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2011年07月31日

第456回「thank you for the music!2011」

「来年もやりましょう!!」

 その言葉が僕の耳にはいってきたのはまだ余熱のある終わって間もない頃。もちろん頭の片隅に全くなかったわけではありませんが、6時間のライブを終えたばかりの頭のなかには翌年のことを気にする余裕はなく、ただ無事に終えられたこと、参加、協力してくれた人たちへの感謝の気持ちでいっぱいでした。自分で推進していく力も大切ですが、思いもよらぬタイミングに発せられた周囲からの言葉はなによりも、イベントが客観的にどうだったのか不安だった僕を安心させてくれるものでした。そして、リキッドルームの翌年821日にこの文字が埋められるまで、時間はかからなかったのです。

 
それから今日まで、いろいろなことが起きて、いろいろなことを感じました。人とのつながりや、失うことや得ることの意味、言葉の力、言葉の無力さ。でも一番感じたのはやはり音楽の大切さ、必要性。聴くものとしても表現するものとしてもそれは、僕にとって相も変わらず欠くことのできないもの。最も失いたくないもののひとつだったのです。音楽が好きということ。音楽への変わらない想い。むしろあの日から、もっと好きになったのかもしれません。好きなものがある強さ。好きなものがあることが力、勇気になること。情熱をそそげるものがあることの幸福。

 
人類はこれまでさまざまなものを生み出しましたが、音楽こそ人類の比類なき素晴らしい創造物ではないでしょうか。たのしいときもつらいときも、僕たちの心に寄り添ってくれる音楽。国境を越えて共有できるもの。世代を超えて愛されるもの。心の空腹を満たしてくれるもの。もしかしたら音楽は異次元のものなのかもしれません。そんな、音楽に対する感謝の気持ちは計り知れず、なにより音楽を好きでいること、好きだと実感することこそ、音楽への感謝を表すものだと思っています。

 
みなさんのおかげでこのたび第2回を迎えることになった「thank you for the music!」今回も、これまでに出会った人たちとともに、あの箱の中を心地良い音でいっぱいにします。クラブミュージックに偏らず、ジャンルに囚われない空間。縦ノリも横ノリも、じっくり聴く時間も、thank you for the music!という言葉でつなげる。もちろん、笑いも忘れてはいません。

thank you for the music!」

 
これはイベントタイトルでもあり、アルバムのタイトルでもあり、曲のタイトルでもあります。曲のなかでは子供たちを中心に、たくさんの人たちがこの言葉を発していますが、このフレーズは3回繰り返したのちに、musiclifeに変わります。「thank you for life」音楽に感謝すること、生きていることに感謝すること。どんなことがあろうとも、生きていることがいかに素晴らしいことか、それを実感できるイベントにできたらと思っています。音楽と夏を愛する人たちが集まる場所、thank you for the music!で2011年の夏を彩ってみてはいかがでしょうか。

PS:ローソンチケットにて発売中!!

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2011年07月24日

第455回「絶滅危惧種カタログ〜僕はキミを忘れない〜危惧番号④町の本屋さん」

「そんなわけない!そんなことがあったら困る!」

 そんな風に思う多くのうちの一人でもある僕は決して読書家ではなく、むしろ日本人の平均よりも大幅に下回っている自信があるのですが、そんな僕でも困るというのは、かつてそんな経験があったからです。

 
それはBAGSという書店でした。一階に書籍、2回にゴルフ用品ということでBOOK&GOLFからBAGSという名前なのですが、家の近所ということ、深夜まで営業していることが、仕事帰りの僕をその場所に向わせました。静けさと、本の香りと、しっとりとしたBGM。店内はいつも、穏やかな空気が流れています。僕は本を探すというよりも、どこかこの落ち着いた空間を味わいに立ち寄っていました。豊富な品揃えというより欠乏した品揃え。一角には独特の観点で揃えたCDもあって、その足りていない感じがまた、よく言えばビレッジバンガードのようで、町のレンタルビデオ屋のようで、ただうろうろしているだけで妙に気持ちが高揚したものです。しかし、そんな大好きな空間がまもなくなくなってしまうという報告を受けると、スタンプカードも中途半端なまま、数ヵ月後に有名中古車販売店に変わっていました。それからというもの、仕事帰りにふらっと立ち寄る場所を失い、なんだか、精神のバランスを保つことが容易ではなくなりました。あれから数年経ったいまでも、あのお店があったらなぁと思うことがよくあるのはまさに、あの空間が僕にとって欠かせない大切な場所だったからでしょう。

 
そのように、個性的なものでなくても本屋さんというのは、ふらっと立ち寄る喫茶店のような、都会のオアシスのような、日常生活に潤いを与える場所ではないでしょうか。森林浴ならぬ書籍浴。いまの自分の精神状態に合う言葉を探す場所。日常とは違う世界を探す時間。町の書店が絶滅したらきっと気付くはずです。それが単に本を販売すること以上の価値があったということを。本屋さんの真の存在意義。しかし、どんなに人々の日常に潤いを与えていても、確実にそれは絶滅の道を辿っています。

 「ダウンロード」というものが登場したときは、こんなにも早く町のCDショップが消滅するなんて思いませんでした。楽曲に比べて書籍の電子化の動きは緩やかで、文字を読まなければならない分、オーディオプレイヤーのように小さくはならず、現段階では皆が電子書籍を愛読するようになるとは思えません。しかし、ちょっと空いた時間にパラパラと雑誌をめくっていた指は、電車のなかでマンガを開いていた指は、いまではタッチパネルに触れるようになりました。ペーパーレスになることはいいことかもしれませんが、テレビと同様に、人が、「雑誌そのものに目を向ける時間」が激しく減少しているのです。たとえ雑誌や文庫本に興味があっても、結局ネットで購入する機会が増え、どうしても時代は、都会のオアシスを干からびさせる方向に進んでいるのです。

 このたび報じられた雑誌「ぴあ」の廃刊は、ひとつの時代の節目、変化を象徴しているものといえるでしょう。今回の危惧度に拍車をかけました。かつては僕自身も、あのやわらかい紙をめくっては、公演スケジュールなどを確認したものです。独特な色合いの表紙も、書店に花を添える存在感でした。たしかに最近はコンビニなどでも見かけなくなり、それこそ手にしている人に久しく遭遇していませんでした。もはや情報は無料で手に入れるもの。ファッション誌にしても、おまけを付けてどうにか乗り切っているものの、その延命策ではあまり長く続くことは期待できません。このままではやがて、中吊り大賞もなくなってしまうのでしょうか。発売日を待つわくわく感も、本屋さんが配達に来ることも、なくなってしまうのでしょうか。僕たちが昔の巻物をみて、こんなもので読んでいたのかと不思議に思うように、やがてこの書籍を、ヤンジャンを、こんなものを読んでいたのかと思う時代がくるのでしょうか。

 
本の匂いに囲まれた小路。静けさ。本屋さんには無限の世界の入り口があります。頭が空腹、心が空腹のとき、その隙間をうめる言葉が見つかったときの喜び。紙の書籍自体がなくなることよりも、町の本屋さんがなくなることのほうが憂うべきこと。町の本屋さんといっていますが、巨大なレンタルビデオチェーン店にしたって安心はしていられません。きっとそう見えないだけで、時代に追いつくだけでやっとなのだと思います。本屋さんがなくなると、日常生活や社会に潤いがなくなってしまいます。町の本屋さんこそ、ゆとりの象徴、社会になくてはならない存在なのです。一日でも長く生き延びてもらうには、もはや買うしかありません。それが唯一、オアシスを守る手段なのです。もし仮にその日が訪れたとしても、僕は忘れません。あの空間があったことを。あの場所に、匂いと、静けさと、言葉を見つけたときの喜びがあったことを。





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2011年07月17日

第454回「シリーズ人生に必要な力その51カタコト力」

 いまだ衰えを見せない韓流ブーム。音楽やドラマだけでなく、幅広いジャンルでメディアを席巻している状況はもはや、ブームからスタンダードになろうとしている兆しさえ感じるほど。数年前のヨン様からこれまでにどれだけ多くのスターたちがこの国に足を運んだことでしょう。名前だけは知っている人からなんだか全然知らないけれど既に人気の人、そしていまではなにもしていない普通の韓国の青年も、ひとたび日本を訪れれば黄色い声援を浴びることができるのだそうで、もはや「韓国」や「韓流」という記号の強さはAKB以上の効力を持っているかもしれません。KRN48的風潮。若者の集まる場所が原宿から新大久保に変わり、グルメや企業も韓流を取り入れ、このままではエンターテインメント界だけでなく、この島自体が乗っ取られてしまうのではないかという危惧さえ生まれます。

 
ダンスの完成度や音楽性、演技力など、韓流タレントブームを支えている柱がいくつかある中で、ひとつ見逃せないものがあります。それが今回の力、カタコト力。彼らは、そして彼女らは事前に勉強しているのか、予想以上に上手な日本語を発するのですが、日本人からすればまだカタコトの域、しかしこれこそが韓流ブームを支える大きな要因なのです。古くはアグネス・チャンからケント・デリカット、ビビアン・スー、そしてユンソナと、これまでの日本で人気を博したタレントたちに共通しているのはほどよいカタコト。流暢ではなくたどたどしい話し方に、日本人は心を掴まれてしまうのです。 

 
ではなぜカタコトだと人気を得やすいのでしょう。それは、一生懸命だから。一生懸命だと聞き手に感じさせるから。ひたむきさ、けなげさ、純粋さ、そういった人間の美しい部分が、カタコトの日本語に凝縮され、つい胸がキュンとなって手を差し延べたくなるのです。

 
伝えることに一生懸命、それは相手に好印象を与えます。たとえ言葉が間違っていても、たとえ言葉が足りなくても、その姿勢に心が打たれるのです。実際、カタコトで話していた人が突然流暢に母国語で話すと、心が引いてしまうのは、理解できないからではなく、まったく別の印象を受けるからなのです。カタコトではありませんが、戦場カメラマンの人気も、単にスローテンポだったからではなく、その一生懸命さが人の心に届いたのでしょう。

「伝えることに一生懸命」

 
いまからカタコトになることは無理でも、これは可能です。伝えること、それはとても大切なことなのに、僕たちはどうしても軽視してしまいがち。軽視というと語弊があるかもしれませんが、伝えることを甘く見てしまう。伝えることほど難しいものはなく、自分が発したことをそのまま理解してもらうほうが奇跡で、むしろ誤解されることがあたりまえ。なのに人は伝わって当然と思ってしまう。誤解されると腹を立ててしまう。どんなに言葉を選んでも、それがイメージ通りに伝わるとは限らないのです。だからこそ、社会は丸くおさまるのですが。

 
かつて、「何を伝えるかよりも、どのように伝えるかのほうが大事だ」という話をしましたが、カタコトはそのいい例かもしれません。「私はあなたを愛しています」と滞りなく話されるよりも、「私は・・・あなたを・・・愛して・・・います・・・」とたどたどしく言われたほうが、なんだかよりぐっと心に響くもの。やはり伝え方は大事なのです。

 付け加えるなら、日本人は、そもそも海外からの来客に異様に弱いという点。というのも、海外では、どうにか英語を駆使して並べたところで、「は?チミ、なにいってんの?」みたいな表情をされることもあります。海外においては、カタコト力は日本ほど通用しないかもしれません。それに比べて日本人は、海外からの人がちょっと日本語を発すると接待するように笑顔で受け止めます。国際的な感覚の欠如。様々な人種のなかではなく、日本人とそれ以外という二者択一のなかでの生活。そういったことが、日本語を使用してくれる外国人に対して贔屓してしまうのです。また、たどたどしさの魅力は賞味期限があります。最初はいいとしても、日常生活で何年もカタコトで伝えられては、徐々にしんどくなる可能性もあります。だからカタコトは、ファンという距離感で楽しむのがちょうどいいのでしょう。 

 
一生懸命であることは美しい。それは伝えることに限ったことではありません。しかし、人はなにかを伝えずに生きてゆくことはできませんし、伝える気持ちはいつも大切にしたいもの。カタコト力、そえは伝えることに一生懸命になること。デーブスペクター氏も、もっとカタコトだったら、違う印象を与えていたかもしれません。人の心に届かせるためには、カタコトの日本語で話す韓流スターのような、一生懸命さが必要なのです。

PS:7月20日(水)から「LOVE DISCO」配信されます!ぜひこの夏のBGMに!!

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2011年07月10日

第453回「だから音楽が必要なんだ」

 永遠と一日、それでも僕たちは生きてゆく、LOVE DISCO。多少なりとも僕に関心のある人なら耳にしたことのある言葉かもしれませんが、これらはどれも3月11日以降に作成された曲。もちろん、あらかじめ作る予定だったわけではなく、結果的に生まれたものですが、いまあらためて聴いてみると、震災後の心境の変化が手に取るように伝わってきます。震災直後の音から、暗闇から抜け出そうとする音、そして数ヶ月経ったときのそれとでは、言葉からも察することができるように、まるで別の人が作ったかと思われるほど雰囲気が異なります。僕は普段、感じるまま、日記をつけるように曲を作るので、そのときの気持ちが音に強く反映されるのですが、それだけ創作活動というものは、時代に、そして環境に大きく左右されます。だから、たいていの作品はそういうものだと思いますが、冒頭の3曲はまさに時代が生んだもので、3月11日が何事もなく通り過ぎていたら、きっとどれもこの世に存在しなかったもの。作品の生みの親はいつも時代なのです。

 世の中には様々な音楽があり、聴かれ方も様々であるべきでしょう。僕自身も、ひとえに音楽といっても、聴く場合のそれと、作るときのそれでは役割が異なります。聞く音楽は、どこか温泉につかるような、体にしみこむような、心の安定剤的な役割。一方、作る音楽ないし発信する音楽は、自分自身を具現化したもの。心のなかにあるものが音に変換される。ただ、冷蔵庫のなかにある材料で料理をするように、これまで体にはいってきた音が素材になるので、聴く音楽と作る音楽は、完全に切り離せるものではないのですが。

「どうかしていた…」

 作り終えて、一段落して、感じること。いつも頭に浮かぶのはこの言葉。作っている最中はまるでなにかに取りつかれたように夢中になっていて、あとで冷静になってみると、「よくこんな曲作ったな」「こんな風に感じていたのか」と他人事のようにさえ感じます。夢の中にいたかのように、あとから目覚めて我に返る瞬間。自分で作ったとは思えないほど、身に覚えがない。作るというよりは、作らされている。それは、理屈を超越した世界かもしれません。

 言葉だけでは表現できないこと、言葉だけでは届かないところ。音楽は、言葉にはできないことを可能にしてくれます。言葉はとても便利な道具ですが、言葉だけではどうにもならないこともあります。理屈だけでは絶対に、世界は丸くならないのです。だから、音楽と言葉と、ふたつの力があったらそれほど頼もしいものはないでしょう。今回生まれた「LOVE DISCO」は、一見、恋する乙女の気持ちを歌ったダンスナンバーですが、これは東北の人だけでなく、日本中の人々に向けたもの、僕なりの応援ソングです。いろんな楽曲があっていいと思うのですが、「がんばろう」とか「ひとつになろう」だけが人を励ますとは限らず、そういった言葉はときに重荷になることさえあります。受験生に向って、「がんばってね」という言葉がプレッシャーになってしまうように。だから、東北の人だけでなく、すべての人の生きるエネルギーになるように作りました。歌詞の中に「生きる」という言葉がはいっているのはそのためです。

 クラブDJを始めて十余年。僕にとって作る曲はまさに、いまの日本に届けたい曲、日本中がダンスフロアなのです。だから、クラブでも時間帯によってかける曲が異なるように、震災直後と、数ヵ月後とでは、かける曲は異なるもの。ダンスフロアの空気にあわせた音を届けたいのです。

 自分の人生と、時代の流れが交わったとき、そこになにかが生まれます。それが音楽であっても、文章であっても、そのとき、自分の心の中にあるものをカタチにして残していきたいと思います。自分の気持ちと世界が折り合いをつける場所。2011年、LOVE DISCOは確実に、このタイミングでしか生まれなかったもの、このタイミングだから生まれたもの。この曲が、多くの人々の生きる力になると信じています。



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2011年07月03日

第452回「ふかわりょうができるまで①はじめに」

 今回から不定期開催することになりました、「ふかわりょうができるまで」。これは、週刊ふかわだけでも大変だというのに、アメブロだとかツイッターだとか、いろいろ手を広げすぎているため、せっかくリニューアルしたHAPPY NOTEから工事中の文字が消えないまま、ただ月日だけが流れてしまいそうな気配が漂ってきたために開始されたもの。そんな風に言うと、プロフィールなんて時間かかるものじゃないでしょ、と思うでしょう。たしかにその通り。事務所が管理している文言をコピペでもすればいいし、最悪ウィキペディアのリンクでも成立はします。しかし、晴れてリニューアルしたホームページ。せっかく遊びに来てくれた人に対して、著作物のうしろのほうに載っているような当たり障りのない情報では、あまりに楽をしすぎだし不十分。ここでは、ここでしか見られないプロフィールであるべきだと感じたのです。そうして、どの程度掘り下げるべきか、いつからの情報が適切なのかと考えた結果、こうなったら徹底的に精度の高いものにしよう、という決意に至りました。これを読んだ人が、僕という人間を知り、少しでも好きになってくれるようなもの、感情移入できるプロフィールにしようと。そして「ふかわりょうができるまで」というなんとも仰々しい文字が並べられた瞬間、僕の長い戦いの火蓋が切って落とされたのです。

 ただ、自分でプロフィールを書くという行為は若干の抵抗、厳密にいうと、自分で書いたプロフィールだと思われることに少なからず抵抗があります。というのも、自分の中での評価と他人のそれは違うものだし、こう思われたいのかと勘繰られてしまうのがどこか恥ずかしさが芽生えます。それに、これは単なるプロフィールというよりも、これまでの歩みとしての意味合いが強く、自叙伝的印象を与えるかもしれません。後世で語り継がれる偉人か、その可能性があればまだしも、まだ歴史的になにも痕跡を残していない身分。いま自叙伝を発表しても引力に欠けるし、ただ困惑させてしまうのではないでしょうか。また、ここが一番の問題ですが、結局僕も人間です。この世に完全なる客観的自叙伝はないというように、そこに誇張や美化が伴う可能性は大。嫌なことは触れず、いいことだけを誇張して伝える。都合よく脚色された自叙伝になることは間違ないのです。

 必要あるのかないのか、もはやこの異常なまでに長い前書きの段階で、先が思いやられるかもしれませんが、ここで掲載したものが、ハッピーノートのまだ工事すらはじまっていない部分に反映され、時間とともに充実していくという、それはまさにガウディーの建築を見るような興奮を与えるかと見込んでいます。もちろん、これは毎回取り組むものではなく箸休め的存在なので、恒例の堅苦しく長ったらしい文章が時折顔を出すかと思います。

 ちなみにこの「できるまで」、プロフィールのそれと、「ふかわりょう」そのものができるまでの、ふたつの意味があります。だからきっと「完成」は訪れないのだろうけど、自分自身を磨きながら、プロフィールという巨大な塔を築いていきたいと思うので、末永くお付き合いください。いったいどこからはじまるのか、乞うご期待!

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