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2016年12月25日
第687回「ありがとう2016」
夏を過ぎてからというもの、月日は加速度を増して流れ、あっという間に迎える年の瀬。おせち料理や神社のコマーシャルになんだかほっとしてしまうのは、こうして無事に一年を終えられる安心感からくるのでしょうか。
2016年。世の中はとても賑やかでした。芸能界、政治、スポーツ。国内、国外、どのジャンルにおいても話題に事欠かない、実りの多い一年。情報番組としても、ネタに困ることはありませんでした。
なかでも芸能界は、とても騒々しい一年でしたが、ピコ太郎さんや「君の名は」などのほか、流行語もたくさん生まれ、非常に華やかだったのではないでしょうか。また、「恋ダンス」旋風は、ドラマのTBSが貫禄を見せ、視聴率はうなぎのぼり。おかげで、全国のみんなで踊って終わる年の瀬になりました。「師走」から「師踊」へ。師も踊る年の瀬も、なかなか素敵じゃないでしょうか。
みんなで踊れば職場や学校も明るくなりますし、見ている側も楽しくなります。スーパーアイドルの解散はとても悲しいことですが、こうやってみんなで踊っていたら悲しいことも吹き飛ぶかもしれません。テレビとネットのコラボレーション。これからは、踊りを見せることも大切ですが、みんなで踊れることも、大事なエンターテインメントとなるのでしょう。
電車内でのメイクや、お寿司屋さんでシャリを残す女性、除夜の鐘のあり方など、その是非を問う議論が頻発し、なにかと「賛否両論」を目にしました。善悪の尺度、なにが正しくてなにが正しくないのか。一概には決められないものを、無理やり決めようとする風潮。善悪を決めたがる。悪を成敗したがるのは、自分が正しいということを意識したいからでしょう。
政治においても、新しい知事が誕生し、瞬く間に脚光をあびると、豊洲や競技場問題など、バサバサと刀を振り回しました。「ドクターX」しかり、女性ががおじさんたちに立ち向かう構図が国民には堪らないのでしょう。
そうして今年も、一文字が決まりましたが、「金」と発表されたところで、あまりの面白みのなさに、もはや役目を終えた感は否めません。やはり多数決が功を奏す場合と、それが裏目にでる場合とありますが、これに関しては後者なのでしょう。いっそ、文字を描く僧侶を「一文字専門僧」にして、その方の一存で決めてくれたほうがまだ清々しい気がします。いろんな人の声に耳を傾けるとろくなことがない、というのは言い過ぎかもしれませんが、そういう意味では、「金」という文字になったことは、昨今の世の中の「無難」志向を体現しているのかもしれません。
除夜の鐘が除夕の鐘になり、もちつき大会は中止、フライドチキンを素手で食べられない若者。コンビニやファミレスの24時間営業の終了。スーパーマーケットの苦境。価値観の変化によって、あたりまえだったことが、あたりまえではなくなる。伝統さえも破壊してしまう。いまや、なまはげたちもびくびくしていることでしょう。トランプ氏の当選やイギリスのEU離脱を見ても、やはり、時代の変換機なのかもしれません。これまで機能してきたシステムが破綻し、新たなシステムの導入が必要となってきます。
さて、今年はレギュラー番組だけではなく、ネタ番組や、大喜利番組にも呼んでいただいて、とても刺激的な一年だったと思います。クラブの番組もはじまりましたし、ホームページもリニューアル。もう、好きなことばかりやらせてもらっているわけですから、多くは望みません。2016年師走。常に、感謝の気持ちを忘れず、プカプカと浮いている浮き輪のように、時代の荒波を楽しみたいと思います。
今年もありがとうございました。来年も、どうぞよろしくお願いします。それでは、よいお年を。
2016年12月18日
第686回「しあわせの沼」
「それが…」
電話の向こうからやってくるその言葉で、あとにどんな言葉が続くのか、僕にどんな現実が待っているのか、伝わってきました。
「では、こんど見に伺います!」
東京から遠く離れた郊外のディーラー。都内、それもわりと家から遠くない場所にもあるのに、なぜわざわざ郊外まで足をのばすかといえば、そこにしかない色があるから。年式によって微妙に色や形が異なり、僕が目をつけていたのは、現在新車としては販売されていないタイプ。ただでさえ台数が少ない車種に希少カラーとなると、滅多にお目にかかれないのですが、連日サイトをチェックしていると、ついに中古車市場に登場したのです。
アンヴィル・グレーという少し青みがかった灰色は、2014年にのみ販売されたもので、あのジープのカタチにぴったり。これに乗っている自分が一番イメージできました。あ、そうです、まだ沼にはまっています。あれからというもの、僕は毎日、寝ても覚めても、ラングラーのことを考えていたのです。
街中で見かけては、指をくわえて眺めていました。走っていても、停まっていても、黒であっても、白であっても、まるでサラブレッドのようなその凛々しいシルエットは、あらゆる車が走る都会の街角で異彩を放っていました。
「もう、溺れそうだ…」
憧れつづけるのも決して楽ではありません。エネルギーを消耗する日々。沼から抜け出すために、いろいろな方法をチャレンジします。車が欲しいとはどういうことなのか。かっこいい車に乗りたいとは、どういう感情なのか。所有したい願望とは。人は、所有で幸福になれるのか。「あの車に乗りたい」という気持ちの奥にあるものに向き合うことで、欲望を粉砕しようとしました。
「いっそ、溺れてしまったほうが楽ではないか。」
そんな気持ちもありました。こんなにも苦しくなるのなら、気持ちが楽になるのなら、決して高い買い物ではありません。
と、ここまで苦悩するのは、もうひとつ理由があります。タチの悪いことに、今回、買い換えではないのです。いま乗っているビートルは下取りに出さず、買い足す、つまり、一台増えることになります。しかも、現在、遠出するとき用の車もあるので、そこにジープが加わると、計3台。それはさすがにまずいのではないか。これを許したら、気付いたら10台なんてことになりやしないか。おそらく、これが一番ひっかかっている部分でした。
「人として、どうなのか」
所さんやヒロミさんのようなカーマニアならともかく、僕みたいな、しがないMXの社員が3台所有なんて、贅沢すぎやしないか。好きな服を3着買うのとは違います。人間としていかがなものか。もちろん、駐車場や車検など、なにかとお金がかかることも軽視はできませんが、一番効くブレーキは、「人としてどうなんだ」というブレーキでした。
「買ってしまうべきだよ」「別にいいじゃん、働いて稼いだお金で好きな車乗って何が悪い!」「守りにはいってどうする!」「いや、3台なんてありえない!」「買うなら一台手放さないと!」「とりあえず年越すまで待て!」「来年新型が発表されるぞ!」カラダのなかに、何人かいて、タイミングによってさまざまな人格が顔をだします。
「それが…昨日、売れちゃったんですよ」
訪問する前日、念のために電話してみると、いつもより暗いトーンの声が戻ってきました。
「そうですか…」
電話を切った僕は、落胆や喪失感のなかに、一抹の安堵に気がつきました。それは、祖母を亡くしたときにも感じた、「解放される」ことから得られる安堵感。その言葉を待っていたわけではないけれど、その言葉が少し、僕を楽にしてくれました。そうじゃないと、あきらめがつかない。もしも見に行っていたら、さらに好きになってしまい、もっと辛い日々が待っていたかもしれない。僕は、あの車に乗りたいという願望と同じくらい、この状況から解放されたい、という気持ちがありました。
そして現在、相変わらず僕は、沼にはまったままでいます。もうすぐクリスマス。自分へのプレゼント、なんていう口実も、沼の引力になりそうです。また、あの色が中古市場に出回ったら。いま掴んでいるのが藁なのか、ロープなのかわからないけれど、こうして悩んでいる時間が楽しいのでしょう。だから、きっとここは、しあわせの沼なのです。
2016年12月11日
第685回「しあわせのおと」
ということで、リニューアルしましたHappyNote。いかがでしょうか。カテゴリーに分かれて、とても見やすくなったのではないでしょうか。このゆるかわいい雰囲気に、自分でも、見ていて心が和んでしまいます。
HappyNoteができたのは、世の中で「ホームページ」という言葉が広がりはじめた頃。それから2度目のリニューアルなので、10年に一度の頻度。やはり、時代の波に乗るということなのでしょうか。いまや、スマホで閲覧する人がほとんどなので、サイト自体もスマホ仕様にしたいなぁと、かねてより抱いていたので、ついに念願かなったことになります。
デザインは、これまで僕の配信ジャケットやアルバムジャケットをはじめ、ほとんどのデザインを担ってくれている方によるもので、いつも僕が言葉で伝えたイメージを形にしてくれます。こういうのは、えてして、言葉で伝えてもなかなかイメージが一致しないものですが、これまでの蓄積もあり、「つまり、こういうことですよね?」と、汲み取ってくれるので、やりとりが非常にスムーズにいきます。
言われてみると、たしかに女子力高めな印象もありますが、これが僕の内面なのでしょうか。なんとなく、「はらドーナツ」的な世界観。甘い香りがしてきそうで、珈琲にも合いそうです。中身が大事なのはもちろんですが、伝え方が9割。料理が美味しそうに見えるのも、器や盛り付け方次第。それで、素材もよければ文句なし!というところでしょう。
時代の波と言いましたが、これだけ選択肢が多く、情報があふれている中、僕に関心を持ってくれる人はまことに稀有な存在です。だから、せっかく興味を持ってくれた貴重な人が、wikipedia のみで終了したり、なんだかよくわからないで終わったり、知りたいのにうまく伝わらないようでは非常に残念。関心を持ってくれた人が、ここを訪れたとき、僕という人間を少しでもわかってもらえるように。もちろん、すでに理解してくれている人にも、より情報が正確に伝わるように。
「Happy Note」の「Note」は音。しあわせの音。しあわせノート。リニューアルこそしていますが、タイトルは変わりません。このサイトは、完成ということはなく、常に完成を目指していくようなものかもしれませんが、この場所を通じて一番伝えたいのは、「いま、好きなことをやっている」、ということ。好きな人やモノに囲まれて、いま、とてもしあわせなんだということ。このページを見たときに、そんなしあわせな音を感じてくれたら幸いです。新しくなったHappy Note、これからもよろしくお願いします。
2016年12月04日
第684回「マンネリの向こう」
「一定の技法や形式を惰性的に繰り返すだけで、独創性や新鮮味を失うこと。」
打破するとか、脱するとか、一般的にこの言葉は、悪い意味で使用されることが多いですが、テレビの世界においてはどうでしょう。いいマンネリも、悪いマンネリもあると思いますし、マンネリ自体は目指すものではなく、そこに甘んじてはいけないのですが、ただ、結果生じてしまったマンネリを「悪」とするかどうかは好みの別れるところです。
とりわけ最近のテレビは、安心・安定を求められているので、視聴習慣をつけさせるには、変化よりも変わらないことが大切な気がします。「笑点」や「徹子の部屋」、そして「サザエさん」。長く愛されている、「変わらない」光景。それらは決して惰性ではなく、偉大なるマンネリというべきでしょう。
変化を望む視聴者もいれば、望まない視聴者もいる。番組のジャンルにもよりますが、世の中が目まぐるしく変わるので、いまや娯楽の一要素になったテレビは、「変わらない」ことがその役目なのかもしれません。
ただ、本当の意味で、変わらない番組なんて存在しません。笑点だって、お題は毎回違うわけだし、メンバーだって入れ替わる。それに師匠達も、徹子さんも、年をとる。アニメだって、10年前と現在のタッチは違うでしょう。声もしかり。大胆なリニューアルは別として、視聴者には極力感じさせないように、変わっている。
先日、お菓子総選挙なる番組が放送されていました。日本のお菓子は本当に繊細な味で、今も昔もクオリティーが高いものばかりですが、やはり、昔からある味のほうが上位にランクインされるのは、その味がスタンダードであるだけでなく、時代に合わせて味を微妙に変えているからでしょう。時代によってイケメンのタイプが異なるように、時代によって、求められる味、おいしいと感じる味も変わる。だから、日々、研究を重ねて、「変わらない味」を追求する。「変わらない」を感じさせるために、時代にあわせる必要がある。生き残るために。
そして迎える紅白歌合戦。今年は第67回だそうですが、出場ラインナップが毎年話題になるのは、いまや番組という存在を超越し、日本の文化・風習、国民行事になっているからでしょう。それこそ企業努力の賜物。なかなかできるものではありません。ただ続けるだけでも素晴らしいことなのに。毎年、想像を絶する努力の結晶が画面に映し出されるわけです。
娯楽の選択肢の多い時代、ましてやプロデューサーが毎年変われば、視聴率を気にしないわけにもいかないでしょう。だから今回の「世代交代」という印象は、攻めの姿勢とも受け取れます。ただ、その戦いかたを誤っては、攻めも単なる媚びに映り、番組としての魅力や威厳が半減してしまいます。
また、テレビは視聴者あってのもの。新規顧客をとりいれるためとはいえ、常連さんを無碍にはできません。年配層のみなさんは、もしかすると、紅白という「味」に関しては、「変化」よりも「変わらない」を求めている気がします。
回転寿司もいまやファミレス並みにメニューが充実している昨今、そんな呑気なことも言っていられないかもしれませんが、紅白は日本人の心。やはり、最後は味噌汁を飲みたい。味噌汁で締めたい。毎年提供する味噌汁の味は、時代にあわせてほんの少し変えるだけのほうが、常連さんは喜ぶのかもしれません。
67回も積み上げてきた紅白という番組は、いわば富士山。派手なイルミネーションは必要ないのです。イルミネーション目的で訪れる者は、本当に富士山を愛しているのではありません。変化を求めるなら、チャンネルを回します。
紅白歌合戦というものはどうあるべきか。それは、テレビがどうあるべきかという問いにも通ずるものがあるでしょう。たくさんの娯楽のなかのひとつとなったテレビに求められるもの。そのなかでも、紅白が求められるものはなにか。誠に勝手ではありますが、僕は、富士山であってほしい。日本人のだれが富士山をみて、マンネリだと嘆くでしょうか。富士山は、富士山でいてくれればいい。時代が勝手に変わるのだから。