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2012年04月29日
第485回「吠えない犬を散歩させる国で」
ボールで遊んではいけない、犬を入れてはいけない、大声をだしてはいけない、音楽を流してはいけない、他人の迷惑となることをしてはいけない。この国の公園はやがて、入ることを禁止されるのだろうか。
ゆっくりゆっくり広がっていく、なにもできない空気。禁止の波。
なにもできない公園はやがて、
なにもできない街になるだろう。
なにもできない街はやがて、
なにもできない国になるだろう。
なにもできない国はやがて、
なにもできない世界になるのだろうか。
いや、この島だけが
なにもできないのだ。
なにもできない島の
なにもできない人々。
なにもできない島で、
カステラはきっとおいしいことだろう。
いじめにつながるからあだ名が禁止される。いじめにつながるから徒競争から順位がなくなる。果たしてそれで解決するのだろうか。禁止すればいいのだろうか。闇が別の場所に移るだけ。あだ名は愛情表現のひとつ。世の中にはいろんな尺度がある。尺度事態を否定することが得策なのか。気に入らないことを容易に否定していいのだろうか。
それが人を苦しめるというなら、それを禁止するというなら、車を禁止するべきではないだろうか。車の事故なんてなくならない。絶対になくならない。人間が運転しているかぎり、車の事故は絶対になくならない。それで、車を禁止する人がいるだろうか。デメリットよりもメリットが大きいというのなら、車のメリットはどこにあるのだろうか。物事には必ず負の面が存在する。
もしも死にたくなるほどのあだ名をつけられた人がこの文章を読んだらきっと、「この人は、いじめられる人の気持ちをわかっていない」と糾弾するだろう。「なにもわかっていない」と。申し訳ないが、たしかにわかっていないかもしれない。仮に僕がわかっていないとしたら、ほとんどの人はわかっていない。それが現実なんだ。それでも僕は、いじめがなくなればいいと思う。だけど、人をいじめたくなる気持ちはなくならない。それを認めないと、もっと陰湿になる。もっと厄介になる。いじめにつながるからといってなんでもかんでも禁止したら、それは別の被害を生む。闇が広がってしまう。そのことを想像しているだろうか。
刺青が怖いのはどうしてか。それは、禁止しているから。あんなもの、だれもが自由にするようになれば、<しばらくたてば>なにも怖くなくなる。禁止するから恐怖になる。「禁止すると力を持ち始める」のだ。やがて、あだ名が力を持ち始めるだろう。だれかが発した言葉は、侮辱罪だと吊し上げられるだろう。あだ名が力を持ってしまう。でも、あだ名はそんなこと望んでなんかいない。あだ名は、人々に口にされることを望んでいる。公園は、みんなに愛されることを望んでいる。
ゆっくりゆっくり広がる、してはいけない空気。なにもできない島で僕は、カステラを食べよう。ざらめのところがきっとおいしいから。
2012年04月22日
第484回「ビルの赤いランプの点滅がまるでリズムに乗って手をたたいているように見えたんだ」
自分でイベントをはじめたい、そう思ったのは僕が頭にきのこをのせていた25のとき。20歳で芸能界の門を叩き、ロン毛に無印で購入した白いヘアターバンをかぶせて左右に揺れながらあっという間にテレビに吸い込まれると、体のなかに潜んでいた音楽に対する想いが溢れ出しました。クラブになんて行ったことなかったし、DJというものにそれほど関心はなかったけれど、昼間の仕事と共存させるうえでは都合のよい場所。クラブやDJという響きはいまでこそ市民権を得たものの、当時はまだまだアンダーグラウンドでダークで、実際ドラッグが蔓延しているところもありました。芸人なのにと白い目で見る人もいました。DJブースにお酒やライターが飛んでくることもありました。お客さんがたくさん来ることもあれば、ぜんぜんいないこともありました。いつでもやめることはできました。でも、やめることはできませんでした。
そうして、12年の月日が流れました。どうしてこんなにと、自分でも不思議なほどですが、干支も一周するほど続けてこられたのは、好き以外のなにものでもないでしょう。自分を表現したい、曲を作りたい、好きの内訳をあげればきりがありませんが、数々の要素をあげたところできっとそれは「好き」の一言に集約されるでしょう。継続は力なりというけれど、好きすぎてやめられなかっただけ。音楽が好き、ただそれだけ。
はっきりいって、バカなんだと思います。いつでもやめられるのに、こんなに真面目に継続するなんて、バカ以外の何者でもありません。バカになれるって幸せなことだけど、必ずしもそれは、ふざけることではないと思います。真のバカはなにもしない人ではなく、周囲を気にせず、没頭して、まわりが見えなくなるほど夢中になる、これが本当のバカだと思います。バカほど強いものはありません。バカは無敵です。
ある朝、ビルの赤いランプの点滅がまるでリズムに乗って手をたたいているように見えました。それは、僕がバカになった瞬間。そうして、世界がすべてリズムにのりはじめました。僕はこうやって、本当のバカになったのです。音楽なしでは生きていけない人間。それは聴く人間としても、作る人間としても。バカは何をいわれても平気です。好きなことをやっているだけだから。なにをいわれようが、この好きな気持ちにはかなわない。だれも止められないのです。
あれから12年。いまでは深夜のラジオで好きな曲や自分の曲を流し、クラシックの番組もやらせていただくことになりました。好きという気持ちが電波にのって、全国に届いているでしょうか。そして今日は三宿の日。12年前と同じメンバー。それにしても、みんな、オヤジになったなぁ。
2012年04月15日
第483回「kのこと」
kは嫌われていた。女子からも、男子からも嫌われていた。本人が気づいていたのかわからないけど、クラスのなかでのけものにされていた。なにをしたわけでもない、ただ、ちょっと不潔だった。臭かった。たしかに近くにいると独特の臭いが鼻を刺した。席替えで隣になると、女子は悲鳴をあげた。露骨に嫌な素振りを見せた。だから、kと二人組になるのは罰ゲームのようなもので、kがさわったものは「k菌だ!」と女子たちが騒ぎ立てた。
僕はといえば、そんな空気を打ち破るように、「お前ら、いい加減そういうのやめろよ!」と、ドラマに登場するような生徒、ではなかった。むしろ僕もkを嫌っていた、というより、kを嫌っているフリをしていた。露骨に否定することこそなかったものの、彼を擁護するようなことも言えなかった。積極的に仲良くしようとは思わなかったし、たしかに彼のがさつで不潔な部分は苦手だった。kの服はいつも汚くて、果たして着替えているのか、洗っていないのではという噂も流れていた。でもたぶん、理由はそこではなかった。嫌いなフリをしていたのは、自分を守りたいからだった。みんな、自分が嫌われたくないから、自分を守ることで精いっぱいだったから、kを守る者が一人もいなかった。
kはよく、にわとり小屋にいた。飼育係だったからか、だれも入りたがらないフンだらけの小屋にいた。にわとりを素手で掴むkを、網越しに眺めていた。kは、下の学年の生徒とよく遊んでいた。河川敷に釣りにいって、見知らぬ生物を教室に持ってきては、水槽のなかにいれていた。
一度だけ、kが泣いているのを見たことがあった。他のクラスの生徒と喧嘩をして、みんなが見ている前で涙を流していた。味方はだれもいなかった。僕にはそれが、悔し涙に見えた。
卒業文集に、なんでもナンバーワンというコーナーがあった。誰もがなにかしらナンバーワンを持っているという趣旨。kは「動物好きナンバーワン」だった。苦肉の策だったのかもしれない。
kは嫌われていた。僕も嫌いなふりをしていた。そのほうが楽だった。自分が嫌われずに済んだ。そうやって、自分自身を守っていた。人は誰しも自分がかわいい。自分が大切。でも、嫌いなふりをしていた自分をいまは好きになれない。
結局あの教室に、kが好かれる日は訪れなかった。僕たちは清々しい表情で卒業し、kは嫌われたままだったけれど、美しいのは僕たちではなかった。本当の「美」は、kのなかにあった。そのことに気づくことができなかった。
あれから30年。ときどき、kのことを思い出す。kのことを思うと涙がでそうになるのはどうしてだろう。いまはただ、kが笑顔でいることを願っている。
2012年04月08日
第482回「正義とはなにか」
「正義の味方」という言葉を耳にした幼少のころはなんの滞りもなくすとんと心に届いていたけれど、いまになってどうものどのあたりで引っかかるようになってしまったのはどうもこの「正義」というものに違和感を覚え始めたから。果たして正しいものなのか。仮に正しいとして、正しいと思ったことを貫くことはいいことなのだろうか。「正義」それ自体が正しいとしても、それを「貫く」ことは別次元なのではないか。「貫く」ことがむしろ世界を窮屈にしてしまうのではなかろうか。
犯罪のない世界があるべき姿ではない、というと誤解されてしまうかもしれないが、社会の秩序を乱す行為はもちろん咎められるべきで、犯罪が発生しないように社会は努めるべきだけど、それが取り締まりの強化によるものでは根本的に違うのではないだろうか。
ネットによる社会制裁。正義を振りかざす市長。どちらも「正義」。だれもが「正しいこと」を行使してまさに「正義の味方」を実感しているはず。しかし、だれも疑わない「正義」にこそ本当の恐怖があるのではなかろうか。なんでも力を持ちすぎたらそれは別のものに変貌するもの。いくら「正義」だろうがなんだろうが、それを振りかざして圧倒してしまえばそれは「暴力」。「正義」もたくさん集まれば「悪」になりうるのだ。果たして彼らはそこに気づいているのだろうか。「悪」を自覚した「悪」よりも、「正義」だと勘違いしている「悪」のほうがよっぽど性質がわるいことを。
正義かどうかはその立場によって尺度は変わるのはもちろんのこと、たとえどんな正義であってもそれを振りかざすことは「正義」を凶器に変えてしまう。だれも「正義」を他人に押し付ける権利なんてない。「正義」なんて所詮人間にとって都合のいいルール。そもそも限界があるものだし、「正義」で世界を丸くおさめようとした段階で愚かさの極みなのだ。いってしまえば、「正義」なんて存在しない。そんなものはあれと同じで、人間が生きる上で都合よく構築した幻想にすぎないのだ。
いろいろな人間がいる。様々な価値観が共存できる社会こそ健全なもの。ひとつの価値観を押し付けるようではそれは暴力とかわらない。言葉だったら何を発してもいいわけではない。ヒトラーだって時代によっては正義の味方だったはず。あの国にとっては、いや、いまでもそう捉えている人もいるだろう。正義がヒトラーを生んだのだ。
「世の中とはそういうものなんだ」
社会がすべてを受け入れるようになったとき、人はなにを正義とするのだろう。
「世の中に悪は存在してはいけない」
この考えは果たして、いつまで続くのだろうか。争いは、正義たちの戦いなのだ。
2012年04月01日
第481回「光と色のはなし」
「それは、青い光が反射しているからだよ」
海が青い理由は比較的語られるのに対し、りんごが赤い理由はあまり言及されないのはどうしてでしょう。海面に反射する光が人間の目に届いたとき、海は青く映る。だから海は青い。それと同じように、りんごも赤の光を反射するから人の目には赤く映る。だから、りんごは赤い。りんごだけでなく、木々の緑も、夕焼けの赤も、雲の白も、すべてがそう。この世に存在する色はすべて光の反射によるもの。だから、乱暴な言い方をすれば、色なんて存在しない。人間の認識のなかでのみ存在するそれを色と呼んでいるだけで、物質それ自体が色を帯びているわけではない。これは、地球が回っていることくらい大切なこと。光がなければ色は存在しない。この世界は、光が彩っている。
布団のなかでりんごを見たとき、それは赤いりんごが見えないのではなく、そのときりんごは赤くない、ということ。光のない世界に色は存在しない。いや、光が反射しないと色は生まれない。つまり、世界は、単なる光ではなく、「反射した光」で彩られている。
すべてを吸収すると黒になり、すべてを反射すると白になる。反射した光がその物質を彩る、それは何を意味するのか。
きっとそれは、光だけではないのでしょう。言葉も、音も、絵画も、すべて、なにかに反射したとき、つまり、だれかに届いたときにはじめて色になる。音が音であるのは、言葉が言葉であるのは、人に届いた瞬間。人の感覚を刺激したとき、はじめて、それが存在する。だから、人も、だれかに届いたとき、はじめて人であるのではないだろうか。一人でじっとしていても、存在すらしない。温度もそう。物質にしか宿らない。なにかにぶつからないと温もりさえ、存在しない。
アメリカ人もインド人も、空が青く見えていることは、あたりまえなようで実は奇跡なのではないでしょうか。空が青いという人類共通の認識。なかでも、日本人は色の識別能力が高いようで、諸外国の人々よりも、細かく色を識別できるのだそう。だから、もえぎ色だとか若草色という言葉があるのです。また、虹を3色で描く国もあるそうで、同じ人間でも、空は青いものの、必ずしも全く同じに見えているわけではないのです。犬の世界はすべて白黒なのはご存知でしょう。
「どうして海は青いの?」
人間の目がそれを、赤く認識していたら。もしも空が赤かったら。僕たちには、素晴らしい色が与えられている。海が青いのではなくて、青く感じられる力を与えられている。
人類はまだ、太陽と同じ光を創造することはできません。この世に光を与える太陽を見てはいけないのはどうしてでしょう。もしかしたら、反射した色を見て欲しいのかもしれません。太陽は、月を見て欲しいのです。僕たちが光なら、世界に色を与えられるそれでありたい。