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2016年12月18日

第686回「しあわせの沼」

「それが…」

 電話の向こうからやってくるその言葉で、あとにどんな言葉が続くのか、僕にどんな現実が待っているのか、伝わってきました。

「では、こんど見に伺います!」

 東京から遠く離れた郊外のディーラー。都内、それもわりと家から遠くない場所にもあるのに、なぜわざわざ郊外まで足をのばすかといえば、そこにしかない色があるから。年式によって微妙に色や形が異なり、僕が目をつけていたのは、現在新車としては販売されていないタイプ。ただでさえ台数が少ない車種に希少カラーとなると、滅多にお目にかかれないのですが、連日サイトをチェックしていると、ついに中古車市場に登場したのです。

 アンヴィル・グレーという少し青みがかった灰色は、2014年にのみ販売されたもので、あのジープのカタチにぴったり。これに乗っている自分が一番イメージできました。あ、そうです、まだ沼にはまっています。あれからというもの、僕は毎日、寝ても覚めても、ラングラーのことを考えていたのです。

 街中で見かけては、指をくわえて眺めていました。走っていても、停まっていても、黒であっても、白であっても、まるでサラブレッドのようなその凛々しいシルエットは、あらゆる車が走る都会の街角で異彩を放っていました。

「もう、溺れそうだ…」


 憧れつづけるのも決して楽ではありません。エネルギーを消耗する日々。沼から抜け出すために、いろいろな方法をチャレンジします。車が欲しいとはどういうことなのか。かっこいい車に乗りたいとは、どういう感情なのか。所有したい願望とは。人は、所有で幸福になれるのか。「あの車に乗りたい」という気持ちの奥にあるものに向き合うことで、欲望を粉砕しようとしました。

「いっそ、溺れてしまったほうが楽ではないか。」

そんな気持ちもありました。こんなにも苦しくなるのなら、気持ちが楽になるのなら、決して高い買い物ではありません。


 と、ここまで苦悩するのは、もうひとつ理由があります。タチの悪いことに、今回、買い換えではないのです。いま乗っているビートルは下取りに出さず、買い足す、つまり、一台増えることになります。しかも、現在、遠出するとき用の車もあるので、そこにジープが加わると、計3台。それはさすがにまずいのではないか。これを許したら、気付いたら10台なんてことになりやしないか。おそらく、これが一番ひっかかっている部分でした。


「人として、どうなのか」


 所さんやヒロミさんのようなカーマニアならともかく、僕みたいな、しがないMXの社員が3台所有なんて、贅沢すぎやしないか。好きな服を3着買うのとは違います。人間としていかがなものか。もちろん、駐車場や車検など、なにかとお金がかかることも軽視はできませんが、一番効くブレーキは、「人としてどうなんだ」というブレーキでした。


「買ってしまうべきだよ」「別にいいじゃん、働いて稼いだお金で好きな車乗って何が悪い!」「守りにはいってどうする!」「いや、3台なんてありえない!」「買うなら一台手放さないと!」「とりあえず年越すまで待て!」「来年新型が発表されるぞ!」カラダのなかに、何人かいて、タイミングによってさまざまな人格が顔をだします。



「それが…昨日、売れちゃったんですよ」

 訪問する前日、念のために電話してみると、いつもより暗いトーンの声が戻ってきました。

「そうですか…」

 電話を切った僕は、落胆や喪失感のなかに、一抹の安堵に気がつきました。それは、祖母を亡くしたときにも感じた、「解放される」ことから得られる安堵感。その言葉を待っていたわけではないけれど、その言葉が少し、僕を楽にしてくれました。そうじゃないと、あきらめがつかない。もしも見に行っていたら、さらに好きになってしまい、もっと辛い日々が待っていたかもしれない。僕は、あの車に乗りたいという願望と同じくらい、この状況から解放されたい、という気持ちがありました。

 そして現在、相変わらず僕は、沼にはまったままでいます。もうすぐクリスマス。自分へのプレゼント、なんていう口実も、沼の引力になりそうです。また、あの色が中古市場に出回ったら。いま掴んでいるのが藁なのか、ロープなのかわからないけれど、こうして悩んでいる時間が楽しいのでしょう。だから、きっとここは、しあわせの沼なのです。

2016年12月18日 18:35

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