« 2011年03月 | TOP | 2011年05月 »
2011年04月24日
第445回「NN2100〜僕たちの未来に原発はいらない〜」
僕たちは、戦後の経済成長の恩恵を受けるがままに生活してきました。復興の大変さを知らずに甘い蜜ばかり吸ってきました。そして僕たちは、未来にどんな世界を残すのでしょう。悲劇は比べるものではないですが、敗戦の空気はこんなものではなかったかもしれません。そこから這い上がって死に物狂いで作り上げたもらった世界でのうのうと生きてきたのだから、僕たちも未来の子供たちに素晴らしい世界をつくってあげるべきではないでしょうか。
一日二日に万機ありというように、未来はいま作られています。いまこの国で何が起きているのか。僕たちはなにを失って、なにを得ようとしているのか。いままで見えなかったものが、見えるようになってきました。これから越えなければならない問題は無数にありますが、間違いなく新しい時代がはじまろうとしています。それは、人々の暮らしが変わること。価値観が変わること。大切にするものが変わること。僕たちはあの瞬間、とても大事なものを手に入れたのです。
豊かさの基準は時代によって変わり、いま足りないものを求めて人は動き、世界はまわるもの。しかし、薄々感じていました。便利さを謳歌しながらも、そこに溺れていく感覚、「豊かさ」に対する違和感。そしていま、ようやく目が覚めたのです。新しいものや便利なものに囲まれる生活だけでは本当の豊かさは得られないこと。もちろんそれも大切だけど、物質だけでは心が満たされず、むしろ物質に満たされすぎたり便利すぎると空虚感が残り、心が満たされなくなってしまうこと。失ったものが大きかった分、得るものもきっと大きいはず。この気持ちを礎にして、新しい国、新しい世界を構築するべきなのです。歪みや矛盾が生じはじめた社会のシステムがいま、あたらしいシステムにとって代わろうとしているのです。
そのために、まず決めなければなりません。未来の完成予想図として、新しい世界の大黒柱として、「使用しない」ことを。未来が「ない国」であることを。
必要かどうかではありません。どれくらいの電力が必要だから原発が必要かどうかを考えるのではなく、この世界に、未来に、物質としてあるべきものなのかどうかを決めて、そこから未来をデザインするのです。もちろん、代替エネルギーをどうするかという問題は軽視できません。でも、時間をかけて取り組めば絶対に無理なことではないはず。現状、原発の依存度は決して高いわけではなく、人口こそ違いますが、アイスランドでは原子力に頼っていません。火山を利用した地熱発電。このシステム、技術は同じ火山国である日本が提供したものです。だから、できないことではないのです。太陽光や風力発電も、国土が狭いから難しいと言われていますが、それだけにすることは非現実的としても、割合を変えることはできるはずです。「作らない」そして「依存しない」というプロセスを経て、最終的に「使用しない」にたどり着けばいいのです。
おそらくいまでも、あるべきだと思う人もいるでしょう。なにも感じない人もいるでしょう。でも、もしも放射能が緑色だったらどうでしょうか。色がついていたり、目に見えるものだったら意識は変わるかもしれません。人は、見えないものを意識することが得意ではないのです。
原発自体を否定しているわけではありません。それは必要な通過点だったのです。人々の暮らしは時代によって変化し、価値観も変わるもの。やがて教科書に載る頃、「この時代には原発なんていう危険なものがあったんだなぁ」と、僕たちが昔の人々の暮らしに対する感覚を、未来の人たちが抱くのです。
最初のNはNO、ふたつ目はNUCLEAR。それは、ふるさとをなくした人々のためだけでも、安全に対する不信感のためだけでもありません。また、世界が動き出したからでも、美談をつくりたいからでもありません。この世に生まれたひとりの人間として、この世界にあってはいけないものだと思うから。2100年、未来の世界にそれがないように。それが過去のものになっているように。これが僕たちからの未来へのプレゼント。そしてこの国が、世界のスタンダードになるのです。
2011年04月17日
第444回「キミへの手紙」
キミがこの国に生まれてもうどれくらい経つのかな。それは僕が生まれる前のことだからそのときのことは詳しくは知らないけど、もしかしたら世の中に歓迎されながら産声をあげたのかもしれないし、こっそり誕生していたのかもしれないね。キミのことを産んだ人たちがどういう意図だったのかはわからないけど、その後、キミにたくさんの兄弟ができたことを考えれば、たしかにこの国の成長にキミたちは不可欠だったのかもしれないけれど、キミたちがいなかったらそれはそれで素晴らしい世の中になっていたのかもしれないね。
いま、こうしてキミに手紙を書いているのには理由があって、実はもうお別れしようと思っているんだ。そう、キミとのお別れ。初めての手紙でこんなこと言うのは失礼だね。でもこれがキミ宛ての最初で最後の手紙。僕が生まれたときキミは当たり前に存在していて、ときどき周囲の反発を受けながらもなんだかんだこの国を支えてきてくれたよね。キミのイメージが良くなかった時期もあったけど、環境問題、温暖化がキミにとって追い風になったのもあって、いつのまにかキミはクリーンなイメージを獲得し、気付いたらこの国に55人もの大家族を形成するようになっていたね。あまりに辺鄙な場所にいるものだから、大半の人たちはそんなことも知らずにキミたちの恩恵を受けて、なんだかいろんなものであふれる「豊かな」世界を目指して走ってきたんだよね。
キミたちには感謝もしているし、責めるつもりもない。だから、こんなタイミングで、そしてこんなカタチで別れを告げるのは非常に残念だよ。でも、今回の事故が多少のきっかけになっているかもしれないけれど、決してそれだけじゃないんだ。前から思っていたんだ。キミに依存していながら別のことを考えていたのは申し訳ないけれど、ずっと前から気付いていたんだ。悪の存在に。このまま気付かないふりをして生きていくほうが楽なこともわかっている。でも、いま決心しないと、一生、いや永遠に別れることができないって感じたんだ。キミは、キミたちは、もう充分役目を果たしたよ。これからはキミに頼らない時代、新しい時代にしたいんだ。もちろん、いまお別れを告げても実際にキミがこの国から去るには膨大な年数がかかることも知っている。この国の人々が必ずしも皆、それを願っているわけでもないことも知っている。だから、ゆっくり時間をかけて卒業したいんだ。僕たちの未来にキミはいちゃいけない。それはキミのせいじゃない、キミたちを利用している人たちのせい。もしかすると、この手紙を読み終えたとき、キミは少し悲しい気持ちになるかもしれない。でも、現実を知ってほしいんだ。
彼らは知っているんだ。キミたちがいなくてもこの国は充分機能することを。決して昔の生活に戻るわけではないことも、絶対に安全なキミはこの世に存在しないことも。じゃぁどうしてわざわざコストのかかる危険なキミたちをこんなにも産んだのか知っているかい?それは、儲かるから。キミたちを産めば産むほどおいしい蜜が流れてくるシステムになっているんだよ。だから、キミたちがいなくなって困るのは僕たちでも社会でもない。キミたちを利用している一部の人たちなんだ。キミたちを産むのは環境のためでも人々の暮らしのためでもない。残念だが、彼ら自身のためなんだ。
言葉は悪いけど、彼らは実に巧妙で頭がいい。だいたい、不思議に思わないかい?こんな事態に陥っているのにだれひとりとしてキミたちの今後について話し合う者がいない。責任の追及とか犯人探し、悪者を決め付けるのに、キミたちを今後どうするのかを議論する者はいないし、そんな機会すら与えない。都合が悪くなったら「想定外」という言葉を盾にしてキミを守ろうとする。揺れの数値を引き上げたのも同様に、キミたちの存在自体を否定する風潮をなくすためなんだ。こんなに国中を巻き込む事態だというのに、このことに国民の意見が反映されないのはおかしいだろう?だれかにとって都合のいい世界が構築されているんだよ。自分たちがお金を儲けるためだけにに、わざわざ危険なものを産み続けてきたんだ。もちろん、お金儲け自体は悪いことではない。そのやり方なんだよ。過疎地を選ぶのは、お金で丸め込めるから。雇用も資金もなき場所をお金で買収するようなもの。それは全体の莫大な収益からすれば微々たる額。本当にクリーンで安全なら、東京に産めばいい。本当に自信があるなら堂々と設置すればいい。でもそうしないのは、危険だからということ以上に、みんなに意識をもたれたら困るからなんだ。彼らは周辺住民のことなんて、これっぽっちも考えていない。もちろん、キミのそばで働いている人たちは安全のために懸命だけど、システムを構築している人たちからしたら、そんなこと知ったこっちゃない。
もう気付いてくれたかな。これは、戦争なんだ。いままでのそれのようなわかりやすいものじゃない。僕たちが隷属していることさえわからないくらい巧妙な手口で僕たちから搾取しているんだ。いまでこそ命に別状はない。でも何度もきいただろう?ただちに影響はないって。あれは責任逃れ以外のなにものでもない。重要なのは賠償金とか首相や社長の進退ではない。キミたちを残すべきかどうかなんだ。それなのにその機会を与えないこの風潮にこそ、事の重大さを秘めているんだ。
キミは悪くない。キミたちを利用して甘い蜜を吸い続けている人たちが悪い。善のフリをしている悪こそ、真の悪。みんな、その内側に取り込まれていることにさえ気付いていない。気付いている人もいる。ずっと外側から叫んでいる人もいた。でもいくら叫んだってみんな聞く耳をもたなかった。節電とオール電化の矛盾にすら気付かなかった。キミがいないとこの国は機能しないなんて幻想にすぎない。コストが低いなんて嘘にすぎない。いつまで安全と想定外という言葉を信用すれば気が済むのか。どこまでこの国の人はお人好しなのか。
かつて空から君たちの先祖が落ちてきたことがあったけど、見方によってはキミは毎日あれを製造しているようなもの。僕たちは結局、戦争からなにも学んでいない。しかもキミの親戚の家はあれの数万倍の破壊力を持っているのに、国民に伝えようとも、話し合おうともしない。負の側面を一切伝えないで、これのどこが公正といえるのか。恐いのは、空気の汚染じゃない。誰かのために情報をコントロールされた社会なんだ。ウランは少量というが、そのウランを採掘するのにどれだけ生命を犠牲にし、どれだけ大規模な土地を荒らしていることか。でもそういったことが報じられない。キミの良い面しか伝わらない。こんなおかしなことってないだろう?キミの親戚の家がテロでも受けたらもう地球は滅亡。それでも彼らはいうだろう、「想定外」だったって。
ここまで話してもキミは信じないかもしれないね。最悪ここまでの話が妄想にすぎなかったとしよう。それでも、この地球上で度々起こっている惨事を目撃しているのに、キミの存在にまつわる話が浮上しないことは異常だ。国によってはもう卒業しているというのに。そろそろこの国の人たちを永い眠りから覚まさせないといけない。催眠にかかっていることに気付かせないといけない。僕はこれから残りの人生を不安ではなく、希望を抱きながら生きたい。こんな事態になってしまったいま、果たして莫大な資金を投入して獲得した安全設備を見て、これなら安全だと思えるだろうか。本当の安心は、キミが眠りにつかなければ訪れない。もしどちらかをとめるなら、地震や津波でなく、この世に生まれてしまった悲しき箱であることは、小学校低学年でもわかること。なのに、こうなったいまでもこの国の大半はキミを必要だと思っているよ。まずはみんなの目を覚まさせないと。
もしかしたら、キミは気付いていたのかな。自らそれを望んでいたのかな。だから、僕たちに気付いてほしくて、叫んでいたのかもしれないね。キミたちが安心して眠る頃、そのときは僕もいないのだろうけど、いつかわかってもらえる日が訪れると思う。悪いのはキミたちじゃなくて、キミたちを利用している人たちだってこと。キミは悪くない。キミにはお疲れ様でしたと、国民に愛された鉄道の最後の日のようにお別れをしたい。そして最後に、ありがとうと言ってお別れしたいんだ。そのために、いま別れを告げなければならないんだ。本当の「豊かさ」のために。未来のために。わかってくれるかな。
いますぐなくせなんて思いません。ただ、公正じゃない。人々にしっかりと伝えて、その上で国民に判断してもらう必要があるのにその機会を与えない、疑いの余地を与えないことにことの重大性を感じます。いろんな人がいます。なにも知らない人、知りたくない人、知っているけど仕方ないと思う人、できればないほうがいいと思うけど何をしても無駄だと思う人。いろんな人たちがちゃんと向き合える環境にしないのは、ただただ卑怯だと思うのです。
2011年04月10日
第443回「シリーズ人生に必要な力その50春の力」
「春のうららの墨田川」
「春の小川はさらさらゆくよ」
おそらく日本人ならメロディーとともに頭の中にのどかな光景が浮かぶでしょう。童謡や唱歌に限らず、この国ではたくさんの春の歌がうまれ、多くの人に親しまれてきました。ヴィヴァルディーやメンデルスゾーンの曲にもあるように、それが世界でも愛されていることはいうまでもありません。子供の頃は、海水浴などのできる夏に比べ、それほど魅力を感じていませんでしたが、大人になると、その美しさや味わい深さに気付くものです。
小さな芽が顔を出す春。川面がきらきらする春。厚い氷で覆われた世界に光が差し込み、動物たちが長い眠りから目覚め、木々や草花は生い茂り、世界が鮮やかに彩られる春。それは、まるでなにもなかった星に新たな生命が次々と誕生していくようです。
各国それぞれに春のカタチがありますが、日本は日本の春のカタチ、春の色があるでしょう。やはり桜はその象徴的存在で、多くの日本人に愛されるとともに、日本らしさや日本人としての実感を与えてくれます。だから、年に一度の春の訪れを日本人はあたたかく迎えます。春ほど歓迎される季節はほかにないかもしれません。いずれにしても、春はいつも平等に、世界をやさしく包んでくれるのです。
卒業、別れの春でもありますが、やはり旅立ち、新たなスタートの春。初々しい新入社員に真新しいランドセル。いたるところにピカピカの一年生を見ることができます。心機一転。躍動感。まるで暗闇に差し込む一筋の光のように、春はそれだけで僕たちに希望を与えてくれます。気分が高揚し、なんだかいろいろなことがうまくいきそうな予感。新しくなにかをはじめたり、心を入れ替えて再スタートを切るのにちょうどいい季節。それこそ被災地の人々にとっても、これから極寒の冬にじわじわ突入していくよりは、徐々にあたたかくなっていくことは多くの安心や希望をもたらしてくれるでしょう。春の日差しは希望の光。思慮深くて行動に移せない自分の殻を破って動き始めるとき。分厚い氷を割るように、沈黙の冬を突き破るときなのです。
言葉は悪いですが、やはりこの春の力を利用しない手はありません。前向きな気持ちやなにかにチャレンジしたくなる勇気、この感覚は幻でも単なる偶然でもありません。同じ自然の一部として、草花が躍動するように、僕たちも動き出すことは必然的なこと。躊躇する自分の背中を春に押してもらうのです。春の力を利用して、環境を変えたり、新しい世界に飛びこむのです。
しかしながら、悲しいかな、人はすぐに忘れてしまうもの。新たにはじめたことも、夏が来る前に終了してしまう。土筆のように春に芽生えた意識も、夏の暑さに負けて、水やりがたりない草花のように萎えてしまう。あのとき芽生えた熱い感情を枯らしてしまうのです。せっかく春に背中を押してもらったのに、せっかく新しい自分を見つけたのに、持続させる力が足りなかったのです。
そのために約束するのです。草花と。桜と。春はいつまでも付き添ってくれません。次の春の訪れまでは、自分でしっかりと水遣りを続けるために、約束するのです。春との約束。次の春まで続けることを春に誓うのです。そして次の春が訪れたとき、薄いピンク色に染まる桜の木を見たときに、自分はなにを思うのか。あのとき交わした約束を守ることができたか。そのことすらすっかり忘れているかもしれません。でもきっと桜は覚えています。桜はなにも語らず黙って花を咲かせるでしょう。春は裏切りません。一度だって、季節を怠った春はないのです。春との約束や、未来の自分との約束なのです。
約束の春。決意の春。それは若干ぼんやりした新年のスタートよりも力強いもの。草木が芽生えることも、感情が芽生えることも同じ。新しい自分に出会うために、自分の世界を広げるために。そしてそれらを単なる瞬間的、衝動的なものにしないためにも、人生には、春の力が必要なのです。
2011年04月03日
第442回「それでも僕たちは生きてゆく」
それは、目をそむけることでも、忘れることでもなく。