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2016年02月28日

第648回「きっと偶然では、ないのでしょう」

 カンニングの竹山さん、劇団ひとりさん、バカリズムのマスノくん、ビビる大木くん、そして有吉くん。テレビで見ない日はないというくらい、いまのテレビ界、バラエティー界に欠かせない存在、テレビを支える人たちであることはいうまでもありません。そんな彼らには、ひとつの共通点があります。それは、もともとコンビだったということです。
 テレビに出始めたときすでにピンで活動している人もいるので、その印象がない、薄い人もいるかもしれませんが、ほぼ同期の僕は、コンビとして活動していた時期を知っています。解散していたり、していなかったり、ピンにいたるまでのプロセスこそそれぞれ異なりますが、広い意味では、「もともとコンビだった」わけです。
 コンビとして成功している芸人さんたちも多いですが、これだけコンビだった人がピンで活躍しているのは、決して、偶然ではない気がするのです。
 僕自身も、最初は友達を誘ったこともあるくらい、やはり漫才やコント、お笑いといえば、コンビというイメージが強いです。オーディションなどにいってもそう。ピンやトリオよりも、コンビが目立ちます。ネタの作りやすさもあるでしょう。だから、いざ友達と別れ、ひとりでやっていくとなったとき、「ひとりでどうしよう」と、頭を抱えてしまいます。苦悩です。でも、この苦悩がのちのち効いてくるのではないでしょうか。
 相方がいなくなることによって、焦燥感や不安に襲われるはずです、「俺、大丈夫かな」と。だからこそ、がむしゃらになるエネルギーが、人一倍生まれるのではないでしょうか。それが結果として、自分らしさ、オリジナリティーを生み、あまたいる芸人さんのなかで、独特な存在感を放ち始めるのではないでしょうか。
 ピンチはチャンスというととても安っぽく聞こえるかもしれませんが、逆境こそ、これまでなかった力を発揮される土壌となるのです。それを、いまあらためて、テレビのなかで笑いをかっさらっていく彼らを見て感じるのです。
 同業者のことを触れることに照れ臭さがないわけではないですが、それほど強く感じなくなったのは、もう、僕たちには、それぞれの場所があるからかもしれません。同じテレビという商店街のなかで、それぞれ別のお店をやっている。なかには、もはやショッピングモールになっている者もいますが。このテレビという商店街にたくさんのお客さんが賑わうように、僕たちは日々、切磋琢磨し、活動しているのです。

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2016年02月21日

第647回「音を探しに」

 お金持ちの女性の大きなクローゼットを開けると、たくさんのハイヒールがずらりと並んでいるのを番組で見たことがあります。これはイタリアで見つけて、これはパリで、これはニューヨークで。収集欲のない僕にとっては、理解に苦しむといいたいところですが、自分にも似たような傾向があることに気がつきました。僕の場合は靴ではありません。大きなクローゼットに並ぶのは、音です。
 カタチがないので、並べるといってもイメージしにくいかもしれませんが、仮に見えるとしたら、冒頭の女性と同じ状況。たくさんの音に囲まれて、パソコンの前に座っています。とりわけ、デスクトップを新しくしてから、その傾向は顕著になりました。クローゼットが大きくなったから、ここにも置こう、ここにも置こうと、暇さえあれば、暇がなくとも、たくさんの音を収集してしまうのです。
「今日いいネタはいっている?」
 まるで、魚の買い付けをする大将のように、お店を物色。場所は築地ではありません。ネット上にあります。音を探すというのはあまりピンとこないかもしれませんが、ひとえにピアノの音といってもさまざまで、現実にもアップライトとグランドピアノ、メーカーによっても違いがあるように、デジタル化された音の中にもたくさんのピアノの音があるのです。
 仮に、波の音が欲しい場合、マイクを持参して海にいくのもひとつの方法です。かつて氷河が崩れる音を採取しにいくドキュメンタリーがありましたが。ただ、いざ海を訪れたところで、機材の都合上、クオリティの高い音は手に入りません。そうなると、だれかがしっかりとした機材で、南の島の誰もいない海で録音したほうが、質のいい「波」が録れるのです。こういったことが、あらゆる楽器においてあてはまるのですが、実際の音を録音して再現することをサンプリングといいます。その音に音階をつけて鳴らすのが、シンセサイザーです。
 同じシンセサイザーでも、アナログ・シンセというものがあります。これは波形の組み合わせによってひとつの音を作成するもので、ある意味、お蕎麦をそば粉から作るようなものです。厳密な話をするとややこしいので割愛しますが、大事なのは、音は無限にあるということです。無限にあるなかで、欲しい音を探す、まさしく音の旅。
 音の旅といっても、例にあげたような、ピアノの音というわかりやすい旅はあまりありません。「言葉では表すことのできない音」を探す旅。また、音を自分好みにカスタマイズしていく時間も、音を探す旅になるのですが、いずれにしても、自分が求めていた音に出会ったときの悦びは格別です。音を探している途中に、予想外の音に遭遇し、そこからあらたな曲が生まれるということもあります。寄り道をしたら素敵な景色に遭遇するように。そうして、旅を重ねてつかまえてきた無数の音色。そんな、たくさんの音に囲まれている時間が、僕にとって至福のときなのです。
 いい音を集めたところで、曲ができるわけではありません。たくさんの音があっても、使いこなせないと意味がありません。このクローゼットのなかのカラフルな音が、みなさんの耳に届くまでは少し時間があるかもしれませんが、いつかその大きさを感じる日が必ず来るでしょう。旅のお土産を楽しみに待っていてください。

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2016年02月14日

第646回「解約できない男」

「それでは、一度お越しになってもらえますか」
 その言葉に聞き覚えがあったのは、過去に同じことをしていたから。だから、電話をしながらも、たしか電話ではだめだったような気はしていたのです。

「そろそろジムいかないと…」
 思えば半年近く、通っていませんでした。自転車を漕いでジムに向かい、プールで泳いでお風呂にはいってと、爽快感を味わっていた夏。やがて気温が下がってくると、足が遠のき、自転車に乗るのも億劫になり、あの頃のように通わなくなってしまうのです。それでも、月謝を払っているわけですから行かなきゃとは思いつつ、結局冬眠状態。それでも、引き落とされてゆく月会費に、フラストレーションも溜まります。過去に同様の経験をしていることも、解約のブレーキになっていました。
 その時は数年たってからだったけれど、水泳に関心が向いてきたこともあり、あたたかくなって再入会したのです。だから、いま解約しても、夏になれば、「あぁ解約しなければよかった」、なんてことになりそうです。冬だけ解約して夏限定会員になるというのもひとつの方法なのかもしれませんが、どうもそれは僕の美学に反します。また、「プールは、行こうとおもえば、別の場所にもあるじゃないか」と囁く解約派もいます。会員になるのではなく、その都度利用料を払う施設。そんな、解約派と継続派の拮抗状態が続き、ずるずると、時間だけが経っていたのです。
「あの、解約したいんですけど…」
 そんな僕が、ついに電話をしたのは、今年にはいってからのこと。男として、けじめをつけなければいけない。
「それでは、何日までにお越しいただけますか?」
 薄々感じてはいましたが、やはり電話で解約の手続きは不可でした。ネットで入会はできても、解約は顔を合わせないといけないシステム。ただ、締め日の都合で、今日解約しても明日解約しても同じ状況。実際、猶予期間は2週間ほどありました。
「そうだよな、電話じゃだめなんだよな…」
 別に悪いことをしているわけではないのだけど、どうもキャンセルするというのは気持ちのいいものではありません。しかも、面と向かってなんて。気が重たくなりました。電話の向こうの残念そうな声。電話でさえ気が重いのに、直接伝えることができるだろうか。いざいったところで説得されてしまいそうです。もはや、解約しにいくくらいなら、プールにいった方が楽なのではないか。それこそ、フィットネスクラブ側の思う壺かもしれません。おそらく、同じ状況の幽霊会員は腐るほどいるのでしょう。直接行かないと解約できないという人間の心理を突いた作戦。
「あしたいかないと…」
 締めの日が迫ってきました。明日を逃すと、また無駄に会費が引き落とされてしまいます。
「あしたでいいか…」
 やはり、締めの日、当日を迎えました。今日こそは行こう。解約しよう。もしかしたらカウンターも混んでいるかもしれないけれど、「あなたもですか?」みたいな表情を向けられるかもしれないけれど、今日はっきり伝えよう。仕事の帰りに寄ろう。
「しんどいなぁ…」
 体調がよくなかったこともあり、帰りに寄るつもりが、一旦家に帰ることにしました。

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2016年02月07日

第645回「パロディーばかりの世の中じゃ」

 いつのまにかすっかり関東でも認知されてきた恵方巻きですが、今年は例年にも増して、便乗商品が乱立しました。恵方サンドから恵方チキン、まさかの恵方巻きサイダーなるものまで登場したそうで、もはやここまでくると憤ることもなく、笑うしかありません。もしも宗教的儀式だったらたちまち炎上でしょうが、ハロウィン、クリスマス、そして恵方巻き。本質ではない要素を掘り下げ、膨らまし、自己流にアレンジするのはもはや日本人のお家芸かもしれません。
 パロディーやアレンジが得意な民族であることはかつても言われていました。電化製品が飛ぶように売れていた時代、日本は新しいものは作らないけれど、すでに存在する商品を模倣し、独自のものにアレンジばかりしていると揶揄されたものです。海外の商品の真似ばかりしている。模倣、アレンジが悪いことではなく、そういう能力こそ、社会を支えているわけですが、たしかに世紀の大発明といわれるような発想は生まれにくい土壌なのかもしれません。
 テレビをつけてみれば、ドラマも映画も続編ばかり。特に近頃目にするのは「パロディーCM」の数々。最近は昔話をモチーフにしたものが流行のように流れています。たしかに面白いのですが、ひとつ言っておきましょう。パロディーというのは、面白くてあたりまえなのです。
 ベトナムにいくと、バイクに乗っている人がみな暴走族のようにみえます、というのも、みな黒いマスクをしているからです。これがなぜ悪そうにみえるかといえば、「マスクは白い」という原点があるからです。笑いにしてもそうです。裸族を裸でいることを恥ずかしいとは思わないのです。つまり、原点がはっきりとしているものは、変化させるだけで、「面白い」のです。
 パロディーがいけないのではありません。パロディーやカバーにも傑作はあります。一方で、眉をしかめるパロディーもあります。しかし、単に原点からずらすことばかりに甘んじていては、過去の産物を消費しているだけで、生産性がないのです。
 事情もわかります。ヒットソングが生まれない。だれもが知っている曲がない。つまり、視聴者の最大公約数がない。そんな時代に、お茶の間の関心を引き付けるためにパロディーに走るのも無理はないのです。
 カバー曲のなかには、曲に対する愛情よりも、売れたくてしょうがないという気持ちの方が先走っているものがよくあります。それらを咎めることができないのですが、そこにオリジナルに対する敬意がないと、聞いていて気持ち良くありません。「君の瞳に恋してる」もカバーですが、あれだってカバーされることによって爆発的にヒットしたもの。もちろん、フランキー・ヴァリの段階でもある程度の認知こそされていましたが、そこに胡座をかいたのではなく、あらたに命を吹き込んだのです。同じカバーでも、大ヒットした曲の恩恵を受けるだけのものとはわけが違うのです。
 パロディーのほうが簡単といっては少し乱暴ですが、パロディーが、天地がひっくり返っても、オリジナルを越えられないのは事実です。オリジナルが偉大だということは不変的なことなのです。
 だから、オリジナルの面白さと、パロディーの面白さを同じ土俵にあげるのはナンセンスで、もっと、オリジナルを称えるべきなのです。ひどいのは、それがカバーやパロディーであるのもかかわらず、オリジナルだと思って称賛される風潮。それでは、創作の神様から天罰がくだります。
 音楽でもCMでも、ドラマでも、オリジナルで攻めていく時代にしたいものです。過去の産物の恩恵を受けるばかりでは、この先なにも残らなくなってしまいます。温故知新とは、過去のものにすがることではありません。0から新しいものを創る。なにもないところから、土を耕し、種をまき、根が張られ、幹が育ち、やがて花が咲く。オリジナルという果実を実らせるには、オリジナルを称える風土が必要なのです。

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