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2013年12月30日

第555回「歪なピアノ」




「おかしいなぁ…」





 世界大会にでられるのではというくらい物をなくす才能に恵まれている僕は、あるものを探していました。厳密に言えば、なくすというより、どこに置いたか覚えていない。きっとあそこだろうと思っていた場所に、その姿がない。度重なる紛失に、捜索願でもだしたくなるほど。





「捨てちゃったかな…」





捜索していたのは、コード。コンセントに差し込むコード。以前、不要になったパソコンなどのコードは考えずに捨てるべき、なんてことを片付けの達人が言っていたから、もしかしたらどこかのタイミングで捨ててしまったのかもしれません。こういうことがあると、やはり無闇に捨てるものじゃないと思ってしまうのです。





「どうしたの、そのキーボード」





車から玄関まで運び、壁にたてかけた電子ピアノを見た母の言葉。





「もう、使わないから」





本来なら区役所などに連絡し、粗大ごみとして回収してもらうのでしょうが、やり方がわからない僕は、とりあえず実家に一時避難させる癖がありました。末っ子の悪いところです。新しいキーボードを購入し、最初は共存も可能かと思っていたのですが、やはり2台は不要でした。それに、たまに音がでなかったり、使いすぎて、白鍵がところどころ浮き上がっていたので、もはや時間の問題。いつまでも物置でじっとしているのもなんなので、年を越す前にどうにかしよう、となったのです。





「これ、コードはないの?」





階段を降りてきた父が、その歪なキーボードを眺めています。





「家にあるかもしれないけど、どして?」





「せっかくだから、弾こうかと思って」





意外な言葉でした。というのも、父は、ピアノが置いてあるラウンジなどでぽろぽろと弾いていられるほどの腕があるのですが、だいぶ前に、実家に置いてあったピアノは処分していたのです。それも、僕自身も使用していた想い出のピアノでもあったのに、もう弾かないから邪魔ということで。それ以降、バイオリンは演奏するものの、ピアノには一切触れていなかったであろう父の口から、そんな言葉が出るなんて。





「探せばあるかもしれないけど…」





「まぁ、なければ処分するよ」





どうしても見つけたくなりました。この気持ちの正体がいったいどんなものなのかわかりません。父に、再び鍵盤に触れる機会が訪れることが、嬉しかったのかもしれません。





「ちがうなぁ…」





手にするのは、関係のない、謎のコードばかり。肝心のコードは見つかりません。そして、ようやく見覚えのあるアダプターらしき四角い物体が姿を現しました。メーカーの名前からして、きっと、これに違いありません。





「コードあったよ」





「そうか、じゃぁ、こんど来るとき持ってきて」





メールの最後には笑顔のマークがありました。もしかしたら、孫にでも弾きたくなったのでしょうか。きっと、いまごろ、年を越すことができて、ほっと息をついているのは、あの段差のある歪なピアノかもしれません。さぁ、これから大掃除をしなくては。



10:08 | コメント (0)

2013年12月15日

第554回「反省やめました」




 まるで「冷やし中華はじめました」のように、「反省やめました」という貼り紙を掲げ始めたのは一年ほど前。わざわざ周囲に知らせることでもないのかもしれませんが、ひそかにこんなテーマで臨ませてもらいました。これが、20代前半の駆け出しの頃であれば多少の違和感もあったでしょうが、自然とこのような心境に至ったのです。





人生で、はじめて反省をしたのはいつでしょう。小学校にはいって、「反省会」というシステムに押し込まれたとき。いや、それだって最初は、本当の反省はしていなかったかもしれません。反省のマネなら猿でもできますが、実際、動物のなかで人間だけなのでしょう。





そもそも「反省」とは、あとから振り返って、どこが悪かっただの、あそこをこうしていればよかっただの、時間を設けて問題点を浮き彫りにし、事態を改善させる行為。もちろん良い点も含まれますが、実際には悪かった部分が大半で、次回に反映させる。二度と失敗を繰り返さないようにする。そういう意味では、とても大切な行為。では、どうしてこんなにも大切なことを放棄するのか。それは、「そんなことしなくても、充分わかっている」から。





思い通りいかなかったとき、そのギャップを埋めるべく、反省をする。反省したくなるのです。どこが悪かったのか、どうすればよかったのか。頭のなかで整理して自分なりの結論を出すのは、自分が納得したいから。もやもやを取り除きたい。次は失敗したくない。つまり、反省という行為は、「心のなかにあるもやもやや、やりきれなさを、自分の納得のために言語化しているだけ」であって、ならば、心で、体で、感じているだけで充分なのです。わざわざ言語化したり、原因を追求する必要はありません。そんなことに時間を割くよりも、気にせず前に進んだほうがいいのです。





それは、責任逃れでも、聞く耳をもたないことでもありません。むしろ責任を持ち、自分で決断しているからこそ、「反省しない」のです。例えになるかわかりませんが、トイレだけ利用した罪悪感を払拭したいがためにお水を買うくらいなら、その罪悪感を抱いていた方がいい、ということです。





実際のところ、こういう性格だから、「よし、今日から反省しない」と決めても、すぐに実行できるものでもありません。「どうして反省してしまうんだ」と、反省することもあります。本当に反省しない者は、こんなこと考えることさえないでしょう。また、交通事故を起こしたり、ワールドカップの出場をかけたサッカー選手であったら、もちろん話は別。現在の職業、これまでの経験、そして自分の性格を考慮したうえで、このスタンスがベターだろうという判断。だから、押し付けたり、強要するものではありません。僕はいま、こんな生き方をしています、というだけ。いつか、「反省はじめました」という紙が貼られないことを願うばかりです。





 





 



11:26 | コメント (0)

第553回「痛みは、川のせせらぎのように」




「もう、最悪だ…」





 前にも後ろにも、ぎっしりと無数の車が並んでいます。郊外での仕事のために車で向かったものの、帰りが行楽帰りのタイミングとぶつかってしまい、大渋滞にはまっていました。のろのろ動いたり、まったく動かなかったり。こういうときに限って、事故が発生し、さらに渋滞は激しくなります。いったい何時に家に着けるのか。自慢じゃないですが、この世で一番と言っていいほど、渋滞が苦手。閉所恐怖症ならぬ渋滞恐怖症。精神が不安定になってしまうのです。たとえ時間がかかってもいいから、一般道にでてここから抜け出したい。その気持ちが、インターチェンジでハンドルをきらせました。もちろん、東京まではまだまだ。それでも、この状況を打破したかったのです。





「こっちもか…」





しかし、流れたのも束の間、まもなく渋滞にはまり、進むスピードもさっきと変わらなくなりました。見知らぬ道なので、いったいいま、どこらへんを走っているのかもわかりません。





「あのまま降りなければ…」





 絶対に言ってはいけない言葉。口にはしていないものの、心のなかでリフレイン。しかし、引き返すわけにはいきません。それは傷口に塩を塗る様なもの。だからといってこのまま進むのは、傷口を広げるようなもの。どっちにしても苦痛は伴うというなか、僕は、引き返すのではなく、前に進むことにしました。





「なんでこんなところにいるんだ…」





 見知らぬ街のコンビニ。ケータイの充電もなくなり、さらに心の余裕もなくなります。コーヒーが喉を通過していくと、再び見知らぬ道を走りはじめました。ナビはつけないタイプなので、標識と勘を頼りに進む、日曜日の夕暮れ。すると、高速の標識が現れました。それは、さっき渋滞していた高速ではありません。別の高速道路。これならきっと流れているだろうと期待に胸を膨らませて乗ってみれば、一瞬にして膨らんだ胸は萎みました。





「最悪だ…」





 何度心でつぶやいたでしょう。やりきれない気持ち、やり場のない怒り。いったい何時間ハンドルを握っているのか。こんなこと二度と経験したくない。そうしてどれくらい経ったでしょう。もう計算したくないほど、帰宅までとてつもない時間がかかりました。飛行機に乗っていたら余裕で海外。そんな、最悪だった時間が、二度と味わいたくない時間が、どうしたことでしょう。いまとなっては、あれも悪くなかったと思えてきました。それどころか、むしろ愛おしくなっています。あのコンビニで飲んだコーヒーが、見知らぬ街のネオンが、記憶のなかで、妙な輝きを放っているのです。





苦痛でしかなかったあの時間、あの痛みが、記憶のなかで、心地いいものに変わっている。最悪だった一日が、最良とまではいかないまでも、素敵な一日に、変わっている。痛みとはいったいなんなのでしょう。もちろん、思い出すのも嫌な痛みもこの世にはあります。しかし、あの時あんなに辛かった時間が、日常生活のなかでときどき、川のせせらぎのように、きらきらと輝くのです。それは、単に懐かしさからくるものではありません。痛みが、世界を輝かせる。痛みが、人生を、輝かせるのです。



11:23 | コメント (0)

2013年12月04日

第552回「そういうものなんだ」




 それでこの時期になると、毎年、だれが出場するだのしないだの、観るだの観ないだのと、大みそかにまつわる一連のやりとりが展開するのがこの島の習わし。今年にいたっては、「内定」という言葉も飛び交うほどで、それほど注目すべき行事なのかはわからないけれど、いざ決定してみれば、「歌合戦」というよりも事務所の「権力合戦」じゃないかと思えるほど、見事に腑に落ちないラインナップに仕上がっている。しかし、これはいまにはじまったことではなく、いつのころからか、もはや腑に落ちたためしがない。





 なぜ腑に落ちないかといえば、イメージ的に、公平性が求められているから。放送局の特性もあるけれど、それ以上にこのステージは、「ふさわしい人」がでるべき、と思われている。しかし、「ふさわしい」の尺度ほど曖昧なものはなく、国民みんなが納得するラインナップなんてもはや不可能に近い。なのに、みんなが納得するステージがどこかにあると信じてやまない人がいる。そういう人々が目くじらをたてる。





 たしかに、聞いたことのない名前やまったく馴染みのない歌もあるかもしれない。きっと、事務所の力だろうなと、あまりに露骨な枠もたしかに存在する。





でも、それこそが、人間くさくていい、と思う。公共放送だろうがなんだろうが、人間が運営する会社。やはり、そういうもの、なのである。出場を夢見て、この日のためにがんばってきたところで、世界はそういうもの。この世になにを期待しているのか。期待が裏切られて腹を立てるくらいなら、最初から期待なんてしなければいい。期待通りにならないのが、世の中。腑に落ちる世界のほうが、よほど不気味なのだ。





 理想を掲げることも、期待することも構わない。しかし、それが裏切られたからといって、いちいち意気消沈したり、腹を立てていたら、人生もたない。そういうものだと、力を抜いていればいい。





 描いた漫画を出版せず、土に埋める人がいる。彼にとって漫画は、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、好きだから書いている。それで十分しあわせなのだ。僕たちは世界になにを求めているのか。夢も希望も、期待も理想も、捨てる必要はないけれど、それらを世の中に、他者に押し付けるのは、迷惑千万。自分で切り拓いた道。常に、そういうものだと、受け入れてみればいい。容易なことではないけれど、理想を追い求めるよりも、ずっと、簡単だ。とりあえず、まずは深呼吸から。




19:08 | コメント (0)