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2005年07月31日

第180回「あの頃のように」

「ジョギングは夏に始めるとよい」
これは、ふかわ語録の2735番目の言葉です。冬の寒い時期にジョギングをしてもなかなか汗が出てこないため、燃焼している感じがなく、達成感、充実感、満足感、どれをとっても物足りないのです。それに比べ夏の暑い時期は、ただでさえ汗がじんわりしてるっつーのに、ちょっと走ったりなんかしちゃったら、そりゃぁTシャツが透けてしまうほどに、体中の毛穴から汗が噴き出してくるので、「いいぞいいぞ!俺、がんばってるぞ!」という充実感につながるのです。しかも、走り終わって家でぬる目のシャワーなんか浴びちゃって、そのあとにビール(僕は飲めないからオレンジジュース)を一気に流し込んだりでもしたら、その爽快感が病みつきになり、明日につながったりするのです。だから、もしジョギングを始めるのであれば、じっとしているだけでも汗がにじむ、今くらいの暑い時期がいいのです。実際僕が、走り始めてから一ヶ月くらい続いているのも、この爽快感のおかげでしょう。
「いったい俺はいま何キロなんだ?」
体型に緊張感がなくなり、常に顔がむくんだ感じになってしまった僕は、現状確認のためにまず体重計を購入しました。最近の体重計はかつてのような、目盛りが回転して数値を表すタイプではなく、液晶画面でデジタル表記が一般的です。しかも自分のデータを入力すると、体重だけでなく体脂肪や骨格筋率なんかもわかっちゃうので、もはや体重計でなく、ヘルスメーターと呼ばなければならないのでしょう。
「な、ななじゅうに?!」
それまでずっと57キロだった僕の体重は15キロも増加していました。ある程度増えてるだろうと予想していたものの、まさかの70越えだったため、さすがに困惑せずにはいられませんでした。しかもカラダ年齢は33歳と表示されました。
「ちょっと待ってよ、なんでなんで!?これぶっこわれてんじゃないのぉ?!だいたいカラダ年齢ってなんなんだよ、俺は誰がなんと言おうと30歳だよ!」
デジタルの無機質さは、ときに人を傷つけます。
「なんでだよぉ、だって確かに運動不足ではあるけど、お菓子だって一日一袋くらいしか食べないし、アイスだって毎日ピノを食べてるくらいだし、寝る前だってベビースターとか果汁グミとかしか食べてないし、休みの日だってなるべく家にこもってるし、、、おかしいよ、こんなに太るなんておかしいよぉ、、、」
太らない方がおかしい生活をしていました。お菓子などの間食が多いのも原因のひとつですが、やはり最初の突破口は以前番組でやった「まんじゅうだけで一週間」という企画でしょう。この生活がおそらく、体型を維持する緊張の糸を切ったのです。その後、タバコをやめたことも関係してきます。「タバコをやめると太る」なんてことをよく耳にしますが、たしかにタバコというストレス解消の道具を失うと、どこかでそれを補わなくてはならなくなるのです。それが食事に傾くケースは稀でなく、僕も、いつのまにか3食しっかり食べ、食後の一服の代わりにデザートのマンゴープリンを、仕事帰りのコンビニでタバコを買う代わりにベビネロを買ってしまうようになったのです。それでも10代の頃のように運動に燃えていれば脂肪もつかなかったのだろうけど、休みの日は12歩くらいしか動かないような生活なので、完全に供給過多になってしまったのです。
「これじゃそのうち80キロになっちゃうな、、、」
実際、おじさん体型っておもしろいなぁなんて思う時期もありました。仕事上、自慢の裸体を披露する機会があるのですが、その、お腹がぽっこりした、ラ・フランスのような体型は、恋愛においては不利でもバラエティーでは有利だったりします。そんな思いが余計に、僕をファニー体型にさせていました。しかし、僕はふと感じたのです。
「ちがうじゃないか、そんなの俺じゃないんだ!そもそも俺はタイトなスーツしか似合わなかったじゃないか。なのに最近はチャックが途中でとまってしまう、そんなの俺じゃない!そんなのもやしっこの恥だ!あの頃の、あの頃のシャープさを取り戻さねばぁー!」
それで、走り出したわけです。あの頃のシャープさを取り戻すために、陸上部だった僕は、十数年ぶりに走り出したわけです。時間があいたときに近所の並木道をTシャツ短パン姿で走るようになったのです。想像以上に体は重く、ウォーキングを随所に織り交ぜながらではあるものの、どうにかほぼ毎日走るようになったのです。だから、ピーク時に比べ、やや全体的にむくみがとれてきた気がします。寝る前のお菓子とか、毎日のアイスを控えるようにもなり、完全復活とはいかないまでも、徐々に余分な脂肪が消滅してきたのです。
「やっと実際の年齢になったよ」
ようやくカラダ年齢も30歳になり、日によっては27歳になったりします。毎日体重をはかり、毎日ジョギングすることがすっかり日課になったのです。するとですね、ひとつわかったことがあるのです。人間の体というのは、「疲れさせたほうが、疲れない」のです。矛盾しているようにきこえるでしょう。あえてそうしたのです。つまりこういうことです。
「俺は、ジョギングなんてかったるいことやってらんねえよ」って思ってなにもやらないでいると、かえって日常がかったるくなってしまうのです。ジョギングじゃなくてもいいのですが、汗かいてくたくたになるような運動をすると、未来はかったるくなくなってくるのです。平日会社で疲れているお父さんは休みの日こそ家族で公園をジョギングした方が、翌週元気だったりするのです。たしかに日課にすることはなかなか容易ではないのですが、それが当たり前になると、むしろサボることに罪悪感が生まれるようになり、走ることが日常になってくるのです。個人差はありますが、人間の体はある程度使っている方が、疲れないのです。
「がんばれ、がんばれー」
年配の人は、走っている人を見ると応援したくなるのでしょうか。庭先で草木に水をあげるおじいちゃんやおばあちゃんは、走っている僕を見てそんな声援をくれます。当然、僕のことなんて知りません。木々の間から差し込む朝の光を浴びながら走るのはとても気持ちがいいものです。なんか幸せな気分になれるのです。こんなことを言ってしまった以上、すぐにやめるわけにもいかなくなりました。画面で伝わるくらいシャープにならなくてはいけなくなりました。こうやって自分を追い込むことも、継続する秘訣だったりするのです。みなさんも、ぜひやってみては。

1.週刊ふかわ | 10:55

2005年07月24日

第179回「犬が好きなだけなんだけど」

なにも今日言わなくていいことなのですが、僕は犬が好きです。まったく珍しいことでもわざわざ発表することでもないですが、本当に犬が好きなのです。現在は飼っていないけれど、実家にいた頃は「チビ太」という雑種の犬を飼っていました。小学校3年生のときに学校に捨てられていて、そのまま持ち帰り、その後20年近く飼いました。とくにこれといった芸もなく、言う事をきく犬ではなかったけど、もうかわいくて仕方ありませんでした。なんなんでしょうね、あのかわいさって。もう見ているだけでぎゅーっと抱きしめたくなりますよね。僕はそういう、犬のようなキュートさを女性に求めてしまうきらいがあります。僕の理想のタイプというのは、「犬のような女性」と思っていたのですが、最近になってわかりました。「犬のような女性」じゃなくて、まさに「犬」なのです。「犬」が僕の理想のタイプなのです。もう僕の欲求を満たしてくれるのは「犬」しかいないのです。そんなばかげたことを真剣に思ってしまうほどに、犬が好きなのです。
だから、昨今のペットブームは少し不安になります。これだけブームになるとかならず悲しい思いをするペットが増えるからです。犬を生き物として扱わない人や、軽い気持ちで飼ってしまう人もいるでしょう。ペット産業が過熱すればそれだけ商業的になり、悲劇を生みかねないのです。そういった、人間のエゴでペットを悲しませるのはよくないことです。ブームの犠牲を犬に払わせてはいけないのです。
僕自身、犬を飼いたいのだけれど、一人暮らしで留守番ばかりさせていたらかわいそうだし、ペットを現場につれてくる女優さんはいても、犬を連れてくる芸人さんは見たことはありません。よほど大御所じゃないと「あいつ何しにきとんねん!」みたいになってしまうので、飼いたい気持ちを抑えているのです。だから、道端でかわいい犬を散歩しているひとを見るととてもうらやましくなるのです。「犬好きに悪い人はいない」なんて言葉を以前聞いたことがありますが、たしかに犬を飼っている人同士は共通点がはっきりしているから打ち解けやすいのかもしれません。生き物を飼うという感覚はたしかにどこかで思いやりの気持ちがないとだめなのでしょう。しかし、です。「悪い人」はいないはずの犬好きの中でも、「それはだめでしょ」って人がいるのです。同じ犬好きだけど、どうも許せない人たちがいるのです。散歩してフンを始末しない人なんかはまったく話にならないのであえて触れませんが、僕が気になっているのは「犬を放して散歩している飼い主」です。そういう人たちは決して悪人ではないのだけど、僕は、よくないと思うのです。たまに、こんなことがあります。
「こら、ラッキーちゃん、だめよ、こらぁ」
よほど飼いならされているのか、中型犬のラッキーちゃんはいつもリードなしで散歩しています。ラッキーちゃんは「絶対に人を噛んだりしない」のだけれど、好奇心旺盛なので気になったものに向って走ってしまいます。そのときも、男の人を発見し、喜んで走ってしまいました。すると飼い主のおばちゃんが少し離れたところからいうのです。
「こらラッキーちゃん、だめでしょ!ごめんなさいねぇ」って。そしてなにごともなかったかのように、去っていくのです。僕はそんな光景に遭遇すると、こう思うのです。
「ちょっと待ちなさいよ。ラッキーちゃんだめでしょじゃねぇだろうが。アンタは優雅に犬の散歩してるのかもしんねえけど、ここはアンタひとりの場所じゃねえんだよっ!放し飼いはおかしいんとちゃうんか」
要するに、大丈夫だからという自分の納得だけで、犬を放し飼いしているおばちゃんは、だめだと思うのです。「ラッキーちゃんが噛まない」ということは飼い主だけの常識であって、世の中の人が知っているわけじゃないのです。渋谷の女子高生も丸の内のOLさんも、霞ヶ関のサラリーマンも、みんな知らないのです。それなのに、おばちゃんは自分の価値観で「ラッキーちゃんはリードなくてもへいき」と決めてしまっているのです。しかしそれは、おばちゃんの中でしか成立しないことなのです。「噛む、噛まない」はあくまで結果論であって、周囲に「あ、犬が向ってきた、もしかしたら噛むかも!!」と思わせたらそれは立派な迷惑なのです。相手に恐怖心を与えているのだから、極端に言えば、暴走族と同じようなものなのです。リードなしで散歩する資格はないのです。これが仮に、犬が苦手な人だったらもっとその影響は大きいはずです。国民にアンケートをとった結果、100%の人が「ラッキーちゃんは絶対に噛まないし、人なつっこくって安全だよ」と口をそろえて言うようになるくらいじゃないと、おばちゃんはリードなしで散歩してはいけないのです。
 「自分の価値観を当たり前だと思ってはいけない」ということは、おそらくどの世界でも言えることで、社会で生きてきくうえでとても大切なことです。自分の尺度と他人の尺度なんて違うのが当然で、食い違わないほうがおかしいのです。みんなが違うものさしを使っているからこそ、「こことここだけはあわせよう」という「ルール」があるのです。だから飼う人は、自分の価値観で物事を進めてはだめなのです。世の中には犬を飼わない人、犬に興味を持っていない人、犬が苦手な人がいるということを常に感じていなければならないのです。
僕たちも、自分の価値観だけで物事を進めてはだめなのです。世の中には、自分と別の価値観で生きている人のほうが多いのです。だから、自分の価値観を押し付けるのではなく、人の価値観を認めなくちゃならないのです。そうしないことには、永遠に平和なんて訪れやしないのです。犬が好きだと言いたいだけだったのですが。

1.週刊ふかわ | 10:30

2005年07月17日

第178回「もうとまらない」

「ん?なんだこれ?」
ポストをあけると、いつもは不要な広告しかはいっていないのに、なにやら茶色の小包のようなものがはいっていました。
「めずらしいなぁ、こんな小包なんて...」
誰からだろうと差出人の欄を見ると、予期せぬ事態に僕は驚きました。
「ア、アマ...アマゾン?」
まさしくネット販売のアマゾンのことです。あまり宣伝ぽくなるのもなんなので、今後は「A」と表記します。
「なんで、なんで?!」
驚いたのは、注文していないのに届いたからではありません。
「えっ?なんでこんな早く届くの?!だってだって、注文したの昨日じゃなかった?」
あまりの配達の早さに驚いてしまったのです。ネット販売ってすくなくとも3、4日はかかるものだと思っていたのです。あまり詳細をみていなかったのもあるけど、まさか翌日手にするとは夢にも思っていなかったのです。
「ぜったい楽だからやってみたらいいよ!」
「いや、でもなんか僕ってネット販売とかって好きじゃないんですよねぇ。なんていうか、味気ないっていうか。人間社会に反するっていうか」
「まぁまぁ、やってみたら変わるよ」
近所のお気に入りのCDショップがなくなって、僕のCD購入意欲も減退していました。そんな矢先、知り合いの人が僕にネットで購入できる「A」を勧めてきたのです。当然、ラブ&ピースと人間愛を重んじる僕にとっては、ネット販売なんて人の温度を感じない冷酷な産業だと思っていました。しかし現実は、あらゆる面で僕の予測をはるかに上回っていたのです。
「しかし、昨日注文して今日届くとはなぁ...」
なかば興奮状態で茶色の小包を開けると、僕が注文したばかりのCDがちゃんとはいっていました。
「こんなに楽で便利なシステムだったら、みんなこっちに流れるよなぁ...」
ただ早いだけじゃないのです。品数もすごいのです。30年も生きていると、音楽の好みも多数派にならないことが多く、必然的にレアなCDを捜し求めることになります。しかし、大きいCDショップに行ってもなかなか見つからず、運がよければ取り寄せられるものの、輸入版だと取り寄せることすらできないこともあるのです。その点Aは、思った以上に品数が豊富なのです。通販だからといってなめてかかったらいけないのです。世界のレアグルーブが見つかったりするのです。そして、万が一なかったとしても、そうしようとしている姿勢が見られるのです。「なんとかしてアナタの欲しいもの見つけます」という熱意が伝わってくるのです。店員さんに面倒くさがられることもないのです。そしてもうひとつ、これが結構大事なのですが、音楽を開拓しやすい環境になっていることです。たとえば、ビートルズのアルバムを買おうとすると、「ビートルズ好きだったらきっとこういうのも好きかもよ」という具合に、他のCDもすすめてくるのです。これによって音楽の世界が広がっていくのです。商売上手といえばそうなのかもしれないけど、でもどこか良心的な匂いがするのです。ここらへんのことを既存のCDショップは怠っていたのです。そして最後に、これも発展の要素として重要ですが、「楽しさ」があるのです。「このコンピレーションに参加してるこの人って、ほかにCDだしてるのかなぁ?」なんて試しに検索してみると、「なになに、こんなにだしてんじゃないのー!」という具合に、そこには発見する喜びがあるのです。探していて「楽しい」のです。このペースだとAの宣伝だけで終わってしまいそうなので、あとはみなさんで体験してみてください。
もう、この流れは誰にもとめることはできません。ここでいくら「ネット販売は、人のふれあいが欠落している!」と叫んだところで、のれんに腕押しなのです。そんなの痛くもかゆくもないのです。なぜなら人類は、楽な方、便利なほうに流される生き物だからです。人類の歴史において、楽じゃない方向に進んだことはないでしょう。「人間は楽なほうに流される」それが自然の摂理なのです。この流れを食い止めるのは、ある意味、戦争をとめること以上に難しいことなのです。もしもネット販売をやめさせるには、それ以上に楽で便利な購入方法を発明しなければならないのです。
 では、今後どうなってしまうのでしょう。人々の買い物がすべてネットで購入するようになることだって考えられます。いくらそこに反発しても時代の流れをとめることはできません。大切なのは、状況を冷静に判断し、足りない部分を補うことです。ここでいう「人とのふれあい」がもしも欠如していたら、他の分野でそれをカバーしなくてはならなくなるのです。
音楽業界としては、ネット販売が主流になると、メジャーとインディーズの境は今以上になくなり、ダウンロードなども後押しして、現在のような「メジャーレーベルだからどうこう」といったことは軽減するはずです。悲しいことに、いくら時代はかわっても、金と権力で左右されることを皆無にはできないのです。しかし、ネット販売やダウンロードが主流になればきっと、ランキング番組なんかも減ることでしょう。個人的には、音楽をあの手のスタイルで世の中に伝えるのはおかしいと思っているので、あんなのはすぐにでもなくなったほうがいいのです。音楽は多数決じゃないのですから。
ということで、少しかたい話になってしまいましたが、簡単に言うと、「ネットで買うことにはまってます」ってことでなんです。いまさらですが。どこのお店でもみかけない(ビレッジバンガードをのぞく)僕の本やCDを、ここでは購入できるということも、「A」を支持する理由のひとつです。作者にとって、自分の作品がより多くの人の手に渡ることが幸せなのですから。

1.週刊ふかわ | 11:00

2005年07月10日

第177回「のび太くんにはわるいけど」

「ここは...どこだ...」
目を覚ますと僕は車の中にいました。いま自分がなぜ車内にいるのか、どこに行こうとしていたのかを考えようとしても、なかなか頭が働いてくれません。
記憶がよみがえってこないのです。
「...えっと...俺はなにをしようとしてたんだ...」すると、窓ガラスを叩く音が聞こえてきました。おそらくさっきから叩いていたのだろうけど、意識を回復したばかりだったため、パソコンの立ち上げのように、視覚や聴覚が機能するまで時間がかかってしまったようです。振り向くと、女の人がガラス越しに中をのぞき込んでいました。
「ちょっと、だいじょうぶ?お兄さん?!」
なにやら高速の料金所のおばちゃんのような人がガラスを指で叩きながら声を掛けています。
「...まさか...」
はっとなって前をみると、30メートルほど先に、まさに高速道路の料金所が見えました。
「ちょっとちょっと、お兄さん、起きた?!」
相変わらず窓ガラスを叩いています。徐々に記憶がよみがえってきました。
「...たしか...高速をおりて...」
料金所にさしかかり、スピードを緩めました。
「ったくなんでこんなに混んでるんだよ!」
最近はいつのまにかETC専用のゲートのほうが多くなり、現金払いのゲートだけが混んでいたりします。そのときも中央に3つ行列ができていました。
「それでも俺はETCなんてつけないぞ!」
そう思ってサイドブレーキをかけました...。そこで記憶が途切れました。まだ僕の車の前に10台ほど並んでいて、サイドブレーキをかけたところで意識がとんでいたのです。
「じゃぁ、ブレーキをかけたあと一瞬にして眠ってしまったということ
か...」
それ以外に考えられませんでした。しかし、辺りを見渡すと、前にも後ろにも車はなく、3列のうちの両端だけが長い列をなしていました。
「...ということは...」
散々クラクションを浴びているときも気付かないでいたことになります。僕は周囲に多大な迷惑をかけながらも、すっかり別の世界で眠っていたのです。なんとなく状況を把握してきたところで僕はウインドウをおろしました。
「ちょっとぉ、お兄さん!だいじょうぶ?運転できる?」
本来なら怒られて然るべき行為だったのかもしれないけど、そのおばさんは僕の体調を気遣ってくれました。
「あ、すみません。だいじょうぶです!」
「もうどうしたのかと思ったわ!ずっと停まってるからぁ...」
「ほんとすみません...ちなみにですけど、僕どれくらいここにいたんですか?」
こういうのって一瞬の出来事だったりします。
「えーっと、10分くらいかしらねぇ。もしあれだったら、あそこで休んでいきなさいね」
そう言うと、おばさんは自分の位置にもどり、ゲートの信号が青になりました。僕はまだ少し頭がぼーっとしたままサイドブレーキをおろし、そのゲートを抜けていきました。
「10分かぁ...」
たしか、のび太くんは3秒で眠れるという、誰にも負けない特技があったとおもいます。のび太くんには申し訳ないけどたぶん、そのときの僕は、何秒とかそういうことじゃなくって、まさに一瞬にして眠りの世界へと突入してしまったのだと思います。サイドブレーキをかけたと同時にぐわーっと落ちてしまったのです。フットブレーキだったらきっと気付かぬうちに足が離れ、前に突進していたかもしれません。そう考えるとサイドブレーキをかけていたのがある意味、不幸中の幸いだったのかもしれません。
低血圧だとか、寝不足だとか、原因をあげればそれらしいことはいくつかでてくることでしょう。ただここで言いたいのはそういうことではありません。今回一番伝えたいのは、「俺は眠いときはものすごく眠いのだ!」ということなのです。いわゆる一般的に使用されている「眠い」どころの話じゃないのです。その数十倍もの「眠い」状態に陥るのです。「すごく眠い」のです。以前から思っていたのですが、僕は「ベースが眠い人間」なのです。ベースが眠いというのはつまり、そもそも眠い、眠くてあたりまえ、ということで、眠くない時なんてたまにしか訪れないのです。あの人いつも眠いのによく頑張ってるわ、ということなのです。だからいつの日か、眠さを計る機械ができたらいいのにと思います。授業中居眠りしてても、すぐには怒られないのです。ちゃんと機械で計るのです。「97ネムイもあるじゃないか。すぐに保健室行って寝てきなさい」みたいになるのです。そんなことを考えてる僕は、「ベースが眠い人間」とかの前に、単に「自分に甘い人間」なのだろうか。
ブログの方、文字を大きくしてみました。

1.週刊ふかわ | 11:00

2005年07月03日

第176回「心地よい場所」

タイトルはかわりましたが、前回の「苦痛の器」の続編です。
「あれ?耕一先輩?!」
振り向くとそこに、かわいらしい女性が立っていました。
「やっぱりそうだ!耕一先輩ですよね?私のこと、わかります?」
「えっと...」
「ケイコです!大学時代のテニスサークルの後輩の!」
「...あぁ、ケイコちゃんか!なんか雰囲気変わってるからわからなかったよ!」
「だってもう何年ぶりですかぁ?ほんと久しぶりです!」
もう生きていく気力さえなくなっていた耕一の目の前に、大学時代の後輩であるケイコが現れたのです。
「そうそう!それで恐くなって、先輩に抱きついちゃったりして!」
「合宿は楽しかったよなぁ...」
再会したふたりは近くの喫茶店で思い出話に花を咲かせていました。
「...あのぉ、さっきから気になってたんですけど...それって...」
「ん?あぁこれ?結婚指輪...知らなかったっけ?」
「知らなかったですよぉ、そうなんだぁ!」
「ちなみにほら...」
耕一はケータイの写真を見せました。
「わー、もう立派なパパなんですねぇ!」
「いやぁ、立派なんてとても」
「...へぇ、かわいらしい奥さんですねぇ」
「もうだいぶ前のだから。いまじゃ色気も何も...学生時代がピークだったのかな」
「えっ?もしかして、同じサークルだったんですか?」
「3つ上の先輩でね。大人の魅力にやられたって感じかな...」
「そうだったんですか...」
ケイコはストローで残りのアイスコーヒーを吸い込みました。
「なにか、頼む?」
「いえ、だいじょうぶです...なんか、残念だなぁ...」
「え、なにが?」
「わたしももっと先輩にアプローチしておけばよかったなぁ...」
「な、なに言ってるんだよ」
「わたし、先輩のこと好きでしょうがなかったんですよ、気付いてました?」
「えっ?だってケイコちゃんはみんなにも人気があったし」
「わたしは先輩に会いたくってサークルにでてたんですよ!」
「ぜんぜんそんな風に思わなかったよ。そうだったんだぁ...」
耕一も、残りのアイスコーヒーを吸い上げると、同じものを注文しました。
「でもわたし、今日会えてよかったです...先輩にはかわいい奥さんもお子さんもいるけど...でも、先輩は今でも憧れの存在です...だから、会えてよかったです!」
ケイコの瞳にはうっすら涙が浮かんでいました。耕一は、その潤んだ瞳が、現実に起きている嫌なことをすべて忘れさせてくれるような気がしました。
「...先輩、また会ってくれますか?」
気付くと二人はベッドの上にいました。
「うん。また、会いたい...」
その日から、ケイコと会う日が続きました。耕一は、会社が終わるとそのまま家には帰らず、ケイコの待つ場所へと向かうようになりました。
「わたし、都合のいい女でかまわないから...」
ケイコはすべてわりきり、耕一にすべてを捧げました。耕一は、頭の中ではわかっているものの、ケイコから離れることができませんでした。なぜなら、耕一にとってケイコの待つ場所が、心地よい場所だったからです。当初のように、奥さんの顔がちらつくこともなくなると、耕一の生活にすっかりケイコとの時間が組み込まれていきました。

誤解されないように先にいっておきますが、決して不倫を支持しているわけではありません。あくまで例えばの話ですからね。

すっかり「苦痛の器」が満タンになり、破綻寸前のところまできていた耕一にとって、ケイコといる時間はあまりに心地よかったのです。まるで、器の底にある栓を抜き、にごりきった苦痛の液体をすーっとそこから逃がしてくれるような、そんな気分にしてくれたのです。疲れきっていた耕一には、ケイコという心地よい場所が必要だったのです。

それがゴルフだったり釣りだったり、タバコや酒だったり、温泉や海だったり、耕一にとってのケイコという「心地よい場所」は、誰にとってもあるものです。知らず知らずのうちに、そんな場所を見つけているのです。人はみなその場所で器の栓を抜き、苦痛の液体を逃がしているのです。ただ、人によってはそれがうまくできなかったり、心地よい場所すら見つからない人も当然います。心地よい場所が見つからず、苦痛を溜めるだけ溜めて、破綻してしまうのです。社会のルール、法律を破る人、罪を犯す人、ドロップアウトする人たちのほとんどは、こういった破綻から来ているのです。性犯罪や少年犯罪などもそうです。特に少年の場合、経験も少なく、心地よい場所すら見つかっていないのに、ただ苦痛だけを与えられていては、破綻してしまうのも当然といえるでしょう。だから、教育も見直さなければいけないのです。もう、知識を詰め込む時代は終わったのです。もっと、人間がどうすると壊れてしまうのか、どうすると破綻してしまうのか、そして、苦痛に対してどう対処するべきなのか、そういったことを少年たちに教えないといけないのです。方程式の答えはひとつでも、少年たちの心地よい場所は皆ちがうのです。少年たちに「心地よい場所」を見つけてあげるのも教育なのです。

「ねぇ...奥さんと別れること、できる?」
シャツに腕を通す耕一の背中に向かって、ケイコは突然つぶやきました。
「えっ?...なんて?」
「ううん、なんでもない...」
でも耕一にはしっかり聞こえていました。いつかそう言われるんじゃないかと覚悟はしていました。そしてこの言葉はまぎれもなく苦痛となって耕一の体内に入り込んできました。ケイコとの関係も時間の問題となりました。
「どうして?!どうしてわたしのことを捨てるの?!奥さんがそんなに大事なの!!」
耕一は泣きすがるケイコに一瞥することもなく言いました。
「キミは、栓を抜くだけでよかったんだ...」
そして、もはや心地よい場所ではなくなってしまったケイコのもとへ、耕一が訪れることはありませんでした。ケイコは「苦痛の器」の栓を抜くことができても、「愛の器」を満たすことはできなかったのです。耕一は、なんの記念日でもなかったけれど、ケーキ屋さんに寄ってから帰ることにしました。

1.週刊ふかわ | 10:00 | コメント (0)