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2016年05月29日
第660回「石を穿たなくとも」
笑点のそれに比べれば、大したことではありませんが、こちらはもうすぐ666回。かつてもお伝えしたかと思いますが、かれこれ二十年近く前にお話をいただいた、12回限定のメールマガジンに端を発したものが今日まで続いています。あの頃は、世の中に「メルマガ」という概念が生まれて間もない頃で、僕のところにもお話が来たのです。ツタヤオンラインというサイトのいちコンテンツ。スマホのない時代なので、ガラケーのiモードで何度かカーソルを移動させるとたどり着くものでした。
当時から日曜日の配信だったか忘れてしまいましたが、無料配信で、たしか返事なども読ませてもらった記憶があります。現在、どれくらいの人のケータイやスマホに届いているのかわかりませんが、それは知らなくてもいいでしょう。また、ちょろちょろと流れる水流のように毎週配信される僕の言葉たちが、直接社会に影響を与えるわけでもなく、(与えようと思えば与えられますが)、石を穿つことも望んでいません。それどころか、むしろ、穿つことのない雨だれを目指しています。この水滴が、穿つのか穿たないのか、いずれにしても、ここまで続いたのには理由があります。
まず、一つ言えるのは、いつでもやめられるから。誰にお願いされているわけでもないから、いつでもやめられる。なにがなんでも1000回まで続けるなんて思ってもいないし、ましてや、最初は12回だけという条件。書籍化に結びつけようとか、売上を伸ばそうとか、そういった邪念はほとんどありません。休みたければ休めばいい、やめたければやめればいい、という無理のない環境こそが、今日まで継続させたのでしょう。
じゃぁ、お金にもならないことをどうしてやるのかといえば、これが、日常を支えるものだから。文章を書くことは決して容易なことではないですし、配信される以上それなりのクオリティーも求められます。しかし、文章を書くことで、書こうとすることで、自分と向き合う時間が生まれる。頭のなかにある混沌とした世界が整理される。それは、かぎりなく、ぼーっとする行為に近いのです。この時間が、日常に潤いを与えてくれます。
毎日であれば、必要以上にアンテナを張ったり、日常を脅かしてしまいますが、週に一度、このノートパソコンに向かう時間が、僕の日常を支える柱のひとつとなっている。朝のウォーキングのようなもの。
また、頭のなかにあることを言葉にすることの大切さ。これをすることは、頭にも、心にも、とてもいいこと。それには僕の場合、週一回の無料配信がちょうどいいのです。無料にすることで、逃げているわけではありません。強制や義務ではなく、楽しく文章を構築する。だから、読み返したときに、曲を聴くような文章になることを心がけています。時間とともに流れるものだから。耳からはいってくる音も、目からはいってくる言葉も、どちらもメロディー、音楽なのです。決して、クオリティーの高いものではありませんが、庭にあるししおどしのように、週に一回、カコンってなるだけのこと。だから、なにも穿つ必要はないのです。
2016年05月29日 17:40
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