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2012年07月29日

第497回「来る500回にむけて」




 いったいなにがその原動力になっているのか、気が付けばこの週刊ふかわも500回目を迎えようとしています。奇しくもその500回の配信日が誕生日という、どこで帳尻を合わせたのか、なかなか絶妙なタイミングなわけで、リキッドルームはいろいろな要素が複合された空間になりそうです。





 おそらくこれだけ長くやっているのですからどこかでお話したでしょうが、これはもともとツタヤオンラインという、メルマガ創世記の頃にいただいた、全十二回の企画に端を発するもので、まさかこんなにも続くとはだれも、もちろん僕自身も思っていませんでした。なんのために続けていたのか、辞めたくないから続けてきたのか、確固たる目的意識があったわけではないですが、少なくともこの連載がなかったら、旅行記が世にでることもなかったでしょうし、旅にすらいくこともなかったかもしれません。こんなに社会や自分自身と向き合うこともなかったでしょう。ここでの文章、言葉に触れている人の数は決して多いものではないにせよ、あくまで本店であり、原液であり、聖域、ほかの活動における表現の素になっていることは間違いありません。そういう意味では、こうやって長く続けるという姿勢こそがひとつの表現ともとれるでしょう。また、淡々と拍子を刻むのではなく、定期的にチンとなるメトロノームのように、一週間のリズムに抑揚を与えるような、日常生活のアクセントにもなっています。





 そうして迎える500回。たしかバスツアーを開催したのが300回の記念。今回はどんなことができるのか。よほど、アイスランドツアーでもやってみたいところですが、これは東京オリンピック招致とほぼ同じレベルの難易度といえます。決して不可能ではないですが。ハリウッドの豪邸にでも住んでいればホームパーティーでもしたいところですが、若干それには及ばないところもあります。やはり、サービスエリア巡りがちょうどいいところでしょうか。新東名もできたことですし。あの日、帰りのバスで一言ネタを言い合ったことはいまだに忘れられません。たしかあの頃は、「愛と海と音楽と」を発表して間もないころだったでしょうか。時の流れはいつだって美しいもの。たとえそれが、いたずらに齢を重ねただけであっても。日帰りでなければ、山小屋に泊まって、これまでのコラムを夜通し朗読するというのもいいかもしれません。山で迎える朝はきっと素晴らしいものでしょう。現状、こんな風に決めかねている状態ですが、うまくいけば夏の暑さがとおりすぎた頃になにか、お知らせできるかもしれません。そういえば、先日、文学界という雑誌にエッセイを掲載していただきました。錚々たるメンバーが名を連ねるなか、ひらがなだけの名前がひときわ目立った8月号は、山からの景色のように、とても見晴らしのよいものでした。まだご覧になっていない方はぜひご覧になってください。それでは今後とも、週刊ふかわをよろしくお願いします。感謝をこめて。



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2012年07月23日

第496回「これでいいのだと、彼は言うだろうか」




 かき氷屋さんができた。一杯千円のかき氷、と聞くとどこか割高な印象を与えるかもしれない。しかし、その氷が特別な場所から採取されたものだとしたらどうだろうか。あの有名な氷を使っているのに1000円とは安すぎると感動する者もいるのだそう。そのように受け止めてもらうほうがお店としては嬉しいだろうが、ふらっと立ち寄った人のなかには、高いといって出て行ってしまう者もいるらしい。これはこれでしかたない。人それぞれの価値観。ただ、経営という目線で考慮すれば、これは死活問題でもある。このお店をどこにだすかによっても反応は違うだろう。 





 もっとも世界で食されているラーメンは某社のカップラーメンだというのはわりと有名な話。もちろん、カップラーメンはおいしい。深夜、罪悪感に包まれながらすする麺やスープは至福の時を与えてくれる。しかし、どうだろう。だからといって、カップラーメンをラーメンと一緒にしてしまっていいのだろうか。もっとも愛されるラーメンとして扱ってしまうのはどうも腑に落ちない。違和感をおぼえるのだ。もちろん、カップラーメンに限らず、インスタントラーメンも偉大な存在。しかし、本物のラーメンとの区別はするべきなのではないだろうか。





本物はどこにあるのか。なにが本物なのか。





 1000円のかき氷がもうひとつあるとする。しかしこちらは、天然の氷を使用しているのではなく、かわいらしい女性が食べさせてくれる1000円。どうだろうか。もしかするといまは、後者のスタイルが注目される時代ではないだろうか。もちろん、流行っていい。存在価値は十分にある。しかし、かき氷の味を求めて並ぶ人の意見と、女性とのコミュニケーションを求めて並ぶ人の意見を、同じ重みにしてしまっていいのだろうか。かき氷が、道具になってしまって、いいのだろうか。





かつてであれば、後者は一過性のもので、やがて廃れる、と言えたかもしれない。しかし、いまはちがう。一過性のものが一過性にならない時代。本物が、埋もれたままになってしまう時代。





クラシック界において、レコード会社によっては、プロの演奏家ではなく、女子大生を集めるらしい。そのほうが売れるのだ。クラシックですらそうだ。いったい、本物を支えるのはだれなのか。本物とはなんなのか。どんな形態であれ、大衆が支持するものこそが本物なのか。





具体的に見えるものならまだいい。つながるつながるうるさいが、本当のつながりは、そういうことじゃない。それは、カップラーメンを食べているにすぎない。





政治に関心を持たなかった人々の価値観が、現在の混迷を生んだといえる。参加者の質が悪ければ、多数決は時代をミスリードする。世の中とは、社会とは、そういうものなのか。これでいいのだと、彼は言うだろうか。





笑いだって、そう。同じ笑うでも、なにを楽しんでいるか、なにを面白がっているかによって、まったくその質は異なる。果たしてこの国は、なにを面白がっているのだろうか。なにを問題視しているだろうか。それこそまさに文化のレベル。知らないことを笑うのではなく、知ったうえで笑うほうが質は高い。できないことを面白がる瞬間があってもいいが、それだけではあまりに悲しい。





本物が残るか残らないか、すべては大衆の感覚、価値観にかかっている。





この国の一部に、他国の民度を揶揄する者がいるが、実際に民度がさがっているのはこちらではないだろうか。自分のことは気づかないもの。耳の痛い話はなかなか耳からはいってこない。いろんな価値観が存在すべきなのにこの国は、いろんなスタイルがあるべきなのにこの国は、偏った価値観にすぐ流されてしまう。本物を追求せずに、安易に結果を得ようとする風潮。果たして、時代をリードするのは、だれなのだろうか。



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2012年07月16日

第495回「悪者さがしはもうやめて」





 またはじまった。いつもそうだ。悪者を決めつけたがる。よってたかって叩きのめして、ぼろぼろになるまで追い詰める。それじゃ、なんの解決にもならない。いじめ以外のなにものでもない。本質に目を向けず、悪者を探すことに躍起になるのは、それが楽だから、それがわかりやすいから。気持ちいいから。快感だから。傍観者もそう。誰かを追い込むことはいじめじゃないの?簡単に誰かを悪と決めつけていいの?面白い構図だね。こうやって、いじめが連鎖して、バームクーヘンのように広がってゆく。正義を振りかざして、いじめていることに気づかない。たちのわるい悪のできかた。叩きのめしたところでなにもならない。どうしていじめたのかを考えなければいつまでたっても解決しない。いじめとはなにかということに目を向けなければ、一向になくならない。陰湿さが増すだけ。方法が変わるだけ。





悪者さがしはもうやめにして、本質に目を向けて。もし悪者がいるのならそれは社会全体。一部の問題じゃない。ましてや一人の問題じゃない。社会全体の責任。大人たちの責任。なのに大人はそれを放棄する。あいつが悪いと糾弾する。いいことはつながりを持とうとするくせに、都合のわるいことは絆を切断する。自分は善人であることを実感する。卑怯としかいいようがない。大切なのは、悪者がだれか、ではない。なぜ、なのか。





猫を蹴っ飛ばして笑っている小学生。犬を溺れさせてたのしんでいる中学生。





 みんながみんなではないのに、なぜ、なのか。





それが快感になってしまったから。そこに快楽を見出してしまったから。ほかに気持ちよくなるものが見つからないから。自分の力を確認できる場所。自分が影響できること。生きる実感。それらが相まって、快感につながる。快楽に溺れる。麻薬と同じ。ほかに見つからなかった。ほかに与えることができなかった。





なぜ、いじめられるのか。それは恋人になってしまっただけ。いじめる人の相手に選ばれてしまっただけ。精神的な支えになってしまった。痴漢のように、ただ、そこにいただけ。だから、痴漢される奴が悪い、にはならない。ただ、「この人、痴漢です!」といわない限り、周囲は気づいてくれないだろう。もし、痴漢ゼロに躍起になる鉄道会社なら、痴漢がなかったようにするだろう。システムが、被害者に不利に働いてしまうことは、世の中では日常茶飯事。いじめられる人はいじめの被害者であり、社会の風潮の被害者でもある。本質に目を向けず、結果だけで判断する社会が、いじめられている人の声を遠ざけてしまった。





どうしたらなくなるのか。それは、両者が被害者であることを認識しないかぎり、陰湿ないじめは減らないだろう。いじめられる人はいじめの被害者。いじめる人は社会の被害者。もちろん、いじめる人を擁護するわけではない。なんらかの処置を受けるべきだろう。中毒になってしまったのだから。その快楽を知ってしまったのだから。しかし、いじめる人を作ってしまう社会に責任をもたない限り、いくら調査しようが、いたちごっことなるだろう。





きっと昔から、いじめも自殺もあったはず。しかし、死に追い込むほどの、陰湿なそれがあっただろうか。いじめの快感。これ自体は否定できるものではない。だからこそ、味をしめてしまわないように。ほかの快楽に出会えるように。社会に足りないもの。生きる実感。システムの弊害。





大人も子供も、生きることに精いっぱいだ。しかし、いくら精いっぱいであろうと、社会のルールを破ることを認めるわけにはいかない。かといって、部分的に見ていても、社会全体を見直さない限り、悲しいニュースはあとを絶たない。まずは、悪者を吊し上げて満足する風潮から脱することだろう。それ自体が、いじめと変わらないのだから。





 





 



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2012年07月09日

第494回「恋ロマンティック!!」




 もう、無理だと思っていました。もう、こんな日は訪れないと思っていました。決めつけることはよくないと日ごろ言い聞かせてはいますが、決めつけていました。だって、どんどん消えていくから。カタチがなくなって、ぜんぶ液晶画面に吸い込まれていくから。もう、これが人生で最後だろうと覚悟したのはベストアルバムをリリースした2年ほど前。ダウンロードという言葉が猛烈な勢いでこの島を駆け巡り、地球全体をも包み込んでいたあの頃。すっかりCDの肩身も狭くなっていました。きっとこの先アルバムはないだろう。買うことはあっても、自分で作るのはこれが最後だろう、さようならCD、ありがとうCD、そんな意味をこめて、thank you for the music!という言葉を刻んだものです。





「じゃぁ、これで!!」





 だから、すべての音ができて、一枚のCDにつめこんだときは、単なる喜びとはちがう、さまざまな感情が体内にありました。最後じゃなかった。カタチになった。そこには、前回ほどの終焉感はなく、むしろ今後も継続していけるような、自信さえありました。





 それにしても、いったい僕のどこにこれほどの情熱はあったのか。湧いてくるものなのか、与えられるものなのか。いい加減、ドキュメントで密着されてもいいのではと思うほどの、大量の情熱。なによりも情熱を注いでしまうのは、性格というよりもやはり、作品が自分自身だからでしょう。わが子のように、産みの苦しみを乗り越えて授かるもの。極端にいえば、情熱は、子孫を残したいという本能に近いものかもしれません。その子孫のカタチとして選ばれたのが、一枚のCDなのです。





いまでもアルバムというカタチに対する想いがなくならないのは、中学生のときに手にしたあの感触のせいでしょう。フィルムを剥がす高揚感。蓋をあける緊張感。回転しはじめる音。そう考えると、ダウンロードがあたりまえな人にとっては、ダウンロードよりも新しいスタイルが生まれたとき、ダウンロードというスタイルを懐かしむ時代がくるのかもしれません。いずれにせよ、僕は、表現者として、人間として、作品というカタチにこだわらずにはいられません。だから今回、こうして一枚のアルバムが生まれたことは、希望であり、未来であり、まさしく光。そしてこのことが、今後、たとえどのようなカタチになろうとも、自分の言葉や音を発信し続けたいという気持ちを強固なものにしました。





「恋ロマンティック!!」





これは僕がつくった魔法の言葉。この曲を聴いたら、心が軽くなるように。風が心地よくなるように。ぜひこの中に、夏をとじこめて欲しいものです。想いも、風も、海も、太陽も、ぜんぶ。この夏は、僕の魔法にかかってください。こうしてアルバムをリリースできる、人生と、環境と、時代への、感謝のことばにかえて。



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2012年07月01日

第493回「題名のない絵画」




 





題名のない絵画は





 





いつまで描くの。





 





なにを描くか





 





決まっていないまま





 





闇雲に筆を動かして





 





行きあたりばったりで





 





色を塗っている。





 





これじゃ





 





子供の落書きと変わらない。





 





題名のない絵画は





 





いつまで描くの。





 





上塗りばかりで





 





なかなか色が決まらない。





 





筆をとりあってばかりで





 





なかなか前に進まない。





 





これじゃ完成するわけない。





 





これじゃだれも





 





笑顔にならない。





 





題名のない絵画は





 





いつまで描くの。





 





もう破れかけて





 





いるというのに。





 





もう展覧会は





 





はじまっているというのに。





 





完成させたくないのかな。





 





なにが完成か





 





わからないのかな。





 





題名のない絵画は





 





いつまで描くの。





 





もう破れているのに。





 





展覧会は





 





はじまっているのに。





 





だれのため?





 





なんのため?





 





目先のことしか





 





頭にないから。





 





未来はもう





 





通り過ぎてしまったよ。



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