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2016年10月30日

第679回「やっぱり冬を、嫌いになれない」

 朝晩の冷え込みなんて、子供の頃は大して気にならなかったけれど、やはりこの年齢になると、気になるどころか一番の関心事になります。最近は、季節の変わり目のせいか、脚がズキズキと疼き、何日経っても治らないから整形外科に行ってみれば、レントゲンをとっても異常なし。古傷が痛むだけなのか、悪化するわけでも、治るわけでもない日々。よくわからないうちに痛みは消え、これが年をとるということなのかということで納得させる、晩秋。「疼く」のなかに見える、「冬」の形。

 ズボンはもちろん、靴下も、短いのから長いのに変わり、ずっと待機していた厚手の生地たちが挙って前にでてきます。久々に触れるコーデュロイの感触。朝のウォーキングにも手袋が必要になってきました。歩道橋の上から見える、冬の朝。空気がしんとしているから、光がいつもより透き通っている気がします。自転車で汗をかく季節もいいけれど、からだがゆっくりぽかぽかしてくるひとときもなかなかいいもの。

「やっぱり冬を、嫌いになれない」

 ギターの音色に加湿器のスチーム。そのうち、やかんのお湯が踊りだすと、あたたかいカフェラテの香り。光や、熱のありがたみを感じさせてくれる冷たい朝は、音の粒がはっきりと伝わってきます。窓から見える、焦げ茶色の木々と灰色の空。物悲しい色が、心を落ち着かせてくれるのです。

「やっぱり冬を、嫌いになれない」

 近所のお惣菜やさんからゴーヤ・チャンプルーは去り、煮物たちが幅を利かせています。シチューやお鍋の具材がスーパーに並び、おいしいものを、よりおいしいと感じさせてくれる季節。休みには、温泉にでもいって、あたたかい甘酒、豚汁の湯気で顔を覆われたいものです。

「やっぱり冬を、嫌いになれない」

 一年中冬だったら、こんな風に思えないかもしれないけれど、夏が終わり、秋を味わっているあいだにやってくる冬は、足音にも懐かしい匂いがあって、子供の頃以上にわくわくしてしまう四十二の晩秋。そろそろ来年の手帳を買わなくちゃ。いつも思い出すのが遅くなって、第一希望が手に入らなかったりするから。

 もういいかい。まぁだだよ。物置の奥に隠れた灯油ストーブたちも、そろそろ出番がくるころ。手袋とマフラーと。かじかんだ手をあたためるマグカップ。こんどはあのカフェに寄ってみようかな。あの夏を思い出す、冬の日の午後。待ち遠しくて、やっぱり冬が、嫌いになれない。

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2016年10月23日

第678回「日常を支えるもの ベルギー・ワッフル」

 僕がそれと出会ったのは、まさにベルギーを訪れたときだから、もう10年以上前のこと。もちろんその前からワッフルのことは認識していたし、その存在は日本でも何度も確認していたけれど、コンビニの一角で見かける程度で、どちらかというとビスケットの延長のような位置付け。よくてカステラの仲間。だから、ワッフルらしきものがお茶菓子としてできたところで感情が動くことはなく、いざベルギーを訪れることになっても、ワッフル食べるぞ!みたいな、旅の目的にさえなっていませんでした。

「なんだ、この甘い香り…」

 冬のグランプラスに漂う甘い香り。細い路地を抜けるとそこには、まるでクレープ屋さんのような店構えのワッフル屋さんがありました。

「せっかくだし、本場のワッフルでもたべるか…」

 そうして手渡されたワッフルが、かじかんだ指先を温めてくれると、湯気が顔を覆います。トーストほどの大きさで、製氷機のような凹凸には白いパウダーがかけられています。

「な、なんだこれは!!」

 それが、僕とワッフルの出会いでした。衝撃的なおいしさ。いままで誤解していました。いや、いままで目にしていたものは、もはやワッフルではなかったようです。それからというもの、一日のはじまりに。一日の締めに。ワッフル屋さんを見かけては立ち寄って、あたたかい、できたてのふわふわをほおばるベルギーの旅。なんにせよ、出来立てというのはおいしさを倍増させるものですが、ことにワッフルに関しては、いままでふかすまえの肉まんを食べさせられていた人がはじめてふかした肉まんを食べたときくらい、その出来立ての破壊力は凄まじいものがありました。

「あれ?あのお店は…」

 どこかで見たロゴ。小便小僧のマーク。まさに、ベルギーで見たお店が東京にありました。あのときのふわふわが味わえる。できたての、ほかほかのわっふる。差し入れで持って行ったり、ちょっと立ち寄って2、3個、はいと手渡されて、仕事に向かったり。

 コーヒーを片手に、できたてのワッフルの香りが充満した車に戻ったときの幸福感。コーヒーの香りと音楽がブレンドされてゆく時間。極上のひととき。

「これ、よかったらどうぞ」

 通い詰めた甲斐がありました。ついに、社員割のカードを授与されました。ベルギー・ワッフル好きの称号を与えられたようでした。

 都内に佇む小さなワッフルのお店。この食感と、香りのおかげで、コーヒーもより一層おいしくなる午後。冬になれば、香りも湯気となって見えてくるでしょう。日常は、指でなぞるワッフルの凹凸。日常レコード。

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2016年10月16日

第677回「パブリックまでの距離2」

 その「距離」が削ぎ落とされたことによって事故が起きやすくなったことのほかに、もうひとつ、大きな変化があります。それは、憧れる時間。これは何度もお伝えしてきたと思います。

 僕がこの世界を目指すきっかけになったのは間違いなく、テレビです。テレビに夢中になり、テレビに憧れ、テレビのなかを目指しました。いろんな人たちが見ている場所。たくさんの人に知ってもらう場所。あの中にはいりたい。テレビこそ、パブリックの象徴でした。

 いったいあの場所にはどうやったらいけるのか。だれも、僕があの場所にいけるなんて思いません。家のなかにあるのに、もっとも遠い場所。どれだけ時間がかかるのか、何をしたらいいのか。お金を払えばいけるわけでもない。お天気コーナーのうしろではなく、いわゆる芸能人として、日常的に映る。人によっては10年、いや20年やってもたどり着かないこともあります。続けていれば必ず到達できる場所でもありません。しかし、そのたどり着くまでの試行錯誤の時間こそ、一生の財産だと思うのです。



「憧れる時間。届かない距離」



 いまはだれもがパブリックにたどり着けるようになりました。時間をかけず、思い立ったら数時間後に到達できる。大きさこそ違いますが、動画サイトによって、だれでもいつでも画面のなかにはいることが可能な時代。これはとても素敵なこと。だれもが有名になれるわけではありませんが、タレントのような気分を味わえるし、主役になれる。ある意味、放送局でもある。これこそ、平等なのかもしれません。

 では、「たどり着かない時間」がないということは、どういうことなのでしょうか。野菜や果物が糖分をためる時間。熟す時間。時間にはかならず意味や価値があり、無駄な時間など存在しません。現像するまでの時間しかり、そういった、「時間」が削ぎ落とされた結果、前回お伝えした、玉石混交の世界ができあがりました。「たどり着かない時間」を失った世界は、修行を積まずに店を開いたお寿司屋さんばかりのようで、ちょっと物足りない気もします。

 テレビの得意分野・不得意分野があるように、ネットにも同様のことがいえます。テレビのなかとスマホのなかで集まる人物も異なります。パブリックがすぐ近くにある社会と、「時間」や「距離」が存在するそれとでは、形成される価値観や考え方が異なるのは当然。こうして、時代は変わってゆくのです。

 もしも20年遅く生まれていたら、僕はなにに憧れていたのでしょう。テレビのなかか、スマホの中か。いずれにしても、たどり着かない時間や、届かない時間が大切なことは変わりありません。それらはきっと、裏切らない。ネット社会は、その「距離」を近づけました分、ほかの距離は伸びたのでしょう。ネット社会が遠ざけたものが、必ずあるのです。

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2016年10月09日

第676回「パブリックまでの距離」

 インターネットの普及によってもたらされた社会の変化はいたるところで見られるなかで、もっとも影響を受けたもののひとつに、「パブリックまでの距離」があげられるでしょう。といっても、公園までの距離が近くなったということではありません。この場合のパブリックとは、世の中との接点を意味します。そこにたどり着くまでの距離が、以前と比べて、格段に近くなったのです。

 たとえば、僕もお世話になっている、サウンドクラウド。このサイト上でアップすれば、自宅で作った曲がたちまち全世界でアクセス可能になります。プライベートか、パブリックか。部屋だけで響かせるか、世界に響かせるか。それを、ワンクリックで決められる。なんて素晴らしいことでしょう。

 本来であれば、作った曲をすぐに届けることはできません。レコード会社を介し、レコードなりCDなり、なんらかの商品にして、さまざまな工程を経て、市場に流通するもの。物理的にも、時間的にも、それなりの「距離」がありました。そういった、パブリックまでの距離をすっとばして、いきなり市場に流通させることができるのが、ネット社会。それは夢のようなことでもありますが、同時に、怖いことでもあります。

 この度、ノーベル賞を受賞した、「大隈氏」。お気づきになりましたでしょうか。実は、間違いがあります。受賞したのは「大隈氏」ではなく、「大隅氏」。実際、ネットニュースではこのような間違いが多く見られました。間違いやすいとはいえ、人の名前、ましてやノーベル賞受賞者。新聞だったらこんなことは起きないでしょう。一度ネットニュースとなるとこのようなことが頻発するのはまさに、「距離」が短くなってしまったから。紙媒体であれば、文章が読み手の目に触れるまで、書店に並ぶまで、いろいろな人たちがチェックしますが、書き手から読者へダイレクトに伝えることが可能になったネット社会は、本来チェック機能の役割をも担っていた「距離」がそぎ落とされてしまいます。さらに、鮮度が命のニュースとなると、事故率が高まるわけです。

 新聞で誤字脱字はありえないものという信頼こそありますが、ネットの記事は、あまり信用できません。それは誤字だけでなく、内容自体にもいえることでしょう。まさに、玉石混交。だから、読む側も、気をつけなければ事故に巻き込まれることになります。

 全員に発信力が与えられたネット社会は、教習所なき車社会と同じ。皆がいきなり公道にでるので、危険なのです。炎上してしまう原因のひとつは、中身云々よりも、マネージャーや管理者などのチェック機能が働いていないことにあります。勢い任せの発信ばあまりに危険なので、ブレーキの設置が必要なのです。僕がこのように、直接ではなく、管理者を経由することでパブリックとの距離を保っているのは、そのためでもあります。(誤字はよくありますが、、、)

 誰だって過ちは犯してしまうもの。明暗を分けるのは、そこに距離があるかどうか。パブリックまでの距離が近くなったことは同時に、危険も近づいたということ。それが、ネット社会なのです。一方で、パブリックまでの距離の大切さは、ほかにもあります。

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