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2013年04月22日
第528回「それが人間というもの」
就活うつ、という言葉にどこか腑に落ちない気持ちが生じるのは、なんでもかんでも「うつ」という言葉で片付けてしまう風潮に対して。「うつ」とか「ストレス」という言葉は非常に便利な言葉で、そこに結び付けてしまえばひとまず落ち着かせることができます。原因を特定できただけで、すっきりしてしまう。ゆえに、疑問も感じない。だからといって、容易に「うつ」や「うつ病」という言葉で片付けてしまっていいのでしょうか。
「ストレス」は、場合によっては「エネルギー」になりうるもの。その側面を語らずに、あってはならないものとして扱うのはどうなのでしょう。「うつ」も同様に、落ち込んだり、やる気がなくなったり、そんなことは、生きていれば必ず起こりうること。それを「病気」と断定するのは容易なことではありません。極論をいえば、「本当に、うつ病は存在するのか」ということになります。
こんな風にいうと、目くじらを立てる人がいるでしょう。「なにもわかっていない」「うつ病になったことがあるのか」と、感情的になるでしょう。きっと、その人はうつ病ではありませんし、僕自身も「存在しない」とは思っていません。おそらく一部には存在しているのでしょうが、その状態を「うつ病」と呼んでいるだけであって、果たしてそれを「病気」扱いすべきかどうかは議論の余地があります。
なにかあるとすぐ「うつ病だ」と決めつける風潮。本人も、病院も。落ち込みやすい人が「うつ病です」と宣告されたら、反論するエネルギーはあるでしょうか。「それを病気と呼んでいるだけ」なのに。
なんでもかんでも病気にすることで、笑顔になるのはだれでしょう。治療を続け、薬を投与し続けるのは誰のためでしょう。病気が、作られているのです。このままでは、「正常病」という病気もできるかもしれません。
本当に苦しんでいる人たちもいます。全力で医療に従事している人たちも、もちろんいます。しかし、人に対して容易に「病気」だと決めつける風潮は、放っておいてはいけません。人それぞれ違うものなのに、人と違うことを「病気」と決めつけることは、許してはいけません。人は落ち込むもの。不安定なもの。みんなと違うもの。すべて、人間の特徴なのです。
実際、現代人の心が弱くなっているのは事実かもしれません。その要因から目を背け、「うつだ」と決めつけていては、一向に改善されません。この文章を「頭がおかしい人が書いた」と誰かがいえば、すべてそう聞こえてしまうでしょう。世の中、洗脳合戦なのです。
「あなたは病気です」
この言葉にだれが太刀打ちできるのでしょう。疑心暗鬼になるのではありません。すべては自己責任。自分で判断しないといけないのです。
2013年04月19日
第527回「祝!13周年!!」
毎月開催している三宿webでのイベント、ロケットマンデラックスが今月で13周年を迎えることとなりました。25歳ではじめたこのパーティーもあっという間に13年。気づけばこのクラブで、いや、都内で、いや、日本でもっとも長いクラブイベントになっているのかもしれません。5人から4人になったものの、DJ陣は同じ顔ぶれ。このメンバーで地方遠征にいったりもしました。僕が山梨と出会ったのも、それがきっかけとなっています。お客さんも、入れ替わりはあるものの、久しぶりに来てくれる人もいて、母校の先生のような気分になるときもあります。
こんなにも続いたのは、続けたかったからなのか、終わることができなかったのか、開始するときはまさかこんなことになるとは思っていませんでした。そもそもこのイベントは、僕がDJをするイベントではあるものの、目的は「DJをすること」ではありませんでした。一番の目的は、曲を作ること。当然、DJをやりたくないわけではありませんが、曲を作るため、音楽表現をするためのフィールドとして、クラブを選んだのです。
いまとなってはDJをする人はたくさんいて、それこそ同業者のなかでもDJイベントを行う人は少なくなく、女性のDJも当たり前になってきましたが、やはりかつては偏見や先入観もあり、クラブやDJという響きは、遊んでいる危険なイメージが先行していたものです。実際、仕事をしている感覚ではありませんが。ましてや軸足を芸人という場所におきながらという姿勢は、必ずしも万人に受け入れられるものではなく、まぁ言わせておけばいいかと聞こえないふりをしていたけれど、昨今の周囲の視線とは異なるものでした。いまでは、なにかあるとDJを呼んでパーティーを盛り上げるという風潮になり、かつて芸人さんがやっていた盛り上げ役をDJが担うようにもなりました。DJというものがすっかり定着したのです。
そうしてDJのイメージは変わったものの、まだトラックメイカーであることはあまり知られていないかもしれません。全員ではありませんが、単にクラブで曲をかけるだけでなく、曲を制作するDJは珍しくありません。僕のようなタイプがそれに当てはまりますが、今後はそういった面が日本でも広がるといいなと思っています。
「DJ、やってるんですよね?」
13年も続けてきたことは、決してすごいことではありません。13年続けたということは、それ以上でもそれ以下でもなく、13年続けた、ということ。そこで得たもの、体で感じたものが真実であって、自分だけがわかっていればいいのだと思います。音楽に対する気持ちは、いつまで持ち続けることができるのでしょう。わからないけれど、僕にとっては1時間DJをすることも、1時間司会をすることも同じこと。やはり、LIFE IS MUSICなのです。
PS:ぜひ遊びに来てください。4月19日(金)ロケットマンデラックス〜13周年スペシャル〜OPEN23:00@三宿WEB
2013年04月07日
第526回「もしもいまキミに会えたなら」
僕にはいま、会いたい人がいます。会って、お礼を言いたい人がいます。これまでの人生においてお世話になった人は数知れず、ひとりひとりお礼を言おうとしたらきっともう間に合わないのですが、さしあたって最近とくに、「ありがとう」と伝えたい人がいるのです。
「あのときは、ありがとうございました!」
しかし、それは叶わぬことかもしれません。というのも、出会ったのは数年前のこと、その人がいまどこでなにをしているのかわかりません。もっというと、名前すらわかりません。そんな人にいまお礼を伝えたいのは、そのときは伝えられなかったから。むしろ、そのときは腹を立てていたくらいで。
「嘘だろ…」
僕は愕然としました。家に帰って袋を開けてみると、そこにはフライになったアジがどーんと横たわっていました。
「聞き間違える?!」
僕は、カキフライと伝えたつもりでした。いや、確実に伝えました。カキフライといったのに。カキフライが食べたかったのに。タルタルソースで半分、ソースで半分。たのしみだったのに。だいたい、アジフライなんてまったく眼中にない。そんなもの、独身男性が食べるものじゃない。僕の滑舌が悪かったのか。確認を怠ったからなのか。なんでまたアジフライなんかを。そう思いながら、しぶしぶ口に運んでいました。それから月日は流れ。
「これは助かる!」
引っ越した先の商店街のなかにたたずむお惣菜屋さんは、パン屋さんのように自分でおかずをトングでとっていくタイプ。僕の視線はすぐさまカキフライに留まりました。隣には例のフライもいます。かつての僕であれば迷わずカキフライを掴んでいたことでしょう。しかし、カキに向かったトングがとまりました。あのとき口にしたアジフライの味が蘇ってきます。あのサクサク感と脂ののった白身。ソースをつけてもよし。なにもつけなくてもよし。なんだか今日は、カキフライではない気がしてきました。
「こっちにするか…」
トングはアジフライを挟んでいました。その日だけではなく、そのお店にいくと必ずアジフライを掴むようになりました。いや、アジフライを食べたくて、あのお店に足を運んでいました。あのとき間違えられなかったら、僕はまだアジフライと出会っていなかったかもしれません。
「名前はわからないんですけど、カキフライとアジフライを間違えた人で…」
そんな手がかりでわかるわけありません。もうきっとあのお店にはいないのでしょう。彼女はいまどこでなにをしているのだろう。アジフライと出会わせてくれた彼女に、いま、伝えたい。素敵な出会いをありがとう、と。
2013年04月03日
第525回「これほどうまい肴はない」
近頃の若いモンはというフレーズはいつの時代もあるもので、世代間における価値観の違いが生じるのはむしろ社会が健全なことを証明しているとはわかっているけれど、だからといって若者たちの生き方に違和感を覚えず、すんなりと理解を示すような寛容な人間になってはおっさん失格。彼らに腹を立て、まったく響かないにもかかわらず警鐘を鳴らし続けてこそ親父たち。最近の若者に対する違和感こそ、最高の酒の肴なのです。そんな私たちにとって、格好のターゲットが現れてくれました。
「さとり世代」
素晴らしい響き。草食男子だなんだと騒がれる昨今、これほど上質な酒の肴があったでしょうか。耳にしただけで、もうよだれがでてしまいます。
それは、ゆとり世代の次世代の若者たち。欲しがらない若者たち。車も恋人も欲しがらない。プロセスよりも結果を重視する人々。
定義はどうであれ、この「さとり世代」という響き。そもそも、親父たちの多くには、世代コンプレックスがあり、団塊世代やバブル世代にあてはまらなかった者にとって、カテゴライズされているものへの嫉妬心が常に存在します。ましてや「さとり」だなんて、すでに人生を達観したかのようだし、これまでの苦労を否定するような言葉が生まれたのなら、実際はイメージのなかでしか存在しないちゃぶ台返しをしてしまうのです、頭の中で。
「欲しがらない若者たち」
世界中どこを探してもこんなにおいしい肴を提供しているお店はありません。いつもの焼酎も今日は格別。もう、若者たちに足を向けて寝られません。親父たちは、若者たちにもっと感謝すべきでしょう。
きっと、若者のすべてがそういうわけではないにしても、そういった若者たちを発生させてしまったのは大人たち責任であること、かつては自分たちが肴であったことを棚に上げて、好き勝手に言うのです。あいつらなにもわかっちゃいないと。
「それは逃げだろ?」「本当は、違うんだろ?」
決して面と向かっては言いません。給湯室で女子社員が上司の悪口を言うように、酒を飲みながら若者たちの悪口を言う。陰口をたたく。どこか否定できない部分やうらやましさ、そんな苦味がスパイスとなり、今宵は最高の宴となるのです。
「なにがさとり世代だ、なにが草食男子だ」
きっと、自分の思い通りになる範囲内で生活しているから、自分の思い通りにならないと逆上してしまうんだ。痛みを伴わない人生なんて面白くともなんともない。傷つくことを経験しないまま大人になれば、ひとたび自尊心を傷つけられたとき、きっと感情をコントロールすることができないだろう。
そうやって若者たちに言っているようで実際は、自分に向けていっているのです。
「ほんと、彼らの10年後が見てみたいよ」
こうやって今日も、親父たちは酒を呑む。「最近の若者は」という居酒屋は、まだまだ繁盛しそうですね。