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2012年05月27日
第489回「好きと嫌いの話」
すべて見終えたところであらためて実感した。
僕は
動物園が好きじゃない。
どんなに敷地が広かろうが
どんなに人気を博しようが
動物園が好きになれない。
どんなにエサをあげようが
どんなに工夫を凝らそうが
ペットショップも水族館も
胸が苦しくなって
楽しむことができない。
親しむことが大切だとしても
愛するきっかけだとしても
愛するがゆえだとしても
僕は、好きになれない。
檻の向こうに存在するのは
動物ではない。
動物は
人間以上でも以下でもない。
動物が動物だなんて
人間しか思っていない。
だからといって
動物園で働いている人を
責めるつもりはない。
キャバ嬢が足を運ぶペットショップを
批難するつもりもない。
もちろん
動物園を楽しんでいる人に違和感を覚えるわけでもないし、
動物園を愛している人は目くじらをたててもらってかまわない。
僕が
笑顔になれないだけ。
単に好きと嫌いの話。
好きだから
嫌いなだけ。
動物園がなくなる日。
僕が動物園を好きになる日。
どっちが先に訪れるのかな。
この気持ちが悟られないように
親子のチケットを購入するのかな。
できることなら
すべての動物たちを
檻から解放してあげたい。
好きと
嫌いの話。
2012年05月20日
第488回「手のひらを太陽に」
「ちっとも動きやしないじゃないか」
少年は、心の中でそうつぶやいた。
彼はいつもそこにいた。その場所を気に入っていた。どこでもできるといえばどこでもできるが、カフェでの読書や新幹線での原稿のように、その場所がちょうどよかった。あのひんやりした鉄の部分を腕にからめ、かるく揺れながら操作する。それが心地よかった。ブランコでスマートフォン。友達も必要ないし、サッカーボールも必要ない。ブランコになんて興味はなかったけれど、この機械を持っているときは別だった。風が通り抜けるようにスライドする画面。指ひとつで世界を動かしているような感覚。わずらわしいことはなにもなかった。やがて彼の指が、画面の外に向けられる。こうやって、なにもかも動かすことができたなら。画面と同じように、指先で操ることができたなら。
陽光を遮るように手をかざすと、少年の口から大きく息が吸い込まれた。そして、ゆっくりと画面をスライドさせるように、手のひらを動かした。
「今日は、きっと…」
右手がいつもより、力を持っている気がした。みなぎってくるなにかを感じていた。何度も訓練をした成果がいま、現れる。手の影が少年の顔に重なり。
「あっ」
雲が手に合わせて動いた、そんな気がした。
どうして画面の中はこんなに簡単に動くのに、世界はなにも動かないのか。いったいなにが違うというのか。少年は理解できなくなっていた。それどころか、画面が動くことを無意味にすら感じはじめた。これが動いたところでなんだというのか。なにも変わっていない。世の中を指一本で動かすどころか、なにひとつ変わっていない。足もとを歩く小さな虫さえも動かすことができない。無力な自分。少年は、その機械を地面にたたきつけたくなった。そんな言葉を用意して、山里は、教頭先生のお話に臨んだ。
「みんなはどう思いますか。ブランコを作った人が見たら悲しむでしょう。ブランコは空を眺めるためにある。風を感じるためにある。決してケータイをいじるためにあるのではないのです。画面の中と現実が、区別つかなくなってしまった少年。そんな風にならないでほしい。みんなは、画面の中で生きないでほしい。膝にたくさんのかさぶたを作って、現実を実感してほしい。それがキミたちの務めだ」
朝礼が終わり、誰もいなくなった校庭で、スプリンクラーが回りはじめた。
「教頭先生、今日のお話、素敵でした」
新人教師の真美が山里の傍に駆け寄った。二人の関係はまだほかの教師たちには知られていない。
「ちゃんと伝わっていればいいんだが」
「伝わっていますよ、少なくとも私にはグッときました!」
「そうか、しかし、今日は風が強かったな。何度も煽られて、立っているのが精いっぱいだった」
真美は、それが風のせいでないことは、黙っておくことにした。始業ベルが鳴ると、彼女は微笑んで職員室をあとにした。窓に映る雲がゆっくりと移動して。
2012年05月13日
第487回「光は影を知らない」
校門をでると神宮球場が見える。この脇を抜けると緑に囲まれた一周2キロ弱のジョギングコース。噴水から246までまっすぐのびるイチョウ並木が四季折々の表情を見せてくれるのにどこか異国の香りがするのはきっと正面の絵画館のせい。ここはいつも都会の中心にしてオアシスのような穏やかな空気が流れている。外苑前の駅までは歩いて7、8分。秩父宮ラグビー場や日本青年館などもあるので、日によっては大量の人の波に逆らいながら駅に向かうこともある。駅に近づくほどに、なんというかそのオシャレさは薄まり、ラーメンやカレーの匂い、古びた雑居ビルなど、ごちゃごちゃっとしたなかに、駅の入り口が現れる。表参道や青山一丁目に挟まれたその駅は、いまでこそこぎれいになっているものの、あのころはただただ地味な駅で、地下に降りる階段やホームはどこか薄汚れて埃っぽかった。
「今度大会があるんだよ」
はやく部活が終わった方が下駄箱で待つ、それがふたりの約束。もちろん、ケータイもメールもないから、待つときはただ待つしかない。それでも高校生の僕たちにとっては、なんの問題もなんの苦もなかった。むしろ、待つことがしあわせだった。
銀座線で二駅。当時は一瞬車内が暗くなったけどいまはどうなのだろうか。そして渋谷に到着する直前の、地下から地上にでる瞬間。あの、暗闇から明るみに出る瞬間が好きだった。突如現れる渋谷の街。いまにも音がきこえてきそうな、きれいでも汚くもない、ただ闇雲に光り輝く街。そういえば、児童会館にいって勉強したりもしていた。小さな靴屋さんにはいったり、原宿に抜ける細い道をただ歩いたりしていた。
年季のはいった車両をでると、滝のように人の波が流れ落ちる階段。そこから無造作にのびる渡り廊下は、窓から明治通りが望めるものの、照明の少ないトンネルのように、なにかを期待させるわけでもない、ただ灰色の空間。
「ここはいつも空いているね」
入り口からしてその百貨店という言葉の雰囲気からかけ離れた色合い。正面玄関じゃないとしてもさすがにダサすぎる看板。行きつけの本屋さんはたしか5階にあって、階段を使っても、エスカレーターを使っても、共通しているのは、そのさびれた雰囲気。だれも買わなそうな婦人服の柄。彼女がどう思っていたかはわからないけど、僕は、ここが好きだった。ウィンドウショッピングをするように、本屋さんをうろうろしていた。音楽の流れない静かな書店。さびれた百貨店。日本で一番賑わっている街にして、時代に取り残されたような色と静寂。薄暗いこの場所は、この街が放つ光によってできた影のようだった。でも、僕たちには、それでよかった。
「じゃぁ、また明日」
朝8時11分の電車が待ち合わせ場所。僕は東横線へ、彼女は井の頭線の改札に向かう。汚い字で署名してあるペラペラの定期券。何回か見送ったことのある井の頭線の改札は、いまのようにきれいじゃなくて、なにかあったかのように混雑していた。
「すごい人だ…」
僕と彼女の放課後の分岐点だった、だれもいない本屋さんは、いま最も注目される商業施設へと生まれ変わって、僕の目の前で、まぶしいくらいのヒカリを放っていた。人の少ない百貨店と目も当てられないほどのダサい婦人服が並んでいた場所が、時代の先端になるなんて。こんなにも人が集まる場所になるなんて。
「ここに屋上があったらいいのにね」
あのころの僕たちには、ちょうどいい場所だった。薄暗い感じが好きだった。部屋に差し込む光の向きが変わるように、この街をゆっくり移動して。光は影を知っているのだろうか。いま、影はどこにあるのだろうか。
2012年05月06日
第486回「空が青く見えなくたっていい」
笑顔に国境はない。
笑顔は人類共通の言語。
空がきれいに見えるかどうかは、
心が決める。
わかっている。そんなことはわかっている。
頭は理解していても、
今日と明日はできたとしても。
だから、
無理に笑顔になる必要はない。
笑顔を作る必要はない。
自然と笑顔になればいい。
世界を嫌いになったっていい。
自分を嫌いになったっていい。
空が青く見えなくたっていい。
心がゆがんでしまうことだってある。
生温い言葉で心の渇きを解決したところで、
そんなもの、木曜日にはきっと乾いている。
死にたくなったっていい。
自殺したいのならすればいい。
生きる権利もあれば、生きない権利もある。
生きない権利は生きている間にしか使えない。
死ぬなと言われたら
死にたくなる人だっているだろう。
すべて自由にすればいい。
すべて自由になればいい。
でも
タバコのポイ捨てはよくない。
町を汚すからじゃない。
あれほど格好悪いものはない。
そういったことが
格好悪い時代になってしまったんだ。
格好悪い生き方はしないほうがいい。
自然と笑顔になればいい。
ここぞというときに笑顔になればいい。
いつも笑顔でいるなんて、
無理して笑顔になるなんて。
笑いたくなかったら笑わなければいい。
でも、
悲しくて泣くのは
やめておこう。
悔しくて泣くのは
やめておこう。
泣くのがいけないんじゃない。
それじゃぁ涙がもったいない。
涙はやさしさに触れたときに
流れるもの。
心が愛で満たされたときに
あふれるもの。
だれかが死んだときに流れるそれは
決して悲しいからではなく
彼のやさしさを実感したから。
そのときのために
やさしさのために。
人は山を登っている。
どんなことがあっても山を登っている。
下りているつもりでも、それでも山を登っている。
その瞬間の景色がある。
どの瞬間で景色を楽しむかは人それぞれ。
立ち止まりたいときに、立ち止まればいい。
笑顔で登る人もいれば、険しい表情で登る人もいるだろう。
険しい表情の人に笑顔を強要する権利はだれもない。
笑顔の人には笑顔で挨拶される。
険しい表情の人にも声はかかる。
キミが笑顔を求めるのなら、
キミも笑顔でいるべきだろう。
ただそれだけのこと。
やがて素晴らしい景色に出会うだろう。
自分だけの世界を目の当たりにしたとき、
ふっと表情が緩むだろう。
いろいろなことを
思い出すだろう。
それこそが、本当の笑顔なんだと思う。
それこそが、本当の涙だと思う。