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2020年06月28日
第835回「必要な痛み」
「登山は八合目からが一番大変」というのを聞いたことがあります。本格的な登山は経験がないので実感したことはないですが、視界に頂上があるのになかなかたどり着かない状況は想像できます。大変さの種類は異なりますが、曲を作る時も同じで、八合目からがとても過酷なのです。
私の場合は、意図的に作ろうとして作る場合と、なんとなく音と戯れていたら曲っぽくなってくる場合と、登山口は二つ。どちらも最初はとても楽しく快適な道。子供が落書きをするように、好きな音色を重ねていくと、やがてメロディーが聞こえてきて、タイトルが浮かんだり、メロディーラインに言葉が乗ったり。ひたすら心地よい眺めが続く、苦悩とは無縁の「無責任な」時間を享受するのです。
私の表情が変わるのは、レコーディングをするあたりから。いい音で録音する為に、録音環境の整ったいわゆるレコーディングスタジオで行います。ここに自宅で作った「音色」を移し、神経を尖らせるのです。ただ、レコーディング自体はとても楽しいです。仮で作っていたデモに、実際の声が入ることによって、温もりや音に厚みが生まれ、浮かび上がる世界観。無事に歌を録り終え、「お疲れ様でした!」とボーカルの方が退出したところで、全体的に見れば八合目なのかもしれませんが、体感的には五合目。「録ったら完成」ではなく、過酷な時間の始まり。しばらく笑顔はなくなるのです。
ここからは、音や音数を整えたり、場合によっては構成も再考したりするのですが、「耳」を酷使した作業になります。耳で判断する。それは、普段音楽を聴いたり、日常生活における役割の「耳」とは違って、神経を集中させるので、体は動いてなくてもヘトヘト。旅先で景色を眺めるたびに「ナンチャンを探せ」をやるようなもの。ページをめくるたびに「ウォーリーを探せ」をやるようなもの。「hear」でも「listen」でもなく、注意深く耳を傾ける「I’m all ears」なのです。
ここでベースはいらない。シンバルがあった方がいい。一方を気にすれば、一方が散漫になったり。モニター環境でも聞こえ方は変わったり。細かい部分にまで注意を払って聞く音楽に、もはや「楽」の部分はなく、ただただ苦痛が続く道。音は時とともに流れていくので、目で確認するよりも疲弊するかもしれません。だから、「あとはよろしく!」とアシスタントや弟子たちに任せしてしまう状況にも憧れたりもしますが、おそらく、この苦痛な時間こそがモノを作る上で大切なのだと思います。
もしも完成に至るまでひたすら快適な道のりだったらきっと、今日まで続けられなかった気がします。どこかで辛いことや苦痛があるからこそ、人は山に登るのではないでしょうか。だから、山頂からの景色に感動できるわけで。比になりませんが出産に伴うそれも、大事な痛みだと思います。
音楽制作において、どんなに機材が進化しても、煩わしいことや面倒なことはなくならないし、なくなってはいけないのだと思います。それをひっくるめて好きになれるかどうか。仕事にすると好きなことも嫌いになると言いますが、確かにそうかもしれません。でもその「嫌い」は、大きな「好き」の一部。「好き」の大きさに比べたら大したものではないのです。
「お疲れ様でした!!」
スタジオを後にする深夜2時。必ずあるのが、完パケた後の感覚です。電話を切った後に何か思い出したりするように、曲を完パケた後に今まで感じなかったことが生じることがあります。スタジオから帰る車の中。家に帰ってから。何度スタジオに戻ったことでしょう。だから、一度納品したら聴かないことが多いです。発見してしまうと嫌なので。でも、やがて何にも気にならなくなる時が訪れます。あんなに細部にまでこだわっていたのに、細部が全く気にならなくなる時が必ずやってくるのです。いつも、この繰り返し。
登山の場合は山頂からの眺めが待っていますが、曲の場合、ライブのステージからの眺めもその一つでしょうか。スタジオを後にした時に夜空に浮かぶ月。今回の登山も、素敵な景色が待っていると信じています。
2020年06月19日
第834回「はじめてのTikTok」
何もない空き地にシーソーを作ったら、次第に子供達が集まって、たくさんの人たちが楽しんでいる様子を見ているような感覚。作ってよかった。
正直言えば、私の人生とは無縁のものだと思っていました。時折、web広告等で拝見することはあっても、若者の間で流行っているもので、一過性ではないものの「タピオカミルクティー」くらいの位置付けでした。しかし、いざ蓋を開けてみたらどうでしょう。そこはまるで音の楽園。ピースフルなバイブスが漂っていました。
新型コロナによる自粛生活の中で始まった、「どうにかなりそう」の振り付け動画。実際、私が踊るわけではなく、歌っているトミタ栞さんが自宅で踊って毎日アップするというもの。そんな彼女も、TikTokには二の足を踏んでいたそうで、この機会に飛び込んだようです。
誰かが曲に振りをつけて、それをみんなで真似して広がっていく。人間は模倣する生き物と言いますが、画面で認識できる面白さ。音楽で繋がって、広がっていく現象にとても平和な印象を抱きました。もしも私がいま学生だったとしてもやっていたかはわかりませんが、自撮りや踊ること、見られることに抵抗のない人たちがこんなにもいるとは。真似の文化こそ昔からありますが、テレビを介さずに広がるケースは珍しいでしょう。また、「ステイホーム」という環境がよりその広がりに拍車をかけたと思います。
ひとりだったりグループだったり、動画数が1000を超えると、そこからさらに拡散され、今では1万を超える動画が上がっています。ここまでたくさんの人に楽しんでもらえたことが、すっかりクラブから遠ざかっている私にDJしている気分を与えてくれました。
ちなみに、「どうにかなりそう」はもともと2014年にryo fukawa名義でリリースしたものがオリジナル。ボカロで作成したもので、2017年にはそのリミックスをリリースしました。そうして品種改良を重ね、2020年。トミタ栞さんの歌う「どうにかなりそう」は、彼女の天真爛漫なキャラクターが功を奏し、華やかな曲調になりました。
私のことは知らなくても「どうにかなりそう」は知っているというケースもあると思います。若者たちが楽しんでいるところに、中年男性が出ていくのも気が引けるので、この感じでちょうどいいのでしょう。
数ある動画の中には、変顔バージョンだったり、寄り目バージョンだったり、伝言ゲームのように、微妙に変化が伴っていくのも面白いところ。まるで暖簾分けされ、微妙に味の違う「どうにかなりそう」にも人が集まってくることがこのtiktokの魅力だと思います。これからどこまで広がっていくのでしょう。さて、そろそろ、配信しておきますか。
2020年06月15日
第750回「きらきら星はどこで輝く 第14話
モニター画面に映った客席が徐々に埋まり始めています。あんなに先だと思っていたのに、今まさに目前に迫っています。徐々に上がる心拍数。
「最初に、真理ちゃんのチェロ独奏からはじまって…」
そう提案したことが、現実になろうとしていました。
「では、よろしくお願いします!」
そうして、開演の12時になる頃には、1階から3階までたくさんのお客さんでいっぱいになっていました。扉が開き、遠藤さんがチェロを持ってステージに飛び込むと、会場から大きな拍手の波が起こります。
「やっぱり、無伴奏がいいよね」
バッハの無伴奏チェロ組曲。勇ましくも、優しい音色が、聴衆を引きつける様子は、まるで魔術師のよう。こうして、うたたねクラシックの幕があがりました。
「ありがとうございました〜」
遠藤さんへの拍手の中に現れた、水玉男。
「改めまして、うたたねクラシックへようこそお越しくださいました。ナビゲーターのふかわりょうです。よろしくお願いします。」
笑いの混ざった拍手の音が、僕を安心させます。
「この会場が、大きな揺りかごになるといいなと思っています」
それからというもの、三舩さんのピアノによるドビュッシーの夢をはじめ、エルガーの愛の挨拶や、yumiさんのシチリアーノ。林美智子さんのジュ・トゥ・ヴなど、クラシックではおなじみの曲が聴衆を魅了していきました。スクリャービンの曲を終えたところで、ナビゲーターが言いました。
「では、ここで朗読をしたいと思います。」
今回のうたたねクラシックの試みのひとつとして、詩の朗読がありました。進行だけでは申し訳ないというのもありましたが、言葉と音の共演をしてみたい。きらクラ!でもおなじみのBGM選手権のような時間。ただ、番組のように同時ではなく、朗読をしてから演奏を聴いてもらいます。
「風のない場所」
バスでうたた寝している間に迷い込んだ場所はどこなのか。どこかで見たような人々。どこに向かうかわからないバスの中でのひととき。その後、遠藤さんのチェロで奏でられるスコットランド民謡の「サリー・ガーデン」。チェロの音色が、なぜかバグパイプのように聴こえてきました。
「すっかりうたたね気分になったところで、残すところあと2曲となりました。」
花のワルツをピアノ、チェロ、フルートの3人で。そして最後は、星に願いを全員で。どちらもうたたねバージョンでアレンジされたもの。限られた楽器で表現する音は、オリジナルとは違った輝きがありました。
「本当にありがとうございました!!」
スタートしておよそ90分。出演者が舞台袖に吸い込まれると、客席からの拍手に、おさまる気配がありません。
「さぁ、遂に来た…」
プログラムには表記されていませんが、本編終了後、アンコールでフーマンが登場することになっていました。もちろん曲は決まっていますが、予定と違うことが起こります。
「アンコールの時にスーツになろうと思って」
最初はパジャマで登場したものの、アンコールの時は着替えて演奏するつもりでした。流石にこのパジャマでグランドピアノに向かうのは罰当たりだと。しかし、拍手の音を聞いて、鉄は熱いうちに、拍手は暖かいうちに、という思いが湧き上がり、パジャマのまま飛び込んでいました。
再度登場したパジャマ男を、大きな拍手の波が襲います。ピアノの前で頭を下げると、激しい雨のような拍手を浴びました。楽譜を置き、椅子に座って深呼吸。観客の皆さんも、半信半疑の中、固唾を飲んで見守っているようです。そして、僕の両手が膝から離れていきました。
2020年06月12日
第833回「言葉の力」
「東京ラブストーリー」が放送されていたのは、私が高校一年の頃。泣く子も黙る「月9」の大ヒットドラマ。月曜の夜は街から人が消え、火曜日の朝はその話題で持ちきりの教室。最終回を前にすると、テレビ局には電話が殺到したそうです。カンチとリカを別れさせないで。台本を書き換えて、と。これはクレーマーではなく、熱狂的な視聴者。これに応えていたらきりがありませんが、ドラマに熱中している証拠と言えるでしょう。
2020年版がネット配信で始まったそうですが、オフコースで育った私にとって、いや、当時あのドラマにハマった人にとって、小田和正さんのあの曲がかからないとスイッチが入りません。タイトルこそ同じでも別物と捉えた方がいいでしょう。あの頃は、「チュクチューン」というギターの音で魔法にかかっていたのです。
当時と違うのは出演者や音楽だけではありません。視聴者の環境も変わりました。ネットの普及。もしも当時、SNSがあったらどうなっていたでしょう。劇中のセリフやドラマへの想いがトレンドワードとなって毎週あがっていたことでしょう。翌朝の教室まで持ち越さず、オンエア中に様々な言葉が飛び交っていたでしょう。もしも出演者の方がSNSをやっていたら、そこにも視聴者の声は多く届いたでしょう。
「カンチを奪わないで!」「この泥棒猫!」
「さとみ」役の有森也実さんの事務所には、かつてカミソリの入った封筒が届いたそうです。だから、もしもSNSがあったらそれに匹敵するほどの罵詈雑言が向けられたかもしれません。しかし、そのような言葉が届いたとしても、有森さんはそれほど傷つかなかったのではないでしょうか。なぜなら、それらはあくまで「役柄」「さとみ」に対するもの。ドラマに入りこんでくれたということで、役を演じきったわけです。役柄がそのままイメージとして定着してしまう部分もあり、街を歩いていて石をぶつけられたら流石に問題ですが、視聴者の熱意が役柄に向けられる分にはそれほど精神的な負担にならないのではと思います。
それに対して、昨今のリアリティー・ショーはどうでしょう。視聴者の熱意は暴発し、心ない言葉が出演者たちに放たれます。番組や出演者に対する想いがベースになっているものだけではなく、単にストレスのはけ口で放っていたり、クラスでいじめをする感覚の類もあるでしょう。あの人、気に入らない、と。それだけ感情移入しているわけです。
出演者は、あくまで「エンターテイメント」であって、フィクションだというスタンスであれば、そういった心ない言葉も、前述の有森さんのように「役柄」に対してのものだと捉えることができますが、リアリティー・ショーだけに、届いた言葉はそのまま素の自分に向けられたものと思い、人格を否定されているように錯覚してしまいます。たとえ台本がないとしても、カメラがあり、編集されるのであれば、それは演出が入っているようなもの。完全なるドキュメントではありません。ドキュメント風ドラマ。しかし視聴者は、そこが魅力やウリでもあるのですが、良くも悪くも「リアル(現実)」と捉え、作り物ではなくなってしまいます。結果、学校のいじめと変わらない構図が生まれてしまう。
彼女は、決して「不幸」ではなかったと思います。やりたかったかどうかは別として、注目される立場になり、将来も有望。そういう意味では、SNSで何を言われようが、匿名をいいことに好き勝手言って傷つける人間よりよほど恵まれていたと思います。しかし、そのように感じられない精神状態になってしまったのです。多くの心ない言葉によって、自分が恵まれている状況だということに気づけなくなってしまった。多くの言葉が彼女を洗脳し、理性と、生きる気力を奪ってしまったのです。
「スルースキル」と言いますが、それをできる人が強いわけでも、言葉に気持ちを揺さぶられる人が弱いわけでもありません。彼女はきっと、一つ一つの言葉と向き合っていたのかもしれません。
これから有名になることを考えている人は覚悟が必要です。有名になるということはそういったたくさんの言葉の矢が飛んでくることも想定しなくてはならないのです。言葉によって励まされたり、勇気付けられたりするのだから、その逆もあるのは当然です。
俯瞰で捉えると、結局、「いじめ」なのです。場所が変わっただけで。気にくわない人をいじめる人たちはなくならない。だから、規制も必要かもしれませんが、そういった人たちの精神と向き合わない限り、いくら誹謗中傷をやめましょうと働きかけたところでなくならないでしょう。そもそも、一部は自分が正しいとさえ思っているのですから。ネット上で放たなくなったら、また別の場所を見つけて言葉の矢を放つのです。
2020年06月05日
第832回「エコとエゴ」
「エコ」という言葉を耳にするようになったのは15年ほど前でしょうか。「エコロジー」はもともと生態学を指す言葉でしたが、自然と人間との調和を示す際に用いられるようになり、今では「エコ」というと環境保全をイメージする人が多いと思います。
「エコ」という概念と同時期に誕生したのが、「エコバッグ」。海外でのそれに比べると日本での浸透速度は遅く、この新型コロナがもたらした新しい日常の一環のように徹底されつつあります。レジ袋・プラスチック袋の有料化はスーパーやコンビニだけでなく、個人商店でも実施され、これからの「当たり前」になろうとしています。ただ、かつての「エコバッグ」は地球温暖化という問題に対する取り組みでしたが、現在のそれは「海洋プラスチックゴミ」問題に対するものです。実際、いわゆるレジ袋の無償配布を無くしたところで、全体に占める割合は決して大きなものではなく、これで海洋ゴミ問題が解決されるわけではありません。もっと大きな取り組みが必要で、その入り口と捉えるべきでしょう。
浸透度合いで言うと、有料にするよりも、エコバッグ使用者になんらかの特典がある方が速いのではないでしょうか。数円のガソリン代のために何時間も並ぶ人たちがいるわけですから、そういった方々のエネルギーを利用する意味ではレジ袋有料も効果はなくはないですが、一回のお買い物で数円お得という方がモチベーションが持続する気がします。
お得といえば、車のETCシステムも導入されてかなり経ちますが、いまだに搭載していない車両を度々見かけます。なぜこのような疑問を抱くかというと、ETCは単なる利便性だけでなく、ETCを使用しないととても割高で、どの区間を走っても同額という、はっきりいってぼったくりなのです。かなり強引な手段でETCへの移行を促しているのですが、それでも頑なに設置せずにいるのは、会社が高速代を支払うからなのでしょうか。
そんな私も「〇〇ペイ」のような電子マネーにはなかなか重い腰をあげることができず、一つも使用していません。コンビニで前のお客さんがピッとしているのを頻繁に見かけるようになりましたが、もう少し時間がかかりそうです。通帳も紙の通帳のまま。振込こそ電子で行なうようになりましたが、完全移行には二の足を踏んでいます。デジタルとアナログのハイブリッド。「ペーパーレス社会」という言葉ももう古いですが、新聞やCDなどがまだ健在なのは、日本人の紙嗜好によるものでしょう。悪いことではないと思いますが。
今や、どこのレジも透明のシートで覆われるようになりましたが、店員さんに金額を言われても、シートで視界を遮られていると、どうしても聞き返してしまいます。耳から金額は入って来るのにしっかり把握できず、普段いかに視覚情報に依存しているかを痛感しました。
スーパーではエコバッグを持参していますが、レジ袋が有料だからエコバッグにしたわけではないという雰囲気をなんとか出せないものかといつも考えています。お金のためではないのだと。理由はどうであれ、レジ袋はやがて消えていくのでしょう。何かと使い勝手がよくて便利だったのですが、その当たり前は大きな犠牲の上に成り立っていたのなら、改善しなければなりません。エコバッグは、その始まりに過ぎないのです。
アクリル板で囲われた世界で我々はもうしばらく生活するのだと思いますが、ウイルスとの闘いというよりも、自然との和解に向けた協議が必要かもしれません。