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2011年06月26日

第451回「未来は、いま作られている〜後編〜」

 周知の通り、ドイツとイタリアでは、原発のない未来に向けて舵を切りました。こんなにも被害を受けている日本がそれでも舵を切らずに進んだら、そういった国の人々はどう思うでしょう。もちろん経済面は無視できず、やり方、すすめ方は慎重でなければなりませんし、外国にならって進む必要もありません。でも、いつまでたっても未来のビジョンを描かないことは、あまりにも判断力・決断力がなさすぎではないでしょうか。そこがこの曖昧大国日本の長所でもあり最大の弱点といえるでしょう。いますぐなくすかどうかではありません。いままでのことでもありません。未来に存在するべきか、地球にあるべきものなのか。不安と寄り添いながら生きるのか、希望を抱きながら生きるのか。まずビジョンを描いてから、具体的な問題と向き合うべきなのです。 

 このタイミングを逸したら、もう次の悲劇まで話し合う機会はありません。再生可能エネルギーについては言及しても、肝心なことについては触れず、このままなぁなぁで危機をすり抜けていくのでしょうか。せっかく生まれた原発について考える機会、原発をなくしたいという欲求を、いまなぜ利用しないのでしょう。 

 
たしかに、短絡的・感情的に決めることではないですし、原発がなくなればそれによるデメリットも少なくありません。大きな歯車を失うわけですから。しかし、失った先の未来、起こりうる弊害の先には、きっと新しい世界が待っているはず。なのにどうして、思考を停止してしまうのでしょう。多少の痛みは伴うかもしれませんが、これから新しい社会、新しい時代に変わるとき。何度もいいますが、今までが間違っていたのではありません。通過点だったのです。だから、これからはじまる新しい時代も永久に続く価値観ではなく、あくまでいち通過点なのです。 

 
「火」がもたらした生活、「電気」がもたらした生活、それらに頼ることは決して悪いことではありません。人は「幸福」を追い求めて、時代を歩んできました。しかし、物質や利便性に恵まれる反面、人との関わりあいが希薄になり、つながりや絆をわざわざ数字や目に見えるものじゃないと実感できなくなったいま、もはやつながりを感じることさえも、電気を必要とするようになりました。全員がケータイを手放したら、きっと消費電力も目に見えて低下するはずですが、僕たちは電気でつながることが当たり前になってしまったのです。    

 水を、水素と酸素に分けるには電気分解しなければなりません。分子と分子に分かれるように、電気は人々を離れ離れにしてしまうものかもしれません。僕たちはつながっているようで実は、離れているのです。だからといって、電気のない生活を推進しているわけではありません。電気がないと生きていけないと錯覚していることに気付かないといけない。足りないことを闇雲に怖れてはいけない、なければないでほかの豊かさが必ずもたらされる、ということなのです。

 帝国主義に浮かれる日本に落とされた原子爆弾、効率社会に浮かれる日本に広がった放射能。今回のそれは、欲望という戦闘機が投下した原子力爆弾にすぎません。物欲にまみれた僕たちが自ら蒔いた種。もはや人類は、いつ終焉を迎えてもおかしくない状況にあると思っています。人類はこうやって終焉を迎えるのでしょうか。欲望自体を否定することはできませんが、いま僕たちを苦しめているのはこれまでの僕たち自身。未来の僕たちは、誰が苦しめるのでしょう。人類を滅ぼすのは、人類の欲望なのでしょうか。 

 
環境問題とエネルギー問題の間で、人はなにを思い、どうやって生きていくのでしょう。自然が教えてくれるとか、地球のためなんて思っていたら、いつか痛い目に遭います。自然を理解しようとした段階で間違いの始まり。どんなに真面目に生きていても、死ぬときは死ぬ。悪党だけをさらい、善良な市民を救う波は存在しないのです。それが自然というもの。新しい時代を迎えるにあたって、そういった世界の中で生きていること、僕たちが自然の一部分であることをあらためて認識しないといけません。 

 見えるものも大切、見えないものも大切。でも僕たちは見えるものに気をとられすぎました。これからは見えないものを大切にしなければなりません。絆もつながりも、電気も放射能も。 

 
どんなに便利な世の中になっても、毎年3万という悲劇を生んでいるのが現実。これが10万だったら真剣に向き合うのでしょうか。3万人も殺してしまう社会をそのままにしていいのでしょうか。この数字にはいろんな要因がありますが、どんなにGDPが世界の上位であっても、毎年何万人も殺していたら意味がないのです。ゼロにしろとは言いません、少なくとも、この指標をもっと重視する社会になるべきではないでしょうか。 

 
生きる意味なんて求めるものではなく、自分で見出すもの。人間の価値なんて、与えられるものではなく、それぞれに感じたものが決めること。だからこそ僕たちは助け合って、関わり合って、必要とされて生きていくのです。ひとりで思い悩まず、生きることに希望を持てる社会。人が人を必要とする社会。人が人らしく生きられる社会。電気が足りなかったら、助け合える社会。心が満たされる社会。人に完璧さを求めない社会。人が人を信用し、人の力が発揮される社会。見えないものを大切にする社会。それが、これから僕たちが作るべき未来なのではないでしょうか。未来は、いま作られているのです。

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2011年06月19日

第450回「未来は、いま作られている」

 もし、原発の問題が起きていなかったら、いまごろ僕たちはどうしていたのでしょう。相変わらず電気を好きなだけ使い、なんのためらいもなくエアコンにリモコンを向けていたのでしょうか。3月11日は、人類に大きな変動を与えた日。ただ、「自然が教えてくれた」とか「教訓」という表現は好きではなく、自然はあくまで自然。天罰でもないし、メッセージでもない。自然の中で生きるということはどういうことなのかを、人はそれぞれに感じればいいのだと思っています。本当の豊かさとはなにか、人間にとって大切なものはなにか。それまで見えなかったものが、見えてくるようになったいま、僕たちはこれからどんな未来に進むのでしょう。

「どこでもドアは必要ですか」

 そう訊かれれば必要じゃない、という人がほとんどだと思いますが、欲しいですか、と訊かれれば、頷く人は少なくないでしょう。これさえあれば、世界中どこにだっていくことができるどこでもドアは、まさに夢の道具の代表格。ドラえもんの道具は、依存しすぎると痛い目に遭う、というところに作品の本質がありますが、これに関しては、しずかちゃんにお湯をかけられるくらいで、使いすぎて痛い目に遭ったというシーンは見たことがありません。作者はどのように考えていたのでしょう。人類の進歩とは、僕たちの未来は、どこでもドアを手に入れることなのでしょうか。

 リニアモーターカーは最速で時速500キロ。東京大阪間を約1時間で移動できるようになります。これは非常に便利な反面、ビジネスマンからしたら、さらに仕事が増えて、より忙しくなるでしょう。かつては一泊できた地方出張も、新幹線や飛行機のおかげで日帰りが当たり前になりました。リニアモーターカーが実用化されれば、一日に三往復ということもあるかもしれません。だからといって、新幹線や飛行機がそうだったように、パソコンやケータイがそうだったように、この技術革新を制止することはできません。いくらスローライフだなんだといっても、ちょうどいい具合でとまってはくれず、人類の欲望は歯止めが利きません。必要だと思っていなくても、いざ目の前に現れると使わずにはいられない。そうやって、あれよあれよというまに、今日の社会ができあがりました。いまの社会は昔の人からすれば、まさにドラえもんの世界かもしれません。結局は、僕たちの価値観が構築した社会。僕たちの価値観が世の中を構築するのに、これからの社会の設計図がありません。僕たちの未来は、大阪にはやく到着することでしょうか。どこでもドアを手に入れることなのでしょうか。

 なんでもすぐに手に入る、なんでも簡単に手に入る、僕たちは着実にどこでもドアな未来へ進んでいます。もしこのドアを手に入れたら、最初はいいかもしれませんが、やがて感動は薄まり、生きがいを見失ってしまうでしょう。一人であらゆる欲望が簡単に満たされて、人との関わり合いがさらに希薄になるかもしれません。夢の道具は、得るものも失うものも大きいのです。 

 
幸福は、時間をかければかけるだけ、その実感は大きいもの。苦労をしないと人にやさしくできないし、悲しみはたくさんの愛を受け取ることができる。

 確かにあの日、悲劇は起きました。でも、そのあとに、助け合いや絆、笑顔や音楽、いたるところできれいな花が咲きました。だから、これから訪れる未来を、限られた電力で迎えたなら、たしかに暑くてどうしようもない夏かもしれない、その先には凍えそうな冬が待っているかもしれない。でもそのかわり、人と人との関わりは増し、得るものや生まれるものもきっとあるはず。そこに新たな花が咲くことを信じて、いま種を蒔くことはできないのでしょうか。それとも、その瞬間の快適さのほうが大事でしょうか。 

 
物質的な豊かさに埋没し、過剰な快適さに溺れ、僕たちは本当の豊かさを見失っていました。僕たちはこれからも、人のぬくもりを感じられない社会を生きていくのでしょうか。どんなに社会が進歩しても、人と人との関わり合いのない社会や希望が見出せないそれでは、いつまでたっても心は満たされません。波に呑まれたものはモノだけではありません。しかし、残った命を勇気付けるものはきっと人と人とのつながりだったはずです。どんなに大きな波でも、絆を流すことはできません。ボランティアに行く人が多い理由のひとつは、いまの社会で感じられない「必要とされる喜び」がそこにあるからでしょう。社会にもっとも必要なものを軽視し、表面上の豊かさばかり追い求めていては、いつまでたっても成熟した社会とはいえないのです。   

 もちろん、いままでの社会が間違っていたということではありません。社会は常に、そのときの最善を求めて進んでいくもの。代償は大きすぎたかもしれませんが、人類が経験しなければならない通過点だったのです。もっと早く気付いていたら、実際警鐘をずっと前から鳴らしていた人もいます。でも、いま過去のことを蒸し返すことよりも、これから迎える未来をどうするかのほうが大切なのです。次週へ続きます。



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2011年06月12日

第449回「シリーズ番外編人生に備わっている力・反動力」

 若い頃、散々不良をやっていた人が社会に貢献したいとボランティアをはじめたり、運動に興味がなかった人がいきなりマラソンに目覚めたりと、なにがきっかけか、人が変わったかのように生き方や生活スタイルが一変することは珍しいことではありません。こういった「目覚め」の現象を学会では「ウルトラソウル」と呼び、かつて、とある昭和生まれの男が、ずっと嫌いで避けていた水泳に、四十を前にして突如はまりだし、日常生活どころか、それを生涯の伴侶としたことから、そう名付けられました。彼いわく「やらなかったことがエネルギーになった」とのこと。

 たしかに、もし彼が中途半端に水泳をやっていたら、ずっと中途半端なままだったかもしれません。やらないことがエネルギーになる。やらない間にエネルギーが蓄えられる。あとはきっかけだけで、それさえあればダムの放水のように、勢いよくエネルギーは流れ出るのです。

 それは矢を放つ弓のように、一旦は引っ張られても、それが反動となって逆の向きへの力となる。この矢を放つ力こそが今回の反動力なのです。ちなみにこの力がいつもの、「必要な力」ではなく「備わっている力」になっているのは、必ずしも必要というわけではなく、お好みであればお使いください、というものだから。ただ、この力はとても持久力のあるクリーンなエネルギーで、これを利用しない手はないのです。

 もちろん、人生という長いスパンのみに当てはまるものではなく、もっと短期間、一日の中でさえ発生させることもできます。ずっと我慢していた煙草を仕事が終わってから吸ったら格別なのも一種の反動力かもしれません。社会全体として捉えてみれば、ファッションや流行などで顕著に見られるように、時代は反動力によって創られているとも考えられます。世界は反動力で動いている、といっても過言ではない程、人を動かすエネルギーになっているのです。

 いたるところで見られるこの力を活用するには、なんらかのきっかけが必要で、それが反動力を使用するスイッチになるのですが、たとえきっかけがあってもスイッチを押す気持ちを妨げるものがあります。それは年齢です。年を気にしていまいち踏み込めないケースがありますが、正直、年齢を気にしたら負け。そこに屈することほど人生もったいないものはありません。思い立ったときこそが「その時」、そこでいろいろ考えて躊躇する必要はないのです。

 また、上記の反動力はポジティブなものですが、ときにネガティブなそれもあります。普段、営業スマイルばかりしている人が、家庭で奥さんに八つ当たりをしたり、学校では真面目で優秀な生徒があるとき信じられない罪を犯してしまったり。エネルギーというよりはストレスを溜めてしまっている場合もあるでしょう。社会的に負の方向にならないように注意しなければなりません。

 それらを踏まえたうえで、この反動力というものをうまく活用できれば、人生はより楽しくなります。彼の名誉のために言うわけではありませんが、昭和生まれの男は、水泳が嫌いだったとはいえ、決して運動が苦手だったわけではありません。むしろスポーツが大好きで体育祭などで輝くタイプ。陸上部に所属していた頃はかなりの運動量をこなしていたそうです。だからもしかすると、そのときの下地があるから、そのときの気持ちが復活して、無性に運動したくなったとも解釈できます。三つ子の魂百までというように、反動力につながる種がまかれていたのです。そういう意味では、なにもしないことからの反動力と、かつてしていたことが時を経て再燃する反動力の、ふたつのパターンがあるのかもしれません。これにはまだまだ研究が必要です。

 子供が大人になる過程で、人は社会という枠組みに糸で操られ、「必要とされる人間」、それを社会人だと思って生きています。しかし、その殻を突き破ることで本当の自分に出会うのかもしれません。社会人として頭がいっぱいだった先の自分との出会い。自分のカタチ。それは社会から逸脱するわけではなく、社会という波にうまく乗ること。社会に必要とされながらも、自分の生き方を見出すこと。そのときはじめて、人生を謳歌しているのかもしれません。そのためにも、人生に備わっている力「ウルトラソウル」を利用してみてはいかがでしょうか。





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2011年06月05日

第448回「祝!リニューアル!!」

 すでにお気づきの方もいるでしょうし、メールマガジンの配信じゃない場合はもはや気付かずにこの文章を読めないわけですが、このたび、「HAPPY NOTE」が、晴れてリニューアルされました。思えばこのホームページを開設してからどれくらい経つのでしょう。皆様に愛され続けて10年弱。ご好評いただいたかわいらしいイラストからも、出航する船のように本人のビジュアルがかけはなれ、もはやまったく別のキャラクターとして認識されていたでしょう。意気込んで作成したものの、やはりというか案の定というべきか、この週刊ふかわ以外の場所のメンテナンスが行き届かず、イラストこそかわいらしいものの、かなり情報の老朽化が進み、僕自身の活動の幅広さも仇となって、気付けば貼紙だらけのトップページになってしまいました。 

 
そういったことからも、実はかなり前から「リフォームしなくちゃ」と気にしていたのですが、人生における後回しベスト3(個人調べ)にはいるだけあって、なかなか着工できず、もう仕方ないかと、半ば諦めかけていたほどです。しかし、いろんな分野での人との出会いやこれまでの積み重ね、そして皆様の「出演情報更新されてないよ」という厚い御要望により、いくつかの工事中はありながらも、こうしてリニューアルオープンにこぎつけた次第なのです。

 
確かに工事中の箇所はいくつかありますが、トップ画面を見ればなんとなく僕という人間がどういう活動を行っているかがわかるようになっているかと思います。それだけでも大きな前進。また、場所よっては放置しすぎて廃墟と化している部分もありますが、それはむしろ廃墟マニアにはたまらないものですし、そういう意味でも、工事中だったり、テナント募集中だったりと、半永久的に未完成なショッピングモールではあると思いますが、そこはいわゆるスペインのあれ的なものとして受け止めてもらえたらと思います。

 また、ソーシャルネットワーク系の類もいろいろあり、現実社会であまり社交的でない僕が、それらすべてをコンスタントにこなせるわけがなく、更新率にムラが生じるかと思いますが、それは食べ物が時期や季節によって旬なものが変わるように、豊作のときもあればそうでないときもあるので、なにもない「無言の時期」にこそ、収穫の前触れと捉えてください。

 そんな中でもやはりこの「週刊ふかわ」というものは、休みがちではあるものの、性格にとても合っている気がするので、比較的安定して楽しんでもらえるのではないかと思います。500回を迎えたときには、しばらく行っていなかった記念イベントを開催しようかとも思っているので、この場所が雑草だらけになることはなさそうです。最も心配なのが出演情報で、これをもとにオンエアを楽しみにしている人がいるにも関わらず、これまでは徹底性に欠いていたので、今後はしっかりあげていく予定ではありますが、おそらく劇的な変化はあまり期待しないほうがいいかと思います。

 最後に、変えようか迷ったものの、やはり馴染みのあるフレーズなので残したこの「HAPPY NOTE」ですが、あらためて言及すると、これはいわゆる「ノート」の意味もありますが、優先順位としては「音」の「ノート」。ワンノートサンバやブルーノートの「ノート」。つまり「ハッピーな音」なのです。だから旧サイトでは音符のマークだったのです。ついでにもうひとつ付け加えると、「週刊ふかわ」の「週刊」は、ほぼ全員「週間ふかわ」だと思っていて、おそらく世界で僕ひとりしか「週刊」を用いていないようなので、極力「週刊」のほうを使ってもらえたらと思います。



 なにはともあれ、どんなにお店が頑張ってもお客さんのいないショッピングモールでは意味がなく、みなさんが足を運んでくれてこその「HAPPY NOTE」、幸せの音が響くのです。この場所がいつも賑わっていられるよう、どうかこの僕の頭の中の世界に遊びにきてください。


 



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