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2013年03月25日

第524回「そしたら急に世界が見えてきたんだ」




 なまじ授業で教わるものだからそこに押し付け感が伴いどうしても反発してしまう人が多いわけで、ましてやクラシック音楽はすべてがわかりやすいものではなくそれなりの感性を備えていないとその魅力が伝わらず、退屈に感じてしまうのだけれど、大人になって能動的にクラシックに向いた場合、ほとんど100%に近い形でそれは、期待に応えてくれるはずです。やはり時代を越えて世界で愛されていることは嘘ではないわけで、愛聴している人たちも決して見栄などではなく、心がその音を求めているのです。





 クラシックのなかにもやはり好みは存在し、頻繁にお世話になる作曲家もいれば、いわゆる食わず嫌いのようなそれもいます。あまりに有名なメロディーの曲は、そこばかりに気をとられてしまいがちですが、冷静になって聴いてみると、素晴らしいのはその一部分だけではなく、むしろその裾野にこそ美しさがあったりします。また、好みは年を重ねるとともに変化するもので、僕自身、かつてはショパンのような非常にキャッチーで具体的なメロディーの曲が好きだったのですが、やがてドビュッシーのような抽象的なそれを好むようになり、最近ではラヴェルという作曲家の音を聴く時間が多くなりました。





 ラヴェルというと、それまでは、「ボレロ」や「展覧会の絵」の編曲、というイメージが強く、それほど一目置く存在ではありませんでした。それが、あるとき耳にした「クープランの墓」が38歳の僕の脳を刺激し、心の中にすーっとはいってきたのです。おそらく、20代では響かなかったでしょう。それからほかの音も聴いてみれば、いままで耳にしなかったのか、通り抜けてしまっていたのか、特にピアノの曲はどれも心地の良いものばかりで、僕は38歳になってようやくラヴェルに出会うことができたようです。





 一般的には、「キャッチー」なものが良いものとされていますが、ラヴェルのピアノ曲は、どちらかというと「キャッチー」ではありません。しかし、おそらくいまの僕は、キャッチーでない音、つかむことのできないメロディー、そういったものに惹かれてしまいます。音に振り回されたいのかもしれません。ただ、そんな僕が、捕まえてしまったメロディーがありました。それがは「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲。この言葉を聞いたことのある人も少なくないでしょう。





「なんて美しい曲だ。これは一体だれがつくったのですか」





晩年、記憶を失ったラヴェル自身が言ったようです。これは彼が24のときに作った曲で、この美しさにこれまで気づかなかった自分が情けないと思ってしまうのだけど、いや、いまこの年齢になって出会ってよかったといえるでしょう。この曲が比較的有名になったのはやはり「キャッチー」な部分があるからで、その部分を捕まえてしまいました。厳密にいえば、捕えられてしまったのは僕の方なのですが。そして、この曲を無性にリミックスしたくなり、深夜、がばっと起きてパソコンを立ち上げたのです。





 やはり、情熱、好きという気持ちはなによりのエネルギーになるのでしょう。それから完成するまではそれほど時間はかかりませんでした。それより少し前にボロディンのダッタン人の踊りをリミックスしたので、その勢いもあったかもしれません。





 クラシックの曲は、世界共通の音。国境も意味をなしません。リミックスをしていたら、そんな素晴らしい音たちが、とても近くに感じられました。急に世界が見えてきました。突然扉が開いたように、大量のひかりが降り注いできました。僕には、ファッショナブルな女の子も、ダンサブルな3人組もいないけれど、ベートーベンやラヴェルやドビュッシーがいる。こんなにも頼もしい味方がほかのどこにいるのでしょうか。もう、なにも怖くなくなりました。





 





 


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2013年03月17日

第523回「スマホが奪ったもの」




 もちろん、与えてくれたものもたくさんあります。しかし、その恩恵ばかりに気をとられて失われた事象に目を向けないと、気づいたころには手遅れかもしれません。いまや当たり前のように手にしているこの便利な道具も、ドラえもんのそれと同じように、使いかたを間違っては、依存度が高すぎては、どんなに素晴らしいものでも必ず痛い目に遭うでしょう。





 スマホやケータイの普及によって僕たちが失ったもの。いくつもあるなかでひとつ挙げられるのが、ぼーっとする時間です。





 授業中、注意をされたものでした。ぼーっとするな、と。しかし、無意識の世界に迷い込んだようなその時間は、きっと、人間には必要なものなのです。





授業中であればスマホを使用することができないので、まだその時間に充てることは可能かもしれませんが、電車に乗っている人がみなスマホをいじっている昨今、日常の中の余白がどんどん埋められていきます。ケータイからスマホになるにつれ、その傾向は顕著になり、もしかしたら宇宙人の策略ではないかと思ってしまうほど、人々はこの小さな画面に釘付けになってしまいました。





本来、ぼーっとするための時間がなくなって、それのなにがいけないの、と思う人もいるかもしれません。これがいけないのです。なぜなら人間には、ぼーっとする時間が必要だからです。いや、必要だから、ぼーっとしていたのです。この間に、頭のなかも、心のなかも、整理していたのです。自分と向き合う時間。自然との対話ともいえるでしょう。その大切な時間を奪われてしまった生活は、寝返りの打てないベッドで寝るようなもの。いつか、そのツケが回ってくるのです。





その結果、頭も心も整理できず、余裕がなくなり、常に追い込まれた状態になってしまいます。ましてや、他人の意識の中に放り込まれては、鬱につながるのも必然といえるでしょう。休肝日もあれば休脳日。人間の脳も休息が必要なのです。 





こうして、率先してぼーっとする時間を設ける必要性が生じてきました。奪われたなら、取り返せばいいのです。授業中、ぼーっと校庭を眺めている生徒には、注意するのではなく、「もっとしなさい」と。瞑想の時間というと大げさですが、積極的にぼーっとする時間を設けることが、これからの時代は必要なのです。ハンモックに揺られたり、黙々と山を登ったり。極力、自然と触れ合うことが望ましいでしょう。それぞれに、ぼーっとできる場所、空間を探すのです。





人類は、なにかを生むたびに、なにかを失ってきました。きっと、言葉や火が生まれたときも、なにかを失ったはずです。便利さと引き換えに必ずなにかを失っているのです。そして、失うことが、なにかを生んでいる。





先日、このようなことをラジオのテーマにしたら、奪われたものは「空」と答える人がいました。空を眺める時間も奪われたかもしれません。もしかしたら、もっと大切なものも見落としてしまっているかもしれません。僕たちは、どちらを眺めるべきでしょう。だからといって、この小さな窓を眺めるな、ということではありません。小さな窓ばかりになってはいけないのです。ここは、漫画の世界ではないのですから。



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2013年03月11日

第522回「それが終わりの始まりだとしても」




 もうご存知の方も多いかと思いますが、僕が司会を務めているMXテレビの「5時に夢中!」が、このたび、関西でもネットされるようになりました。神戸のサンテレビと、KBS京都。まだ都内でも知らない人が多いなか、これはまさに寝耳に水といえるでしょう。





これを朗報と捉えるか、悲報と捉えるかは人それぞれの解釈で、昨年の4月から担当したばかりの僕があまり偉そうなことは言えませんが、畑で作った野菜をたくさんの人に食べてもらえるのが農家の人たちの喜びと同じように、番組も、一人でも多くの人に観てもらうことが最大の喜びのはず。この知らせを聞いて嬉しく思わない人は番組関係者の中にはいないと思います。本気かどうかはわかりませんが、プロデューサーの「目標は全国制覇!」というインタビュー記事での言葉は、あながち悪ふざけでもないような気がしてきた昨今、もはや甲子園で日本一を目指す、高校球児のような心境になってきました。





 この番組が関西の人たちにどのように映るかはわかりませんが、関西弁こそ使用しないものの、決してこれが関東の味というわけでもありません。関西にもきっと、好きになってくれる人はいるのではと思いますし、下世話な感じはむしろ受け入れやすいかもしれません。





MXだから、そして全国ネットじゃないからできたこと、そういったものがたくさんあります。また、深夜番組がゴールデンになる際に、時間帯などを加味した結果、濃度が薄まり、面白味が半減してしまうケースもあります。しかし、予算などが大胆に増えるわけでもないと思いますし、コメンテーターの方たちも、ネットが増えたからといって言動を制限することはないでしょう。発信する側にはなんら大きな変化はないだろうと思います。唯一、変化があるとすれば、受信側、観ている人たちの心境です。





「自分だけが知っている」という気分は、エンターテイメントのなかでとても重要な魅力のひとつ。誰もが知っているよりも、自分だけの楽しみのほうが、気分は高揚するのです。それが、徐々に薄まっていくことは、「面白い気分」をどうしても奪ってしまいます。まだ全国を制覇したわけではないので、危惧するのは早いかもしれませんが、同じ内容でも、少人数のときのほうが楽しい気がするのです。だからきっと、いまが一番「楽しく感じられる」時期なのでしょう。





予算もない、知名度もない、そんな「ないないづくし」の世界は、とても愛にあふれています。一人一人が貴重で、一人一人の力が必要。そして、歯に衣着せぬ清々しいコメンテーターの皆さんの言葉は、メディアのジレンマを大きく突き破ってくれるでしょう。MXだからできること、それは決して、悪いことではありません。自分たちが正しいと思っていること、自分たちが面白いと思っていることを、そのまま届けている、極めて当たり前のこと。この番組が全国に広がるかどうかが、テレビの寿命を左右すると言ってもいいかもしれません。





 ネットが増えたことは、この番組が、ミニマムにとどまらず、メジャーを目指す方向に舵を切った証。それが実現できるかできないかはあくまで結果論であって、こんな楽しい気分にさせてくれる番組に出会えたことは本当に感謝に尽きます。甲子園の高校球児のように、全国制覇を目指して汗をかきたいと思います。たとえそれが、終わりの始まりだとしても。



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2013年03月03日

第521回「三月の雨」




  キミはいま、なにを考えているのかな。あれだけ毎日会っていたのに、急に相手にされなくなって、淋しがっているのかな。それとも、怒っているのかな。もしかしたらやっと休むことができて、ほっとしているのかもしれないね。





キミと出会ってから流れた月日は、決して短いものではなかったから、お互いにすっかり年をとってしまったけれど、その微笑みは相変わらず僕を魅了しているよ。





いままでどれくらい一緒にでかけただろう。どれくらいの距離を旅しただろう。キミと一緒にどれだけたくさんの音楽を聴いただろう。毎日、一緒に出掛けるのが当たり前だったから。





はじめてキミがやってきた日、僕はうれしくて、そのままキミと海へでかけたね。いつも、仕事に疲れた僕を、その表情で待っていてくれたね。レコーディングのあとはかならずキミの感想を訊いていたね。ここからいろんなものが生まれたね。機嫌を損ねると、キミはうんともすんとも動かなくなることもあったね。角をつけられてしまったこともあったね。





あたりまえに一緒だった日々が、あたりまえじゃなくなる日。





最後に、キミと遠くにでかけようと思っていたけれど、結局それもできなかったのは、キミの体が心配だったのかな。それとも、別れることが怖かったからかな。





キミを手放すときが来るなんて。キミと別れるときがくるなんて。そんなことは一生ないと思っていたのに、気持ちはゆっくり変わっていくのかな。自分でも信じられないよ。心が準備をはじめているよ。





本当はもっとキミと一緒にいるべきだったのかな。キミを手放したら、寂しさがこみあげてくるのかな。できることならキミとずっと一緒にいたいけれど、できることならキーホルダーにしてずっとポケットにいれておきたいけれど。





キミは僕に出会えて幸せだったのかな、わからないけれど、僕はキミに出会えてとても幸せだったよ。僕があたらしいものに心を奪われてはしゃいでいても、キミのことを忘れたりはしないと思う。忘れられないと思う。ときどき、街で、キミに似た人をみたとき、きっと、思い出すんだよ。





本当はお別れしたくないけれど、もう、これ以上キミをこの場所に置いておくこともできないから。さよならのときが来たんだね。さよならをしなくちゃいけないんだね。いまはただ、ありがとうと伝えることしかできないけれど。君に出会えたこと、君といっしょにいた時間は僕にとってかけがえのないもの。本当にいままでありがとう。僕の人生を支えてくれてありがとう。もしも天国で会えたなら、一緒にどこかへ出掛けよう。そのときまで、さようなら。





 





三月の 雨は少し あたたかく 別れのあとを 掻き消すように





 



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第520回「ダヴィデにパンツを穿かせよう」




 先日とある番組でコメンテーターが発した言葉を番組が謝罪する場面がありました。不適切な表現がありましたことをお詫びいたします。その「不適切な表現」とは。





「いっそのこと、尖閣諸島に落ちればよかったのに」





隕石についての言葉。たしかに、その部分だけを切り取れば大胆な発言と捉えることもできるけれど、実際その前後を含む穏やかな語り口を見れば、それがいかに悪意のないもの、平和を望む言葉であるかは一目瞭然。謝罪を要求されるような発言には値しないのに、番組は謝罪をしてしまいました。果たして、争いを生むのはどちらだろうか。言葉を切り取って騒ぎ立てる者を正義としていいのでしょうか。謝罪によって、その少数意見が正しかったことになってしまう。謝罪をすることで別の「不快」も生んでしまう。たしかにそのジャッジは難しいけれど、言葉に誤解はつきもの。多少のクレームはあって当然と思わないと何も発信できません。少数のクレームにいちいち振り回されていたら何も生まれない。数の問題でもありません。無責任なクレームに、いちいち責任をとらなくていいのです。





一方で、公園に設置されたダヴィデ像にパンツを穿かせてほしいという要請があったそう。教育上よくない。不快だ。ここで謝罪はなかったものの、議論が生じてしまう。こんなこと、まったく検討に値しないのに。





発端は愛かもしれない。正義かもしれない。しかし、クレームをつける人たちは、自分の言葉が世界を動かしているかのように勘違いし、そこに味をしめてしまう。図に乗ってしまう。やがて快楽を見出してしまう。そんな人たちの意見に振り回されて、なんのメリットがあるのか。設置しようとした者を含む世界の感覚と、不快に思う者、果たしてどちらの気持ちを尊重すべきなのか。





クレームがあって、謝罪して、キャッチ&リリースのように、それらを繰り返している世の中。一歩判断を誤ってしまうと、本当の正義が葬られてしまう。良いクレームもあれば、悪いクレームもあると同時に、良い謝罪もあれば、悪い謝罪もある。でも最近目にするものはどちらも後者ばかり。悪いクレームに悪い謝罪。悪いクレームは、個人の我を押し付け、また、悪い謝罪は、自分の保身。結局そこに、相手に対する愛はなく、自己愛のぶつけあいでしかない。自己愛は一向に構わないけれど、忘れてはいけないことがひとつあります。





「発信する者以上にクレームを言う者が力を持ってはいけない」





糾弾する人たちが力を持ってはいけない。クレームを怖れていたら、なにもできなくなってしまいます。なにもしないことほど怖いものはありません。クレームに屈してはいけない。クレームを怖れれば怖れるほど、彼らは図に乗ってしまう。クレームは言葉によるテロになり得るのです。





もちろん、少数派の意見というのは大切ですし、数だけで判断するものでもありません。しかし、なにも言わずに受け入れている人を無視してはいけない。





 





ダヴィデにパンツを穿かせよう。





ダヴィデにパンツを穿かせよう。





小便小僧にも人魚姫にも、衣服をまとわせよう。





二宮金次郎には椅子を用意しよう。





ダヴィデにパンツを穿かせよう。





ダヴィデがパンツを穿いた日に、





腐っていることに気づくだろう。





笑われていることに気づくだろう。





民度が低いとはまさにことこと。





そうやって、取り残されてゆく。





僕はそれでもかまわないと思っているけれど、





それには覚悟が足りないね。





 





 



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