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2020年12月01日
第856回「涙の理由」
また、泣いてしまいました。また、醜態を晒してしまいました。もはや、この読者の皆さんにとっては、見慣れた光景でしょう。むしろ、大の大人がいつまでメソメソしているのだと、お怒りの方もいるかもしれません。
少なくとも、嘘泣きだとは思われていないでしょうが、自分でも泣きたくて泣いているわけではないのです。溢れてきてしまうんです。ダメだ!これはまずい!と思っても止められず。心のお漏らし。どうにかしたいのですが、歳を重ねるごとに悪化している気がします。
ただ、これだけは言わせてください。私は、泣き虫ではありません。なんの説得力もないですか?でも、本当にそんなに泣く男ではないのです。全米が泣いても、私は泣かないし、むしろ仏頂面。みんなが感動した!涙が止まらなかった!というものは、逆にどうしてこれで泣けるのだろうと疑問を抱きます。だから、なんでもかんでも泣いているわけではないのです。
どうやら人の優しさや愛情。美しいものに触れると、ダメなのです。柴田理恵さんや徳光和夫さんのように、ワイプで抜かれて、いい感じで涙を拭ったりはできないのです。泣かせようとするものには全然うるっとしないどころか、嫌悪感を抱き、虫酸が走ってしまいます。
以前、映画を観て、決してそれは感動を呼ぶような作品ではなかったのですが、劇場を後にして車のエンジンをかけようとしたら、ぶわーっと涙が溢れて、しばらく動けなかったことがありました。時間差で込み上げてきたのです。舞台を観に行っても、途中から一人だけずっと泣いていて、楽屋へ挨拶に行っても、源泉かけ流しの温泉のように、とめどなく涙が溢れることが多々ありました。
とんぶりの応援大使就任の際は、大館の地元の皆さんの温かさや、子供たちの純粋な表情に胸を打たれ、滝のように涙を流していました。それをVTRで見ている時もまた決壊。テレビカメラの前で泣くなんて、リラックスしているからかもしれませんが、もう少し緊張感を持っていた方がいいのでしょうか。
かつて、「いいとも!」卒業の際も大変でした。涙が止まらなくて、なかなか挨拶できず。ただ、卒業が悲しいからではなく、みんながあまりに優しく接してくれるから。共演者の愛情を感じたから。
「きらクラ!」の時もありました。かつては「泣いた赤鬼」の朗読を聴いて「泣いたふか鬼」が姿を現しましたが、悲しいから涙が溢れるのではありません。ベートーベンの「皇帝」に包まれた、その美しさに触れたからです。
若い頃は、全く関心を持たなかった箱根駅伝や、宝塚音楽学院の合格発表のシーンなどを観ても、気づくと涙が出てしまうようになりました。いつからそうなってしまったのかわかりませんが、20代の頃は、夏が終わる切なさでよく泣いていました。加齢によって涙腺が弱くなったとよく言いますが、このままいくとどうなってしまうのでしょう。公園の陽だまりで遊ぶ子供たちを観てうるうるしているかもしれません。でも、これだけは信じてください。私は、泣き虫ではないのです。
2020年12月01日 14:27
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