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2016年12月04日

第684回「マンネリの向こう」

「一定の技法や形式を惰性的に繰り返すだけで、独創性や新鮮味を失うこと。」

打破するとか、脱するとか、一般的にこの言葉は、悪い意味で使用されることが多いですが、テレビの世界においてはどうでしょう。いいマンネリも、悪いマンネリもあると思いますし、マンネリ自体は目指すものではなく、そこに甘んじてはいけないのですが、ただ、結果生じてしまったマンネリを「悪」とするかどうかは好みの別れるところです。

 とりわけ最近のテレビは、安心・安定を求められているので、視聴習慣をつけさせるには、変化よりも変わらないことが大切な気がします。「笑点」や「徹子の部屋」、そして「サザエさん」。長く愛されている、「変わらない」光景。それらは決して惰性ではなく、偉大なるマンネリというべきでしょう。

 変化を望む視聴者もいれば、望まない視聴者もいる。番組のジャンルにもよりますが、世の中が目まぐるしく変わるので、いまや娯楽の一要素になったテレビは、「変わらない」ことがその役目なのかもしれません。

 ただ、本当の意味で、変わらない番組なんて存在しません。笑点だって、お題は毎回違うわけだし、メンバーだって入れ替わる。それに師匠達も、徹子さんも、年をとる。アニメだって、10年前と現在のタッチは違うでしょう。声もしかり。大胆なリニューアルは別として、視聴者には極力感じさせないように、変わっている。

 先日、お菓子総選挙なる番組が放送されていました。日本のお菓子は本当に繊細な味で、今も昔もクオリティーが高いものばかりですが、やはり、昔からある味のほうが上位にランクインされるのは、その味がスタンダードであるだけでなく、時代に合わせて味を微妙に変えているからでしょう。時代によってイケメンのタイプが異なるように、時代によって、求められる味、おいしいと感じる味も変わる。だから、日々、研究を重ねて、「変わらない味」を追求する。「変わらない」を感じさせるために、時代にあわせる必要がある。生き残るために。

 そして迎える紅白歌合戦。今年は第67回だそうですが、出場ラインナップが毎年話題になるのは、いまや番組という存在を超越し、日本の文化・風習、国民行事になっているからでしょう。それこそ企業努力の賜物。なかなかできるものではありません。ただ続けるだけでも素晴らしいことなのに。毎年、想像を絶する努力の結晶が画面に映し出されるわけです。

 娯楽の選択肢の多い時代、ましてやプロデューサーが毎年変われば、視聴率を気にしないわけにもいかないでしょう。だから今回の「世代交代」という印象は、攻めの姿勢とも受け取れます。ただ、その戦いかたを誤っては、攻めも単なる媚びに映り、番組としての魅力や威厳が半減してしまいます。

 また、テレビは視聴者あってのもの。新規顧客をとりいれるためとはいえ、常連さんを無碍にはできません。年配層のみなさんは、もしかすると、紅白という「味」に関しては、「変化」よりも「変わらない」を求めている気がします。

 回転寿司もいまやファミレス並みにメニューが充実している昨今、そんな呑気なことも言っていられないかもしれませんが、紅白は日本人の心。やはり、最後は味噌汁を飲みたい。味噌汁で締めたい。毎年提供する味噌汁の味は、時代にあわせてほんの少し変えるだけのほうが、常連さんは喜ぶのかもしれません。

 67回も積み上げてきた紅白という番組は、いわば富士山。派手なイルミネーションは必要ないのです。イルミネーション目的で訪れる者は、本当に富士山を愛しているのではありません。変化を求めるなら、チャンネルを回します。

 紅白歌合戦というものはどうあるべきか。それは、テレビがどうあるべきかという問いにも通ずるものがあるでしょう。たくさんの娯楽のなかのひとつとなったテレビに求められるもの。そのなかでも、紅白が求められるものはなにか。誠に勝手ではありますが、僕は、富士山であってほしい。日本人のだれが富士山をみて、マンネリだと嘆くでしょうか。富士山は、富士山でいてくれればいい。時代が勝手に変わるのだから。

 

2016年12月04日 20:02

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