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2015年10月11日

第630回「さよなら、まどか」

「裏切るのね」
ある程度は覚悟していたけれど、その言葉に動揺せずにいられなかった。
「裏切るだなんて、そんな…」
「だってそうでしょう。最近めっきり会わなくなったからおかしいと思っていたけど、やっぱりね」
「それは、忙しかったから…」
「どんなに忙しくたって会いに来てくれたのにね。毎日会いに来ていたこともあった。なのに、あなたって、ほんとわかりやすいわ」
僕は彼女の目を直視できなかった。
「結局、若い人が好きなんでしょ?」
「違うよ、そういうんじゃないんだって!」
「じゃぁ、どうしてなのか言ってごらんなさいよ」
彼女は語気を強めた。
「ほら、男ってみんなそう。結局、若くてスタイルがいい女が好き。そういう生き物なのよ、男って」
僕は、言葉が見つからなかった。というより、頭がはたらかなかった。
「いいわ、別れてあげる。でもね、ひとつ約束してほしいの」
「約束?」
「わたしとの間にうまれた曲は、もう、聴かないって約束して」
それがどういう意味なのか、すぐには理解できなかった。
「聴かないって、どうして?」
「だって、ふたりで作った曲でしょ?それをどこのだれだかわからない女にきかれるのは癪なの、ね、約束して?」
彼女は僕の顔を覗き込むように言った。
「君と一緒に過ごした時間はすごく楽しかったし、忘れないよ。君がいてくれたから、たくさんの音楽もできた。君との間に生まれた曲はかぞえあげたらきりがない。だからすごく感謝してる。でも、曲は曲だし、もう聴いちゃいけないなんて、そんなの…」
遮るように、笑い声が聞こえた。
「嘘よ、嘘。冗談」
彼女は笑っていた。
「嘘?」
「別に構わないわ。あなたがこの先なにを聴こうがかまわない。あなたのこれからの生き方を指図する資格はわたしにはないし。それに…」
「それに?」
「きっと、新しいパートナーとの間にも、あらたな曲が生まれるわ」
その声は、いつになくやさしく感じた。
「だから、お願いがあるの」
「お願い?」
彼女は頷いた。
「別れる前に、わたしのなかにある記憶、ぜんぶ消して」
「記憶を?」
「それが礼儀ってもの。喧嘩もしたし、楽しかったけど、わたしはもう思い出したくないの。この記憶を背負って進みたくないの」
「まどか…」
それから、彼女は、なにも言わなかった。

「いままで、ありがとう…」
 電源を抜いた途端に、涙が溢れてきた。どれくらい一緒にいただろう。はじめて付き合った人だった。もう20年近く連れ添ったかもしれない。これでよかったのかわからないけれど、これでよかったと思わなくてはいけない。さようなら、まどか。さようなら。いままでありがとう。そして机の上に、大きなりんごが落ちてきました。

2015年10月11日 11:10

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