパスで描かれたように、端から端までくっきりと虹がかかっていました。
「こっちに来て正解だったんだ...」
こんなにもしっかりと地に足を着けている虹は、これまでの人生で見たことありません。それはまるで、ここに来たことが正解だったと言っているようにさえ見えました。というのも、もともと今日はここに来る予定ではなかったのです。
「11時半?」
その日は、朝から「春にして君を想う」の舞台となっているイーサフィヨルズルに行くことになっていました。朝7時半の飛行機に間に合うようにホテルをチェックアウトして国内線の空港に向かい、順調にチェックインまでは済ませたものの、いつまでたっても搭乗案内がされません。なかなか搭乗する雰囲気にならないのです。そして出発時刻をすぎたころ、ようやくアナウンスが流れました。
「11時半?」
僕は耳を疑いました。まさかと思いつつも、そばにいた夫婦に聞きました。
「いま、11時半って言いました?」
「あぁ言ってたね、まいったよ」
そう言って笑うと、ふたりは空港内の小さなカフェにはいっていきました。天候によって飛ばない日も珍しくないと聞いてはいたものの、まさか自分が該当するとは思いませんでした。ましてや、限られた時間でたくさん周りたい僕にとって、4時間待ちの宣告は相当なダメージです。話によると、11時半になれば飛べるわけではなく、そのときにまたウェザーチェックをして判断するとのことでした。
「まぁ、これも旅行の醍醐味か」
前回のフィンランドでの教訓をふまえ、今回は空港のカフェでのんびり待つことにしました。ではせっかくなので、この待ち時間を利用して、なぜ僕が旅に出るのかを、お話しましょう。
おそらく小さい理由を挙げればきりがありませんが、大きな要因としては二つあります。まず一つ目は、「そこに知らない世界があるから」です。これだけメディアが発達し、世界中のことはなんでも目にすることができる時代ですが、やはり自らその地を訪れないと、そこにある空気を感じることはできません。体全体で感じないと本当の意味で「知る」ことはできないのです。見知らぬ地で感じる空気は、お風呂のお湯を入れ替えるような新鮮な気持ちと、武道館から東京ドームライブに発展するような、人間のキャパシティーが拡張される感覚を与えてくれます。また、見知らぬ地だからこそ生じる、期待と不安も重要な要素です。なにをするにも体が覚えてしまっている日常生活に比べ、旅は不安と安堵の繰り返し、ときに危険も伴います。でも、現地の人たちと触れ合いながら不安を乗り越え、目的をひとつひとつ達成していくと、大げさですが、「生きてる!」って思うのです。これって結構重要なのです。どうしてもステレオタイプな生活では、いちいち「俺!生きてる!」なんてなかなか感じられません。でも旅をしていると「生きている実感」が自然と湧いてくるのです。温泉マニアな僕は、当然、国内の温泉旅行なんかも好きなのですが、それはどちらかというと「落ち着き」や「癒し」を求めるもので、海外のひとり旅とは求めるものが違います。海外での旅は、会話をすること、バスに乗ること、ひとつひとつの行動に不安や責任が伴い、それだけに達成感も増幅します。見知らぬ地で体感するすべてが、「生きている実感」につながるわけです。ではまだ搭乗アナウンスが流れないので、コーヒーでも頼みましょうか。
もうひとつの理由、それは「クリーンアップ」です。パソコンをやる人は聞いたことがあるかもしれませんが、早い話「整理整頓」です。パソコンの中にあるハードディスクはときどきクリーンアップをやらないと、データが乱雑に並びすぎて要領よく収納できなくなってしまいます。ぐちゃぐちゃに並べられたCDたちをアーティスト別に整理するように、クリーンアップすることで、情報を整頓するのです。ハードディスクだって時折クリーンアップをしないといけないのだから、人間の脳も時々クリーンアップしないと破綻してしまうのです。毎日大量にはいってくる情報を、脳の中で「必要」「不必要」などに分別処理しなくてはなりません。でも人間の脳は、ハードディスクのようにファイルで整理できません。とても乱雑に散らかっています。だからこそ脳のクリーンアップが必要なのです。それが僕の場合、旅の間に行われるのです。
最近は「待つ」という機会が少なくなりました。あまり「待つ」ことが好きな人はいないと思います。それは退屈だからです。でも、退屈っていうのも人間には必要なのでしょう。日常生活においては、退屈な空白部分はすぐになにかで埋められてしまいます。無駄が排除され、脳をクリーンアップするタイミングがないのです。でも旅をしているといろいろなことがあって、そんなに要領よくいきません。ぼーっと景色を眺めているだけでも、その間に頭の中が整理され、なにが頭のなかにあるのかが浮かび上がってくるのです。便利さで無駄な時間を奪われた現代人こそ、ぼーっとしている時間や、空港で待ちぼうけをくらっている時間が、ときには必要なのです。
散らかった部屋を整理したら、「こんなとこにあったんだ!」と、ずっと探していたお気に入りのCDが見つかることもあります。ケースと中身がひとつずつずれたままだったのを、ちゃんとケースと中身を一致させると、どのCDがないのかがわかります。冷蔵庫の中も、整理することで今日何を作れるのかわかるものです。同じように脳も、整理整頓すると、自分が何をするべきかが見えてくるのです。また、旅は体で感じる情報が新鮮なので、いままでにないアイデアが浮かんだりします。新たな調味料が加わるようなものです。脳というのは不思議なもので、考えようとすると浮かばず、一旦はなれると勝手に浮かび上がってくるのです。だから、机の前でじっくり考えているより、いっそ旅でもしちゃったほうがいいのです。そうして脳の中がすっきりしてくると、ようやく自分と向き合えるようになるのです。つまり、脳をクリーンアップすることで、「本当の自分」というものが浮かび上がってくるのです。
見知らぬ地を訪れることで得る「生きている実感」と、脳をクリーンアップすることで見えてくる「本当の自分」。結局僕は、海外を旅しながら、自分という世界を旅しているのかもしれません。あ、アナウンスが流れました。
「15時?」
結局11時半になっても飛ぶことはなく、13時をすぎてから、次のウェザーチェックは15時過ぎだというアナウンスが流れました。
「目的地を変えることにしました。いろいろありがとうございました」
一緒にカフェで時間をつぶしてくれた夫妻にそういうと、僕は行き先をイーサフィヨルズルからアークレイリというところに変更しました。もともとそこはイーサフィヨルズルのあとに行く予定だったところです。
「え、これ?」
ようやくゲートをくぐることができた僕の前には、とても貧弱そうな飛行機が待っていました。
「どしたの、早くのりなよ」
「ず、ずいぶん小さいんだね」
「なに言ってんの、ここじゃ僕くらいのサイズが普通だよ。ほら、はやくのったのった!」
重い足取りで、ステップを上がりました。
「ほんとにこれ大丈夫?」
窓からは、むきだしになったプロペラが見えます。
「これじゃセスナ機と変わらないよ...」
しばらくすると、そのプロペラが回転し始めました。周囲の人たちがだれも心配そうな表情をしていないことを糧に、どうにか不安を乗り越えようとしたとき、突然、アナウンスが流れました。
「どしたの?」
皆ベルトをはずし、荷物を降ろしています。
「技術的な問題みたいだよ」
隣の人が教えてくれました。
「今日飛行機乗るなってこと?」
僕は度重なるアクシデントに、なんらかのお告げ的なものを感じました。
「ちょっとどうなってんの?」
「いや、ごめんごめん、すぐ直るから。ときどきあるんだよ」
結局、確認作業にはいり、再びロビーで待たされることになりました。不安は募るものの、もう予定を変更しようがありません。
「もう、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫!まったく問題なし!っていうか、さっきの段階だって僕は飛べてたと思うんだよね、みんな心配性だからさ」
結局、飛行機がレイキャヴィクの地を離れたのは15時。小さい飛行機はアイスランド第二の都市、アークレイリへと旅立ちました。窓からの眺めはよほどダイナミックだったのでしょうが、正直風で揺れて、怖くてじっくり見れたものではありませんでした。
「おいおい平気?」
「ぜんぜん...平気!うわっ!」
思いっきり風に煽られながらも、機体はフィヨルドの入り江に吸い込まれるように、着陸しました。すっかりフラフラになって飛行機を降りた僕を迎えてくれたのが、あの大きな虹だったのです。
「虹はこっちでは珍しくないんですか?」
「あぁ、そうだね、よく見るよ」
レンタカーの人はそういって、僕を車まで案内してくれました。急遽使うことになったのでいろいろ手続きが大変だったのですが、それぞれ温かく対応してくれました。
「ついにきたぞ!」
二俣川の運転免許試験場で取得した国際免許証がはじめて役に立つ時が来ました。これまで一応は持っていても実際に使うことはなかったので、今回が初の海外ドライブです。
「頼むぞ!世界のトヨタ!」
さすがに車は慣れているほうがいいと思ったので、国産にしていました。運転暦10年以上ありますが、初めての路上教習のような緊張感がありました。
「やばい、アイスランドで運転してる!」
初めての海外での運転、しかもアイスランドでのそれは、多少ルールの違いはあるものの、慣れるのに時間はかかりませんでした。特に郊外なので、交通量もなく、とても走りやすいのです。車はフィヨルドの山をなぞるようにぐんぐん登っていきます。すると、僕の視界にまた虹が現れました。
「え、まじで?」
しかしそれは単なる虹ではありませんでした。虹は山に向かってかかっていたのですが、さらにそれよりも外側にもうひとつの虹が、つまり、虹が二重にかかっていたのです。
「やっぱりこっちにしてよかったんだ...」
来るべくして来た、そんな気がしました。イーサフィヨルズルも気になりますが、そこはまた別のときに来ようと思いました。
アイスランドは、北海道と四国をあわせたくらいの広さですが、その中をリングロードと呼ばれる一号線がJR山手線のように一周しています。信号がまったくなく、商業的な看板もなにもありません。また交通量も少ないので、車窓からのぞくダイナミックな景色のなかにほかの車が映らないのです。また街灯もありません。反射板だけです。必要最低限のものだけがあって、自然をそのままにしているのです。当然のようですが、トンネルがありません。山があれば、波に乗るように上を通る。そうでなければ周囲を回る。山があるから穴を掘ろう、ではなく、山があるから仕方ない、なのです。技術の問題じゃないのです、気持ちの問題なのです。国全体でトンネルがひとつもないかはわかりません。でも自然を残そうという意識がひしひしと伝わってくるのです。場所によっては、野鳥の産卵時期に通行止めになるところもあります。日本との違いは、風土の違いだけではない気がするのです。
わざわざドライブ用に持ってきたアルバムを聞きながら、窓から見える雄大な景色を堪能していました。雄大な自然の景観とチルアウトサウンドが見事にマッチするのです。いかに、普段目にする環境が音に反映されるかがわかります。ビョークのサウンドがうまれるわけです。また、景色はワンパターンではなく、ゲームのステージがかわるように、10分おきにその表情が変わるので、全然飽きないのです。
ちなみに僕はこういうとき、普段聴かないアルバムを持っていきます。そのほうが非現実的な世界にトリップできるし、景色も空気もぜんぶ、そのアルバムの中に詰め込むことができるわけです。そのアルバムを帰国してから聴くと、写真以上に旅行中目にしたもの、体で感じた空気が蘇ってくるのです。30を過ぎて見つけた、人間の脳を使った遊びなのです。
「ここだ!」
一時間ほどで目的地のひとつであるゴーザフォスの滝の看板が現れました。看板といってもうっかりしていると気付かないような大きさなのですが、ほかに何もないから小さくても気付くのです。滝の近くまで車でいくと、ほかの車はありませんでした。有名ではあるものの、観光バスが来るようなところではなさそうです。ドアを開けると、ゴォーという豪快な音と四方八方から吹きつける風に覆われました。風に煽られながら音のするほうに歩いていくと、下から白いしぶきが炎のように大量に噴き荒れているのが見えます。一人では怖くて近寄れないくらいです。そこに吸い寄せられるように歩いていくものの、激しい風に体を跳ね飛ばされそうにもなります。岩の上を渡りながらどうにか全体が見える所まで辿り着くと、体が妙な感覚におちいりました。それはどこか、見てはいけないものを見てしまったような気分になったのです。神聖な領域に吸い寄せられそうになるものの、近寄りがたい空気は、昨日のグトルフォスと同じ感覚ですが、ただ違うのは、滝の前に僕一人しかいないということ。嵐のような音を立ててしぶきを撒き散らしている滝と対峙していると、本当にいまにも神が現れてきそうな気がするのです。
「ここに神がいる...」
その感覚は、決して間違っていませんでした。というのもこの「ゴーザフォス」というのは「ゴッドフォール」つまり、「神の滝」といういう意味だったのです。これには歴史的な背景があるのですが、ここでは省略します。ただ、神ではないものの、別のものが僕の前に現れました。
「虹だ...」
今回も普段目にするものとは違いました。どういうわけかその虹は、曲線でなく直線、つまり虹がタテにかかっていたのです。荒々しくうねる滝の前で天にのぼるように一本の虹が現れたのです。アークレイリの街にやって来たとたん、いままで見たことのない虹に何度も遭遇したのです。
「いやぁ、すごかった...」
すっかり全身砂まみれになりながら、さらにリングロードを30分ほど進むと、左手に大きな湖が見えてきました。ミーヴァトンという湖で、ここにはソフトボールくらいのマリモが生息するそうです。それにしても、荒々しくなったり穏やかになったり、圧迫されたり開放されたり、周囲の景色はドライバーを退屈させません。しばらくすると、黄土色の山に煙がもくもくと出ているのがみえました。
「あそこだ!」
そこは、全身砂まみれになった体をきれいにする場所でした。旅の疲れを癒す場所、そうです、温泉です。砂漠のオアシスのように、荒涼とした大地にミーヴァトンネイチャーバスと呼ばれる温泉がありました。さっそく入場料をはらって水着に着替え、全身をしっかり洗ってから扉をあけると、そこにはこれまでとは違った景色がひろがっていました。
「楽園だ...」
目の前が一面ブルーでした。空の色と同じブルーの温泉が広がって、そこから白い湯煙がたちこめています。どうして青いのかもわからないまま、ゆっくりとブルーの温泉に体を沈めました。湯気の向こうに見える果てしない自然の姿に、どこかとんでもない時代にタイムスリップしてしまったような気にもなります。日本の温泉も好きですが、さすがにこの開放感は、山梨のほったらかし温泉を越えました。夕日になろうとしている太陽を浴びながらブルーの温泉につかっていると、なんだかすべての病気も治してくれそうです。次にいつ来られるかわからないと思うと、いくら満喫しても、なかなか出られませんでした。
「続きは明日にしよう」
もうひとつ見たかった滝は翌日にまわし、今日は日が暮れる前にホテルに戻ることにしました。
1.週刊ふかわ |, 2.地球は生きている |09:24 | コメント (0) | トラックバック
2007年10月07日
第288回「地球は生きている4〜distance(プレートとプレートの間の)〜」
「これがプレートか...」
僕は、大地の裂け目が幾筋にも走ったユーラシアプレートの上に立ち、川の向こうにある北米プレートを眺めていました。
普段からプレートを意識して生活している人はいないと思います。地震のときにだって、プレートによるものだとはあまりイメージしません。でも一度、大陸を動かすそのプレートを目の当たりにすると、少なからずそのイメージは変わります。
そもそもプレートとは、これはあらためて調べたのですが、地球の中心部にあるマグマが地表に噴出して固まったもので、その上に大陸がのっています。大陸をファンデーションとすると、プレートが地球の地肌といったところでしょうか。地球上にはいくつものプレートが存在するのですが、それらがゆっくりと移動し、大陸が動いているわけです。だから通常、プレートを見ることはできないのですが、そのプレートが地表にあらわれている場所があるのです。
シンクヴェトリルという場所は、なんとユーラシアプレートと北米プレートの二つのプレートが生まれ、東西に分離している、まさに地球の裂け目を体感できる場所です。この二つのプレートはいまも左右に広がっていて、毎年2センチほど、そのdistance(プレートとプレートの間の)を広げているのです。おそらく、ガイドのおばちゃんから聞こえた「distance」はこのことなのでしょう。また、前述の世界初の民主議会アルシングが開かれたのもこの地で、いまはそこに国旗が掲げられています。
この二つのプレートが反対側の端っこで接しているポイントがあるのですが、そこがまさに日本なのです。アイスランドで生まれ、二つに分かれたユーラシアプレートと北米プレートは、日本という国で再び遭遇していたのです。ちなみに、アイスランドの面積は北海道と四国をたしたくらいで、人口は30万人。ちなみに僕の生まれ育った横浜市港北区の人口と同じです。人口は違えど、ともに島国で、火山が多く、温泉も多い。アイスランドと日本は意外な接点を持っていたのです。
ひとつのプレートの中にも、いたるところに裂け目がみられます。ギャウと呼ばれるのですが、人間でいう皺のようなものですね。だから無数にのびる裂け目を見ると、どこか、地球が生き物のように感じられるのです。
「虹だ...」
雲が流れ、青空がのぞくと、はるか遠くの山に虹がかかっていました。ユーラシアプレートの上で、北米プレート上にかかる虹を眺めているわけです。
「たしかに、地球は生きている...」
バスに戻ると、ガイドのおばちゃんが一人一人回って宿泊先のホテルをきいています。僕は、宿泊先を伝えると、オーディオプレイヤーを装着し、さっきとは逆側バージョンの巨大PVを鑑賞することにしました。
翌日、すっかり時差ボケのせいで真夜中に目が覚めてしまった僕は、夜明け前のレイキャヴィクを散策することにしました。というのも、ほとんど市内を観光する時間を設けていなかったのでチャンスはここしかなかったのです。また、街が動き出す前に散策すると、いつもとは違った表情が見られるのです。
街のシンボルとなっているのがハトルグリムスキルキャ教会です。どうしてこんなに、というくらい難解な発音ですが、カタチはとてもスマートで、白いので一見スペースシャトルのようにも見えます。この教会以外高い建物がなく、だいたいどこにいてもこの教会が見えるので、地図を持たなくても本気で迷うことはなさそうです。また、開館中は中から市内を一望でき、教会の前には、コロンブスの500年前に北米大陸(プレートではありません)を発見したレイブル・エリクソンの像が建っています。
散策しているうちに、ようやく暗闇も淡くなってきました。でもまだ車も人もなく、静けさが漂っていて、ほんのり灯りを映し出すチョルトニン湖や、朝もやに包まれた港はとても神秘的に見えました。ホテルに戻って朝食を済ませると、早々にチェックアウトをし、タクシーで国内線の空港に向かいました。
「アイスランドってもっと寒いと思ってました」
「そうだろうね。でもそんなに雪も降らないんだよ」
「そうなんですか」
英語の準備体操をするように運転手と会話をしていると、10分ほどで空港に到着しました。
「あ、おつりはいいですから」
スムーズに展開する英会話に気をよくした僕は、そんなことを言ってタクシーを降りました。ここからが、本当の一人旅の始まりでした。
1.週刊ふかわ |, 2.地球は生きている |08:45 | コメント (0) | トラックバック
2007年09月30日
第287回「地球は生きている3〜呼吸〜」
「なんだかよくわからないなぁ...」
ツアーガイドのおばちゃんの英語は、50人ほどの外国人に混じるひとりの日本人のためにわざわざゆっくり話すはずもなく、完全にネイティヴな話し方で解説をしていくものだから、最初のうちは頑張って知ってる単語を拾っていたものの、なかなか追いつかず、すぐに落伍してしまいました。しかも、ツアーガイドのジョークでみんなが笑ったりすると一層孤独感を味わうので、僕はガイドを聞くのを諦め、音楽に身を委ねることにしました。
そのバスの向かう先は、おそらくアイスランドに来た人は必ず訪れるといっても過言ではない、ゴールデンサークルです。そこにはアイスランド特有の自然や歴史的な見所が集中しているので、それらのポイントを結び、ゴールデンサークルと呼んでいるのです。レイキャヴィクから日帰りで回れるので、とりあえずここはツアーに乗っかっておこうと、ネットで予約しておいたのです。
レイキャヴィクの街中でこそ見かけた建物も、市内を離れるとすぐになくなり、それに代わるようにダイナミックな山が次々と現れ、あっというまに観光バスは大自然の中にすっぽりと覆われていました。霧がかった山々はとても神秘的で、日本のように木々がなく、ごつごつとした荒々しい山肌が迫ってくると、その迫力に圧倒されます。そうかと思うと、5分に一度くらいで車窓に登場する放牧された馬や羊たちが、気持ちを和ませてくれます。僕は巨大なPVを楽しむように、音楽を聴きながら窓の外を眺めていました。
延々と続く荒々しい山肌は、普段アスファルトの上で生活している僕からしたら、まるで地球の素肌、すっぴんの地球を見ているようでした。フィンランドの大自然は、森と湖で「美」という言葉が合います。日本の自然もどちらかというと「美」のほうでしょう。それに対し、そこにある自然は「荒」。なんのコーティングもしていない、荒々しい自然の姿が目の前に現れてくるのです。その景観に感動するとともに、自然の脅威を感じずにはいられませんでした。
「なに、どしたの?」
バスが停車すると、みんな降りる準備をはじめました。慌ててオーディオプレイヤーをしまった僕は、どこに着いたのかわからないまま、バスを降りて人の流れについていくと、ゴォーという地響きのような音が聞こえてきました。見ると下から白い霧のようなものがものすごい勢いで噴き上がっています。
「これは、やばいかもしれない!」
そこに吸い寄せられるように雨の中走って近づくと、予想を遥かに超えた景観が待っていました。
「これは...」
高さ30メートル以上の滝、と数字で表してもぴんとこないでしょうが、直角に降下する海とでもいいましょうか。かつて地球が丸くないと思われていたときの海の果てのようなものが目の前に広がっていました。これ大丈夫なの、と心配になるほどたいした柵もないので、いつでも飛び込んで我が身をささげることもできる状態です。それでなくとも、見ているだけで吸い込まれそうになります。吸い込まれそうにもなるし、近寄りがたい力を感じるのです。どこか人間が近づけない、神の領域といった印象さえ受けるのです。思い切ってぎりぎりのところに立とうとすると、久しぶりに「足がすくむ」感じを覚えました。霧雨と滝のしぶきが舞っている中にいると、なんだか全身が浄化されるような気分になりました。
「ちょっと撮りすぎたな...」
使い捨てカメラの時代だったらどうしていたのでしょう。デジカメではあるものの、毎回充電器を持ってこないから枚数よりも電池との戦いになります。ましてやいつも無駄に枚数を重ねてしまうので、ひとつの場所で3枚までと決めたりするんだけど、このグトルフォスと呼ばれる滝は、何枚撮っても撮り足りませんでした。
「では、次の出発は14時ですので、それまでに戻ってきてください」
途中、道の駅みたいなところで昼休憩になりました。いろいろメニューが並んでいるものの、なかなかリスクを背負って見知らぬメニューをオーダーできません。でもこういうときは決めていることがあります。海外旅行経験でわかったことのひとつは、「迷ったらフライドポテトにしろ」です。これに関しては、世界的にはずれがありません。フライドポテトばかり食べていては太ってしまいますが、いきなり現地の料理をチャレンジして悲しい気持ちになるよりは、まずは手始めにフライドポテトで口ならしをするのがいいでしょう。また海外の場合「フレンチフライ」と言ったほうが通じます。それにならって僕は、一人でフライドポテトを黙々と食べていました。ただ、ここは単なる休憩のためだけのポイントではありません。ここは、地球が生きていることを確認できる、重要な場所だったのです。
アイスランド版道の駅の向かい側に広がる裾野には、いたるところから煙があがり、温泉地のような硫黄のにおいが漂っています。この中に、今回の目的を果たすためには絶対に見なくてはならないものがありました。それは、ゲイシールと呼ばれる間欠泉です。間欠泉とは、一定の時間を隔てて周期的に熱湯や水蒸気を噴出する温泉なのですが、ゲイシールはかつて70メートルもの高さまで噴き上げていました。しかし、数年前に現役を引退していまはひっそりと穏やかな生活を送っています。そのかわり、現在はその横のストロックルという間欠泉が頑張って数分おきに30メートルほどの豪快な噴出をおこなっているのです。そのストロックルに向かおうとしているとき、遠くでまさに温泉が吹き上がるのが見えました。
「あ、あがってる!!」
遠くではあるものの、その勢いと高さに圧倒されます。いわゆる噴水のように整然としておらず、まるで下から爆発したかのような勢いです。噴出のあとの大量の霧がなにごともなかったかのように風に流されてきます。
「みんな待ってるんだ」
ストロックルの前に来ると、ほかの観光客がみな、カメラを構えて彼を囲んでいます。直径3メートルくらいの中央にある噴出口が、沸騰したお湯のようにボコボコと泡をたてていました。
「そろそろか...」
なんとなく、その場に緊張した空気が流れました。噴出口が大きく膨張したかと思うと、反動を付けるように大きくへこみ、ものすごい勢いで温泉が噴出されました。
「あがった!!」
それは、まさに呼吸でした。人間が呼吸するように、地面から温泉が噴き上がる様子は、地球が呼吸しているようでした。
「だめだ、よくわからない...」
その都度動きは微妙に違うのでタイミングよく撮影するのがなかなか難しいです。さらに毎回ホームランというわけではなく、サイズがまちまちで、運がよければホームランを3連続で見られるのですが、小ぶりのものが続くこともあるのです。なかなか目の前で大きいのがこないので僕はストロックルを離れ、温泉が湧き出ている別の場所を回っていました。普段温泉にはいっているのだからそんなに珍しくはないものの、地表からボコボコ湧き出ている光景はとても新鮮で、ついつい周囲に流れ出た液体を触ってしまいます。
「あ!!」
そんな、離れているときに限って、遠くでストロックル選手が大きく噴き上げたりします。ホームランを2連続で打ったりするのです。僕が少し離れると、歓声が聞こえ、あわてて振り返ると巨大なサイズなのです。結局、その場ではLサイズを見ることができたものの、写真でのお持ち帰りはMサイズしかできませんでした。
「たしかに、地球は生きている...」
ガイドのおばちゃんの話を聞き流し、Mサイズの写真を確認していると、バスはさらに山の中、舗装されていない道にはいっていきました。
「distance?」
彼女の言葉からその英単語だけが僕の網にひっかかりました。
「もしかすると次は...」
その言葉で、バスがどこに向かっているのかわかりました。
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2007年09月23日
第286回「地球は生きている2〜雨のレイキャヴィク」
「もう、12時か…」
ロンドンのヒースロー空港で乗り換え、アイスランド航空でケプラヴィーク空港に到着する頃にはもう日付が変わろうとしていました。国際空港のわりにはとてもこじんまりしている建物を出ると、ひんやりした空気が体を覆います。僕は目の前に停車している市内行きの大きなバスに乗りこみ、出発を待ちました。
アイスランドというとまず「アイルランドじゃなくて?」という感じできかれることが多いのですが、アイルランドはイギリスの西に位置していている国で、アイスランドはそのさらに北側、北極寄りに位置します。ちなみにエンヤがアイルランド出身で、ビョークがアイスランドです。なんかわかりますね。以前からとりつかれたように北欧北欧言っていますが、通常、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、そしてこのアイスランドの5カ国が北欧です。地理的には他の4カ国と離れているものの、ノルウェーからの移民が多かったことや、色が違うだけの国旗をみると、この5カ国を北欧と呼ぶのが適当なのでしょう。
ちなみに、アイスランドは9世紀まで無人の島で、最初に定住したのは修行のためにやってきたアイルランドの修道士たちでした。その後、ノルウェーからやってきたフロキという人物が移住したのですが、あまりの寒さで根負けして島から引き上げたのです。その際にフィヨルドの浮氷を見た彼が「アイスランド」と名づけたそうです。
本格的な移住がはじまったのは870年ごろです。インゴゥルブルという人物がある岬に到着すると、そこで飾り柱を海に投じました。3年後に漂着した場所に居を構えることにしたのですが、それが現在の首都レイキャヴィクです。その後、ノルウェーから自由をもとめてやってきたヴァイキングが押し寄せると、もともといたアイルランドの修道士たちは、彼らに全ての土地を明け渡しました。ちなみにレイキャヴィクとは「煙の湾」という意味で、火山によって発生した温泉によって湾いっぱいに湯煙があがっているのを見たヴァイキングたちが名づけたそうです。「氷の国」のなかの「煙の湾」ということです。
また、自由と平等を求めてやってきたヴァイキングたちがルールを定めようと、アルシングと呼ばれる民主議会を開いたのですが、これが世界で最初の民主議会となりました。世界初の憲法、世界初の議会制民主政治ということです。もう一ついうと、アメリカ大陸の発見はコロンブスで有名ですが、実の所、それよりも 500年も前に、アイスランドのレイブル・エリクソンが発見していたのです。彼は、本来向かっていたグリーンランドに向かう途中に嵐に遭い、遭難します。そしてたどり着いたのが見知らぬ大陸で、ブドウがたくさんあることから彼は「ヴィンランド」と名づけました。その場所が現在の北米大陸だったのです。しかし、先住民との争いで入植は失敗したために、アイスランドへと引き上げることになります。そしてその500年後、新大陸発見の栄誉はコロンブスに渡ってしまうのです。
また、「アイスランド」という響きは、まるで北極や南極のような極寒の地をイメージさせますが、実はそんなことはなく、メキシコ暖流のおかげで比較的温暖で雪も多くはないのです。やはり6〜8月が観光シーズンで、イギリスをはじめとするヨーロッパはもちろん、アメリカやカナダなど、世界中の人々が夏のアイスランドを満喫しに行きます。ちなみに物価は高く、たとえばペットボトルの水がいまのレートだと400円弱といったところです。
「こんな遅くて大丈夫かな…」
しばらくして動き出したバスはひたすら真っ暗な世界を突き抜けるように走っていきました。街灯がないので窓からはなにも見えません。感動は明日にとっておくことにしました。市内のバスターミナルに到着してさらに小さなバスに乗り換えると、順番に宿泊ホテルまで送ってくれました。ようやくホテルの前で降りたときはもう深夜一時。薄暗いロビーをスーツケースをカタカタひきながら歩いていくと、スーツの男の人が迎えてくれました。
「ミスターフカワ?」
こっちが名乗る前に、そう尋ねてきました。最近は、ほとんどの予約をネットで済ませているのですが、心のどこかでまだ「大丈夫かな」という不安が残っています。だから、それがちゃんとできていたりすると、ほっとするのです。この不安をひとつずつ片付けていく感じがまたクセになるのですが。
「さぁ、ここはどうだろう…」
部屋に到着してしばらくベッドに横になると、思い出したようにケータイの電源を入れました。少し前に買い換えたケータイは、幸か不幸か、何の手続きもなくベルギーでもフィンランドでも、電波が入りました。トランジットのロンドンでも当然のようにつながったので、結果はなんとなく予想できました。
「え?」
画面には圏外と表示されていました。これまでは最初は圏外になっても、電波を探してしばらくするとアンテナが立ったのですが、いくら待っても圏外のままです。
「これはもしかして…」
そうです、さすがのドコモもアイスランドにはアンテナがありませんでした。うれしいようなさみしいような、複雑ではあるものの、7:3でうれしいほうが勝っていた気がします。つながるとどうしても見てしまうので、たまにはケータイに振り回されない生活もいいものです。
翌日は、アイスランドに来た人は必ず訪れるという、ゴールデンサークルのツアーが控えていまいた。翌日といってももう数時間後に集合だったので、僕は時差ボケなんだかよくわからないまま、すぐに就寝することにしました。
「雨か…」
翌朝、窓からは雨のレイキャヴィクが見えました。高いビルなどは当然なく、かわいらしい屋根の家屋が並んでいます。こういう、いざというときの天気は、日頃の行いが反映されるものだと思っていますが、ヨーロッパの街は、とても雨が似合うので、そんなにテンションもさがりません。窓からの眺めを写真に収めた僕は、朝食を済ませ、外国人でいっぱいのバスに乗り込むと、大きなバスはゴールデンサークルへと動き出しました。
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2007年09月16日
第285回「地球は生きている1〜旅立ち〜」
そのとき僕は、ロンドンに向かう飛行機の中にいました。海外ロケなどの仕事ではありません、海外旅行です。こんな夏休みでもお正月休みでもないない時期に海外旅行とはなかなかのんきなものですが、前々から企画していたわけではなく、ある意味衝動的に旅立ってしまったのです。その国のことがある日突然気になって、気になりだしたらとまらなくなって、まるで恋するように気持ちが抑えられなくなってしまったのです。恋の病のように四六時中そのことを考えるようになってしまった僕は、その日からネットなどでひたすら調べ、気付けば旅行会社に電話をしていました。もうこうなると駄目なのです。自分の意思ではとまらないのです。
ただそれでも僕の心の中には、すこしひっかかっていることがありました。社会人としての責任感のようなものです。果たして、まだひな壇芸人から卒業していない僕が、こんな時期に海外旅行に行っていいのだろうか。ましてやこの前フィンランドにいってきたばかり。今回もし決行したら今年に入って3回目(仕事を除く)の海外旅行、年末にも行ったら、一年に4回ということもあり得ます。だから、どうにかこの抑えられない気持ちを抑えなければ、我慢しなくてはと思ったのです。そのために僕は、誰かに強く「駄目だ」と言われよう、そう思ったのです。
「この前って、社長はなんか言ってた?」
フィンランドに行ったのは6月末のことです。
「ふかわらしいね、と言っていました」
「あ、そう...」
「なんでですか?」
「いや、この前いったばっかりだから多分だめだと思うんだけど」
「はい、なんですか?」
「もしも、また海外行きたいっていったら、やっぱりだめだよね...」
僕は、「駄目だ」といわれる流れを作っていました。マネージャーに駄目と言われてあきらめようと思っていました。
「大丈夫じゃないですか」
「え?大丈夫?!」
「はい、大丈夫と思いますよ」
「え、どして?この前行ってきたばっかりで怒られないかな」
「いや、ハワイとかで遊ぶなら別ですけど、そうじゃないんですよね」
「そ、そうだけど」
「この前のフィンランドも仕事に反映されてますし、大丈夫ですよ」
「あ、そう...」
「ちなみに、どちらに行かれるんですか?」
「アイスランド、なんだけど」
「アイスランド?ってどこでしたっけ?」
「北欧といえば北欧なんだけど」
「勉強のためであれば、全然いいと思いますよ。社長もそこらへんは理解していると思いますし」
僕は、予想外の返答に、嬉しさよりも戸惑いのほうが多くを占めていました。
「ちなみにアイスランドだと、なにしにいくんですか?」
「なにしに...ってわけじゃないんだけど、いろいろとみたいものがあって」
「そうですか。まぁ、とにかく遊びじゃないのであればいいと思います」
「あ、そう...でもまだ大決定じゃないからもしなにかあればいって」
僕の気持ちを抑えるどころか、拍車をかけたマネージャーの言葉が、実質上のゴーサインになりました。放水されるダムの水のように、アイスランドへの想いは一気に流れ出しました。
「チケットの発券おねがいします」
僕はすぐに旅行会社に電話し、仮でおさえていた航空券を手配してもらいました。予定を組んでいたのでうそれにあわせてホテルや国内線の飛行機の予約などをネットで済ませ、のこすは国際免許の取得だけになりました。国際免許というと、どこか大げさな印象を受けますが、実は手続きは簡単で、15分ほどで終了します。なぜ知っているのかというと、これまでの海外のときも万が一のときのために国際免許証を一応持ってはいたのです。「運転できる」という気分を取得するために。でも結局、なんだかんだ国際免許が活躍することはなかったのです。でも、今回ばかりは取らないわけにはいきませんでした。というのも、アイスランドは鉄道が走っていないのです。
「アイスランド、アイスランド...」
僕は、本の背中を指でなぞりながら、アイスランドの本を探していました
「な、ない...」
しかし、地球の歩き方なら当然あるだろうと思いきや、どこの書店を訪れても、そこにアイスランドの文字はありませんでした。
「そんな馬鹿な...」
すべてが網羅されていると思っていたあのシリーズさえも、アイスランドに関しては単体のガイドブックを発行していなかったのです。(実際には、ヨーロッパ編で少し扱っていますが)
「よろしければ、ガイドブック郵送しましょうか」
結局、アイスランド大使館に電話しては質問攻めをしていた挙句、別のガイドブックなどを郵送してもらいました。
「電車がないのか...」
なので、主要な移動手段はバスかタクシーになります。当然、現地にはバスによるガイドツアーもあるのですが、僕の行きたい所はそういったものがなかったのです。なので今回は、これまでのような「気分」の取得でなく、本当に国際免許が必要だったのです。
ラジオを終えた僕は、まだ薄暗い中、六本木ヒルズからそのまま成田に向かい、ロンドン行きの飛行機に乗りました。アイスランドは、チャーター便を除く、日本からの直行便はありません。一般的には、コペンハーゲンかロンドンでの乗り継ぎになります。ロンドンまでが12時間、そこからアイスランドまでが3時間ほどです。ちなみにマネージャーには言いませんでしたが、僕の中ではちゃんと目的がありました。しっかりとしたサブタイトルがあったのです。それは「地球が生きていることを確認する旅」です。
「果たして、確認できるだろうか...」
そして僕は、今回の旅用に編集しておいたオーディオプレイヤーを装着し、オレンジジュースを飲みながら、大使館から送ってもらったアイスランドの本を眺めていました。
1.週刊ふかわ |, 2.地球は生きている |09:30 | コメント (0) | トラックバック