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2016年10月16日
第677回「パブリックまでの距離2」
その「距離」が削ぎ落とされたことによって事故が起きやすくなったことのほかに、もうひとつ、大きな変化があります。それは、憧れる時間。これは何度もお伝えしてきたと思います。
僕がこの世界を目指すきっかけになったのは間違いなく、テレビです。テレビに夢中になり、テレビに憧れ、テレビのなかを目指しました。いろんな人たちが見ている場所。たくさんの人に知ってもらう場所。あの中にはいりたい。テレビこそ、パブリックの象徴でした。
いったいあの場所にはどうやったらいけるのか。だれも、僕があの場所にいけるなんて思いません。家のなかにあるのに、もっとも遠い場所。どれだけ時間がかかるのか、何をしたらいいのか。お金を払えばいけるわけでもない。お天気コーナーのうしろではなく、いわゆる芸能人として、日常的に映る。人によっては10年、いや20年やってもたどり着かないこともあります。続けていれば必ず到達できる場所でもありません。しかし、そのたどり着くまでの試行錯誤の時間こそ、一生の財産だと思うのです。
「憧れる時間。届かない距離」
いまはだれもがパブリックにたどり着けるようになりました。時間をかけず、思い立ったら数時間後に到達できる。大きさこそ違いますが、動画サイトによって、だれでもいつでも画面のなかにはいることが可能な時代。これはとても素敵なこと。だれもが有名になれるわけではありませんが、タレントのような気分を味わえるし、主役になれる。ある意味、放送局でもある。これこそ、平等なのかもしれません。
では、「たどり着かない時間」がないということは、どういうことなのでしょうか。野菜や果物が糖分をためる時間。熟す時間。時間にはかならず意味や価値があり、無駄な時間など存在しません。現像するまでの時間しかり、そういった、「時間」が削ぎ落とされた結果、前回お伝えした、玉石混交の世界ができあがりました。「たどり着かない時間」を失った世界は、修行を積まずに店を開いたお寿司屋さんばかりのようで、ちょっと物足りない気もします。
テレビの得意分野・不得意分野があるように、ネットにも同様のことがいえます。テレビのなかとスマホのなかで集まる人物も異なります。パブリックがすぐ近くにある社会と、「時間」や「距離」が存在するそれとでは、形成される価値観や考え方が異なるのは当然。こうして、時代は変わってゆくのです。
もしも20年遅く生まれていたら、僕はなにに憧れていたのでしょう。テレビのなかか、スマホの中か。いずれにしても、たどり着かない時間や、届かない時間が大切なことは変わりありません。それらはきっと、裏切らない。ネット社会は、その「距離」を近づけました分、ほかの距離は伸びたのでしょう。ネット社会が遠ざけたものが、必ずあるのです。
2016年10月16日 18:12
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