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2015年11月29日
第637回「シリーズWHAT’S DJ? 第3話 安定がもたらすもの」
PCDJの台頭による大きな変化、それは「レコードを使用しないうしろめたさがなくなったこと」です。
こんなことを言ったら目くじらをたてる人もいるかもしれませんが、DJといえばアナログ、いわゆるレコードをかけることという定義がおとぎ話化され、DJはもはやPCを使うのが主流になってしまいました。DJのスタイルが完全に入れ替わったのです。これによって、かつてCDJを使用した時のような「うしろめたさ」や罪悪感はなくなるばかりか、「本来は」、とか、「そもそも」という言葉が吹き飛んだのです。まさしくDJ革命。新たな時代の到来です。
大量の曲がパソコンのなかにはいっているので、荷物が減るのはもちろんのこと、「あの曲どこにあったかな」と、レコードやCDを慌てて探す必要がなくなりました。また、波形となった音にマーキングが可能となったので、どこから繋ぐかを「目で」確認するようになりました。CDJにも表記されるようになりましたが、BPM(一分間における拍子の数)がわかるので、よりあわせやすくなるどころか、シンクロ機能を使えば、曲を自動であわせてくれるので、まさに初心者大歓迎。これによって一層、繋ぎは安定するのです。
いままではどうしていたかというと、BPMが表示されていない二つの曲を耳であわせるので、レコードにせよCDにせよ、手動で微調整をしながらズレを補正していました。また、次にかける曲を頭のなかで思い出さなくてはならないので、ある程度の記憶力も必要となります。ましてやお酒がはいってしまうと、思うように検索エンジンが機能しなくなるし、時間もあっという間にすぎるので、気が付いたらあと数秒しかない、なんてこともよくありました。ある意味、この不安定さが楽しかったのです。
PCDJは、良くも悪くも、寄り道がしにくくなります。曲の管理がしやすく、波形にマークが可能になったことで、予定調和なDJになってしまう恐れがあります。さまざまなイベントに呼ばれますが、どこへいってもEDM。明けても暮れてもEDMということが多いです。DJスタイルは千差万別なはずなのに、聞こえてくる音に個性がない。最初から最後までずっと派手な電子音。まるで全国のDJが、同じライブラリーから曲を選んでいるかのようです。このままではブームとともに散ってしまうでしょう。音楽とはいえ、大量生産大量消費の時代。クラブの楽しみ方それ自体が変わっていることもありますが、オリジナリティーが希薄になっている印象は否めないのです。
車が好きな人がマニュアルの不安定さを望むように、ある程度不安定な要素はDJの醍醐味。そこを機械に依存したら楽しみが半減してしまうのですが、その不安定な楽しみが減ったぶん、別の楽しみや喜びが増えたことも事実。クラッチの煩わしさは消え、もはやオートマ限定の免許証に微塵も抵抗がなるどころか、DJ界では自動運転機能の車が走り始めました。そうなると、スタイルやセンスに差がでるのはやはり「繋ぎ」になります。次回は、DJの大きな役割のひとつ、「曲を繋ぐこと」についてお話ししましょう。
2015年11月22日
第636回「シリーズWHAT’S DJ? 第二回ここにもリンゴが落ちてきた」
ソフトが開発されたことにより、パソコンでDJができるようになりました。DJブースにパソコンが置かれることで、一層DJというものがなにをしているのかわからなくなる方もいるかもしれません。ましてや、目線はPC画面なのに、手はターンテーブルの上にある。レコードなの?パソコンなの?といった感じですが、言ってしまうと、あのレコード、音ははいっていません。CDJで操作するタイプもそうで、CDJに挿入されたCDには音ははいっておらず、あくまで信号を送るための通過点。ターンテーブルの上で回転しているレコード(VYNALヴァイナルと言うと通な感じがでます)に音ははいっていないのです。では音はどこにあるのかというと、PCの中にはいっている音源が流れていて、それを動かしています。パソコン画面に小さなDJブースがあり、中にはいっている楽曲を、ターンテーブルもしくはCDJと連動させてDJプレイすることが可能になったのですが、実際の光景をみると、どうしてこんな「連動」が可能なの?と思ってしまうでしょう。それを可能にするには「インターフェース」という機材が必要なのですが、これに関しては言葉で説明しても悪化するだけなので、気にせずいきましょう。
そうこうしているうちに、あれよあれよという間にブースにリンゴが落ちてきて、クラブやディスコはリンゴだらけになりました。
ここで大事なのは、PCDJの出現により、ブースで音が見えるようになったこと。もちろん、パソコンで曲を作る人は、音を波形で見ていたのですが、DJプレイ中は見ませんでした。音が波形となって画面上に現れるので、ドラムの位置が明白になり、曲を繋ぎやすいと感じる人も増えました。これによって、DJは、「耳ではなく、目で合わせるようになった」のです。自分で言うのもなんですが、これ、名言です。僕は耳で合わせることに慣れているので、目で合わせることにまだ抵抗があるのですが、これからは目で合わせるDJが量産されることでしょう。
最近では、コントローラーという、まさにコントロールするDDJという機材が多数販売されています。ターンテーブル(CDJ)とミキサー、インターフェースを一体化した感じでしょうか。パソコンとコントローラーがあれば、あとはスピーカーに繋ぐだけでDJができてしまいます。高価なものから手の届きやすいものまで、雑誌2冊分くらい大きさから手のひらサイズのものまで、どれも少年の心をくすぐるものばかり。パソコンではなくiPhoneとつなぐタイプのコントローラーもあります。機械によって出力の差はありますが、それはパイオニアさんが縮めてくれることでしょう。コントローラーを常設するクラブも増えるでしょう。となるとDJたちの荷物はますます軽くなるのです。
PCDJのおかげで、いつでもどこでもDJができるようになりました。アウトドアはもちろん、自宅にDJブースどころか、助手席でもDJできちゃう時代。大量のレコードもいらないし、曲だってダウンロードで集められる。身軽になったことやファッショナブルになったことで、みんながDJをするようになりました。DJブースの敷居が低くなり、ある種のブームを迎えているかもしれません。ブームになると、ちゃらちゃらしたDJも増えますが、それがアクセサリーなのかヘッドホンなのかは、5年後を見ればわかるでしょう。
イベントを企画する人間も、かつてはお笑い芸人を呼んでいましたが、ここ数年はDJを呼んでみんなで盛り上がるスタイルに変わってきています。日本人はこんなにパーティー好きだったのか疑問に思うほど、この島では、常にどこかでパーティーが開催されるようになりました。最近では「とりあえずDJいれとけばなんとかなる」的な発想も多いのか、特にハロウィンパーティーではひっぱりだこ。DJ需要はリア充願望に比例するようです。
だれもが簡単にはじめられる時代。誰もがDJになれる時代。ここでもうひとつ重要なことがあります。それは、次回をお楽しみに。
2015年11月15日
第635回「WHAT’S DJ? 第一話 革命前夜」
はじめに
中学生の頃、自分の好きな曲を集めて好きな女の子にプレゼントしました。普段はノーマルポジションなのに、背伸びしてハイポジションのテープにダビング。レコードからでもCDからでも、カセットのA面とB面の配分に失敗すると途中で曲が切れてしまいます。カードに曲名を記入し、アルファベットのレタリング。試行錯誤の末にできた、世界でただひとつの「MY FAVORITE SONGS」。この「ただひとつ」は、きっとたくさん存在していたでしょう。
毎年夏になると、父の運転で帰省していました。車内のBGMは、兄のカセットだったり、僕のカセットだったり。自分のカセットがかかっているときは嬉しい反面、怖れていることもありました。それは、「音量さげてくれ」という父の言葉。それを言われると、僕の気持ちはみるみる萎縮していくのです。好きな曲を聴けないことではなく、好きな曲を受け入れられなかったことに対する現象。逆に、ボリューム上げてとは言わないまでも、父が鼻歌でかぶせたり、リズムにのったりすると、なぜだか嬉しくなりました。
いま思うと、そのとき、DJをしていたのだと思います。
ひとえに「DJ」といってもヒップホップやテクノ、最近のEDMなど、ジャンルによってその役割やスタイルは異なりますが、ここでは最近急増しているDJ、いわゆる「曲を順番にかける人」ということで、話を進めていきたいと思います。
「DJ」と聞くと、かつてはラジオのディスクジョッキーを連想しました。自分でセレクトした曲をかけて電波に乗せる人。そこに、クラブやディスコなどでお皿をまわし、お客さんを踊らせる人も加わり、いまでは後者として用いられる頻度の方が高くなりました。「お皿をまわす」という表現はまさしくターンテーブルという機械の上でレコードが回転していることに由来しますが、ラジオDJにしても躍らせるDJにしても、自分でセレクトした「レコードをかける」から「DJ」だったのです。
相変わらず軽いイメージを抱かれがちですが、DJはもともと厳しい世界で、レコード持ちという下積み時代を経験しないと実際にクラブでまわせない風潮がありました。クラブ専属でなければ、毎回大量のレコードを持ち運びするのですが、ディスコ全盛時代は、弟子が師匠のレコードを運ぶ光景は多く見られました。もちろん、給料なしでレコード持ちをする者も。
やがて世の中にCDが普及しはじめると、クラブにも「CDJ」というCDを再生する機材が導入されます。ラジカセやCDコンポもCDを再生する機械ですが、DJプレイに適した機能がCDJにはありました。ただ、まだこの段階では、「DJはレコードをかける」が主流だったので、CDJを使用するのはどこか邪道で、うしろめたさがつきまといます。それでも、勝手にリミックス(追って解説します!)などをしていた僕は、サンプラー(これは説明しません!)で作成した曲をかけるにはレコードでは無理なので、自宅で焼いたCDRをクラブに持っていっていました。
このCDRに「焼く」という作業も、いまのようにパソコンで簡単にできるわけではなく、それ専用の機械が必要でした。当時は、たとえCDRでも、自分の曲がCDの盤面に刻印されることに感動を覚えたものです。それで、自宅で焼いたCDRを持っていくのですが、当時はまだCDRがエラーを起こしやすく、音が飛んだり、読み込まなかったり、CDJの蓋が開かなくなったり。DJ歴の長い人はみな経験したCDJあるある。しかし、そこらへんはパイオニアさんが機材のブラッシュアップをしてくれて、ひとつひとつ改善してくれます。パイオニアという会社に、足を向けて寝られるDJはいないでしょう。
「CDJ置いてありますか?」
「型番わかりますか?」
よく問い合わせたものです。CDJがあるとはかぎらない時代。あっても、「なんだよこのCDJ?!」と、見たことのない機材が並んでいたりするので、事前チェックを怠ると散々な結果を招くことになります。
パイオニアさんのおかげで、CDJは親戚の子供以上に成長がはやく、どんどん進化していきます。機能が増えるとともに、あのとき見かけた「謎のCDJ」は駆逐され、クラブでは常設。型番以外の確認作業は不要になりました。CDだけでプレイするDJも増え、ターンテーブルがCD置き場になっていきます。また、CDJにUSBメモリーを挿入できるタイプが登場すると、CDさえも使用せず、ポケットにUSBメモリーを数本いれてブースに立つ人もでてきます。このときが、革命前夜という段階でしょうか。このあと、大きな転機がやってきます。
なにをしているかわからないけど、DJブースにパソコンが置いてあるイメージはありませんか?そうです、あるときDJブースにりんごが落ちてきたのです。PCDJ時代の到来です。
2015年11月08日
第634回「本気をだすということ」
「受験は、本気を出す練習なんだ」
深夜のラジオからきこえてきた声は、いつ人生の役に立つのかわからないという不信感と闘う少年の心に響いたでしょうか。たしかにそうです。この数学が、この歴史が、いったい何の役に立つというのか。専門分野に進むことでもなければ、ほとんど直接的に役に立つことはありません。論理的思考を培うにしたって、受験勉強というシステムである必要はないのだし、こんなことで評価されたくない、人生を決められたくない。そう考えると、ますますやる気がでてこない。就職するために、大学にはいるために、そんな打算的なモチベーションで向き合うものでいいのだろうか。だからこそ、深夜ラジオのパーソナリテイーは少年に伝えたかったのです。
「俺はまだ本気をだしていない」
そんなことを口にする者は、きっと、本気を出さずに一生を終えるのでしょう。まぁ、「あと一週間あればな〜」なんていう人には、いくら時間があっても変わらないのと同様に、「本気をだしていない」状況こそが彼の限界とも捉えられますが。
いざ本気をだそうと思っても、本気なんてすぐにはでないもの。本気をだそうにも、やり方がわからない。エンジンがどこにあるのか、どうやってかけるのか。でも、本気を出す練習を経験していると、人生のあらゆる局面で本気をだすことができる。
では、本気をださなきゃいけないかといえば、そんなことはありません。車のスピードメーターは180キロまであっても、そこまで出す人は、違反という規定がなくても、多くはないでしょう。ただ、本気をだしておくと貯まるものがあります。それは、燃料です。
僕は、人生という長いドライブで燃料となるのは、感情だと思っています。喜びであれ、憎しみであれ、感情がエネルギーになる。悔しさも、本気で向き合ったのに結果をだせなかったときに湧いてくる感情。それは、膨大な燃料として車に注入されるのです。本気をだせなかった悔しさもあるかもしれませんが、それは本気をだして得られる燃料に比べれば微々たるものです。本気を出すことで、たくさんの燃料が得られるのです。
感情は生きるためエネルギー。だから、腹を立てても、感情をありがとう。怒りをありがとう、という時代がもうすぐ到来するのです。
だから僕は、なにも感じない人たちによる平和な世界よりも、感情をありがとうという人々による平和のほうが人間的で好きです。怒りも憎しみも、排除すべきものではなく、有効な資源。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉で救われる者もいるでしょう。でも僕は、みんなが居場所に納得する社会なんてむしろ恐怖に感じてしまいます。それよりも、「こんな場所にいたくない!」という感情を上手にエネルギーに変えることこそ、いろんな状況に対応できるのではないでしょうか。
本気なんてださなくていい。でも、海を見に行きたいのなら、山の景色を眺めたいのなら、絶景を眺めたいのなら。そのためには、ガソリンスタンドならぬ、本気スタンドが必要なのです。
あのとき本気をだしたからたどり着いた場所。本気をださない人は、どこかで恐れているのかもしれません。自分自身を知ってしまうこと。自分と向き合うことを避けている。傷つくことをおそれている。自分の実力を知るのは怖い。現実を知ることは怖い。でも、それを受け入れるしかない。本気を出すことは、自分を知ることなのです。
2015年11月01日
第633回「素敵な三角形」
いざはじまってみれば、期待を裏切るほどに順調に動き出したのではないでしょうか。立ち位置の違いこそありますが、毎回ふたりのゲストを迎え、三人向かい合って言葉を交わすトライアングルは、まるで交差点での立ち話。ここだとなんですから、ちょっとお店でもはいりましょうか。久しぶりの人、普段は会えないような人。初めましてからはじまる2時間は、それなりにスリリングではありますが、徐々に距離が近づき、心がほぐれてゆく感覚がなんとも気持ちいい。言葉のキャッチボールを楽しむ3人の大人たち。大人ではあるけれど、中身はあの頃のままの男女が交わす会話は、まるでジャズの即興で合わせるセッションのよう。トークセッションという表現がまさにしっくりくる番組かもしれません。
「とにかくライトに!」
やもすると、重く堅い話になってしまいがちな番組なので、心がけていること。とにかくライトに。これまでテレビやラジオと向き合ってきて、常に大切にしていることのひとつ。皆が適当にやるのではありません。知恵を絞ってライトな仕上がりにする。とにかく、説明は最小限。
音楽もライトにするための重要な役割を担っています。僕たちはメディアから音楽を奪われたあの日々を忘れていません。やはり放送には、特に音だけのメディアは、音楽がないとどんどん沈んでしまいます。それがなければ、笑い声が必要です。
貧乏話だとか、破綻した人の話だとか、近頃のテレビが映すものは、「あぁ、よかった」と一時的な快楽を与えるかと思えば、突然不安を煽ったり。だから、ラジオはもっと、長期的で平穏を与えたいものです。
おそらく社交的な人間ではないタイプの僕が、こうやって日々、いろいろな方々と出会えることは本当に恵まれていることだと思います。どちらに進もうか迷っていたこともありましたが、いまは、こちらに舵を切ってよかったと思っています。すっかり固まって硬く濃い絵の具が、水で薄められゆくように。ひとつの色で世界を描くよりも、たくさんの色で描いたほうが鮮やかでしょう。もちろん、ひとつの色でも素敵な世界を描く自信はありますが。
これから、あの交差点で、どんな人たちと出会うのでしょう。そこで繰り広げられる会話は、まさしく音楽のように流れてゆく。理屈をぶつけあうことでもなく、結論を出すことでもなく、ただ、流れてゆく。それこそが、メディアとしての、ラジオとしての役割だと思っています。
ビールが喉ごしなら、通り抜けてゆく言葉たちの、耳ごしを味わってもらえたらと思います。頭ではありません。深夜のファミレスに集う大人たちの会話。あの3人はいったいなにを話しているのだろう。周波数を合わせてみれば、中身があるのかないのか、他愛のない話。ただ、それだけのこと。