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2010年12月26日
第432回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」
最終話 虹と灰色のそら
「久しぶりだ…」
ヴォプナフィヨルズルから緩やかな山道を50キロほど走り、車はリングロードに戻ってきました。しばらく離れていたからそんなに時間は経っていないのになんだかとても懐かしく感じます。この道は迷うこともないし、砂利道のような凹凸のない快適な道。一部を除いてしっかりと舗装されているので安心して走ることができます。行きあたりばったりの旅がいつのまにか目的地があるように進んでいるのは、今日は寄りたい場所があったからです。
「もうすぐだ…」
それは毎年訪れている場所、ミーヴァトンネイチャーバスという温泉です。アイスランドは地熱を利用した温泉があり、いちばん有名なのがレイキャヴィク近郊のブルーラグーンという水色の巨大な温泉。その大きさと色は温泉というより巨大なプール、しかも皆水着をつけているのでその印象に拍車をかけるのですが、白い湯気と人が消えるほどの噴煙がたちこめる様子はまさに温泉。毎年最終日にここで疲れを取ってから翌朝空港に向かうのですが、アイスランドを訪れた観光客は皆ここのお湯に浸かるといっても過言ではないでしょう。それでも混雑を感じさせないキャパシティーなのです。このような大きな温泉が北部にもあるのですが、あまり知られていないのもあり、ブルーラグーンに比べるとほとんど人がいません。たった一人ではいることもありました。周囲は黄土色の荒野が果てしなく広がっています。水色の温泉に浸かりながら眺める地平線に吸い込まれる夕日。多いときは毎日足を運んでいました。ただここは温度にムラがあって、ぬるいなぁと思ったら急に熱湯が流れてきたりと、なかなか温度調節が難しいです。それでも、この地球にぽっかりあいた水色の温泉に浸かっているとまるで地球に温められるような、そんな気分になるのです。
「あと一日か…」
あさっての早朝の便の飛行機なので、明日レイキャヴィクに戻らなければなりません。誰もいない水色の温泉。徐々に頭の中でカウントダウンがはじまりました。
「さぁ、どうしよう」
火照った体が車の窓を曇らせています。ダッシュボードに広げられた地図をじっと眺めていました。明日レイキャヴィクに戻る際に時計回りか、反時計周りかで、これからハンドルを切る方向が変わります。時計回りで戻れば今回の旅はアイスランドをぐるっと一周するカタチ、反対であれば一周ではなく途中で折り返してくることになります。いずれにしても一気に戻るのは大変なので今日は途中の町で泊まることになるのですが、いちばんの基準は晴れ間が見られるかどうか。もしも明日晴れなかったら結局初日以外ずっと曇っていたことになります。そろそろあの透き通った青空に遭いたい、いまこそ重大な決断を迫られています。
「こっちでいこう!」
車は西、つまり反時計周りの方向へ進んでいきました。雲の流れが西から北東へと流れている気がしたからです。一周することよりも晴れの可能性を選択した車は夕暮れ時の牧草地帯を掻き分けていきました。
「今日泊まれますか?」
今朝、夜明け前に飛び出した旅人を真っ白な建物は暖かく迎えてくれました。
今日はここで一泊して明日レイキャヴィクに向います。霧雨に濡れるフーサヴィークの町。すっかり日も落ちて、街灯に明かりが灯りはじめました。一角にランプが飾られている場所があります。灯台で使用されるライトがいくつも展示されているようです。場所によって使用されているものが異なるようですが、やはり灯台がこの国の人々に愛されているのがわかります。
「ここにしてみよう!」
港に隣接するレストランはログハウスのような木製の建物。窓からオレンジ色の光りがこぼれています。いかにも地元の人たちで賑わっていそうな雰囲気に負けじと扉に手を掛けました。そこはヴァイキングという名のお店。各テーブル上の蝋燭の灯とランプだけで照らされた店内は壁に昔の捕鯨の写真が飾られています。2階から地元の人たちの賑わう声がきこえているものの、1階はとても静かで落ち着いています。窓からは港に並ぶ船の姿。勘で注文したシーフード料理は予想に反することなくスムーズに体の中に運ばれていきました。
「明日は晴れるかな」
降ったりやんだりのじれったい天気もだいぶ長く続いています。選択ミスが恐いので天気予報もあえて見ません。白い雲に埋もれるように体がベッドに沈んでいきました。
朝食をしっかりとってチェックアウトした僕の体をひんやりとした朝の空気が覆います。旅先の朝はいつも素敵で、思い切り朝の空気を吸い込むと体が浄化されるよう。雨こそやんでいるものの、まだ地面は湿っていて、相変わらず空は綿のような雲に覆われています。今日も一日空は灰色に染まっているのだろうか。車はフーサヴィークを離れていきました。
「おーい!」
周囲は青色の海から緑色の海へと変わりました。もやに包まれた羊たちの姿はどこか幻想的に見えます。道を横切る羊たち、緑に半分うずくまるように寝ている羊たち。どんなに遠くにいても、風が僕の声を届けてくれます。いつか彼らの返事をする声を聴くことができるのでしょうか。いつもなら車の中から声をかけるのですが、もう戻らなければならないと思うと名残惜しく、車を停めずにはいられなくなります。特定の羊たちがいるわけではありません。この国にいるすべてのマシュマロたちが愛おしくてしかたないのす。今度はまったく移動しない日を予定にいれて一日ずっと眺めていようか。そんなことを考えては、また車を走らせていました。
「あれ…」
遠くの空に雲の切れ目がある気がしました。そこからほんのちょっとだけ青色がのぞいています。久しぶりの青。半ば諦めかけていた空模様に少し希望が湧いてきました。そしてその切れ間から光りが差し込まれると、まるで早送りの映像のようにぐんぐん押し広げられ、みるみるうちに青色の面積が大きくなってきました。やがて太陽が顔を出しました。世界が一気に明るくなると、目の前に巨大なアーチが現れました。
「虹だ…」
地面を抉り取りそうなほどの真ん丸の虹が、まるで灰色の世界の出口のように架かっています。いくら走ってもくぐり抜けることができません。さっきまでの現実が嘘のように雲たちはいなくなり、虹の向こうは澄んだ青色が広がっていました。
大地を這うように、空に浮かぶ雲の影がゆっくりと移動しています。あのとき流れていた雲は、あそこに集まるためだったのでしょうか。まるで数日間雲たちに閉じ込められていたかのようです。羊たちが一列になって歩く姿が遠くに見えます。今回の旅でどれだけの羊たちに声を掛けたことでしょう。風になびく羊毛。空の色も草の色も水の色も、すべてが太陽に照らされ輝いています。カメラを持たずに飛び出した4度目のアイスランド。ここで見た虹と灰色のそらは僕の頭と心の中にずっと残ることでしょう。虹を追いかけるように車は走っていきました。
PS:長い間、旅のお付き合いありがとうございました。次回は1月16日になります。来年もよろしくお願いします。
2010年12月19日
第431回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」
第十三話 風の滑走路
「馬だ…」
柵もなにもない道の脇に馬たちがオブジェのように並んでいます。アイスランドは馬も結構いて、立ったまま眠っているのどかな光景を運転中もよく目にするのですが、彼らもいまは眠っているようです。スマートな体型でなくどこか間の抜けた愛らしい馬たちが迎えてくれたのはロイヴァルホプンという小さな港町。確かに地図にも馬のマークが記されています。羊たちはすぐに逃げてしまうのに対し、馬はあまり逃げようとはしません。むしろこちらが後ずさりしてしまうほどじっと見つめてきます。朝もやに包まれたロイヴァルホプンはまだ起床前でどのお店も閉まっているようです。潮風で色褪せた建物と丘の上の小さな灯台。ここもおいしそうなオレンジ色をしています。絵画のようで、時がとまっているようで、静かな朝の風景が広がっていました。
「コーヒーとサンドイッチ」
ロイヴァルホプンから次のポルショプンという町までは海岸線をだいたい70キロ、車で1時間以上かかりました。そういえば、夜明け前のチェックアウトからここまで前にも後ろにも、すれ違う車も人もまったく見なかった気がします。この国ではそういったことが珍しくなく、羊を見ないほうが困難なのです。ちなみにホプンはアイスランド語で港という意味。アイスランドにはその言葉が付く町がいくつかあります。おそらく300人ほどの人たちが暮らしているこの港町は、くちばしを伸ばす雛のようなランガネース半島の付け根あたり。ここからくちばしの先端まではまだ50キロ近くはあるでしょうか。それに星のマークまでは太い線ではなく細い線。となると舗装されていない可能性が高いのです。売店の小さなラウンジで地図を広げる日本人を、地元の人たちが気にしています。飲み干したコーヒーカップをテーブルに置くと、未だ見ぬ灯台に向って出発しました。
「何色だろう…」
島の端っこにある灯台は一体どんな色形をしているのだろう。そしてどんな景色が待っているのか。そんなことを考えながら付け根からくちばしへと向っていくと、徐々に空の様子がおかしくなってきました。
「大丈夫かな…」
白からダークグレイへと変わった雲がこちらへ迫ってきています。風も強くなり、いつ雨に襲われてもおかしくない雰囲気。あっという間に霧がたちこめてきました。このまま進もうか、引き返そうか、どちらもなかなか勇気のいる決断。風に揺さぶられながら走っていると、遠くに見える光景に目を奪われました。
「なんだあれは…」
荒涼とした大地に突然灰色のアスファルトが広がっています。まさかとは思いつつも近づくにつれ徐々にその正体が掴めてきました。霧の中にあらわれたもの、それは静かに伸びる滑走路。誰もいない空港、というより飛行場というほうがイメージに近いかもしれません。機体のない滑走路は、まるで風が大空へ飛び立つためのそれのよう。ここからすべての風が世界へ飛んでいくのでしょうか。地の果ての飛行場。滑走路の脇には白い建物がありました。
「風の空港?!」
係の人の言葉に僕は耳を疑いました。
「そう、ここから風が世界へ飛び立つの」
「風が、世界へ?」
「えぇ、すべての風がここから飛んでいくのよ」
たしかにここには飛行機も乗客もいません。
「ここから飛び立った風は世界をまわってまたここに戻ってくるの」
ニューヨーク、パリ、ロンドン、掲示板には風の経由地が書いてあります。
「じゃぁ、あれは…」
「そう、風の滑走路ね」
「風の、滑走路…知らなかった、こんな場所があるなんて」
「知らなくて当然よ、世界でここだけなんだもの」
「ここだけ?」
「そう、ここは世界にひとつだけの風の空港、ほかにはないの。あ、もうすぐ戻ってくるわ」
大きな音とともに風が舞い降りると、窓ガラスが小刻みに揺れました。
「ゴーザン・ダイイン」
想像をめぐらしながら扉を開けると、外の荒涼とした世界とは裏腹に、中はきれいな歯医者さんのロビーのような明るい世界。数人の子供を連れた女性が二組います。もしかするとここは世界一小さな空港ラウンジかもしれません。いったい何人乗りの飛行機がやってくるのでしょう。
「ここに行きたいんですけど」
僕の指がくちばしの先端をさしています。
「2時間はかかるかもね」
やはり舗装はされていなそうです。
「あの車でも平気ですか」
ここまで連れ添った相棒を指差しました。
「えぇ、問題ないわ。でもきっと今日はなにもみえないわ。霧がすごいし、風も強いもの」
往復で4時間。晴れているならまだしも、いつ嵐に変わるかわからないような風。真っ白な霧のなかにそびえたつ海辺の灯台にも惹かれますが、身の危険を感じなくはありません。とはいえいつでも来られる場所ではありません。いま行かなかったら一生いくことはないかもしれません。しかしここで諦めたら…。風の滑走路を眺めながらしばらく考えてました。
「やめておこう」
想像の余白を残しておく。すべて見てしまったらそこで満足してしまう。そう信じて今日はあえて勇気ある撤退の道を選びました。でも、見ていなくても、頭の中にその灯台は存在しています。霧の立ち込める地の果ての灯台。きっと霧に消えないように鮮やかな色をしているかもしれません。鳥たちが周囲を飛び交っているのでしょう。これからの時の流れにのっていたらいつかその場所にたどり着くかもしれません。そんな楽しみを得ることができただけで人生は幸福に感じられるのでしょう。
「ソフトクリームひとつ」
もうこれで何個目になるのでしょう。ポルショプンを離れた僕は次のヴォプナフィヨルズルという入り江の町に辿りつきました。風も収まり静かに湾が広がっています。誰もいない売店のラウンジ。フィヨルドを眺めながらコーヒーと真っ白なソフトクリームが舌にとけていきます。衝動的にはじまった夜明けのドライブは、夢の中のような不思議な世界を旅したようでした。雲がまた、ゆっくりと動き出しました。
2010年12月12日
第430回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」
第十二話 永遠と一日
できたての朝の空気に包まれながら車は海岸線を走っていました。窓を開ければひんやりとした風が車内を一回りして飛び出していきます。緑のパウダーの上に盛り付けらるように牧草地帯に群がる白いマシュマロたち。でも気持ちを和ませてくれるのはそれだけではありません。ここでも自由に飛びまわる鳥たちが視界に飛び込んできます。まるでシンクロナイズドスイミングのように空を泳ぐ姿は、まるで誰かに見せようとしているかのよう。どうしてこんな風に飛ぶことができるのか、いったいなにを感じているのか、鳥たちには悩みも迷いもなさそうです。そしてこののどかな光景を、誰かが脱脂綿をかぶせたように、ふんわりとした雲が覆っています。同じ曇り空でも今日は明るい真っ白な空。なんだか晴れてきそうな気がしてきます。
太陽の居場所を探していると、遠くに民家らしきものが見えてきました。家のような小屋のような、これまでにない色使い。少なくとも灯台ではなさそうです。魔法にかけられたように、そこから目が離せなくなっていました。
「なんだろう…」
何もない海沿いの牧草地帯にぽつんと置かれたおもちゃのように小さな建物が、ゆっくりと左の車窓を流れていきます。まるで海を眺めているようなその佇まいに、車窓から消えても頭の中は支配され、もはやこれ以上進むことができないくらい心がぐいぐい引っ張られます。銀色の鉄の塊は、フックされたゴルフボールのように来た道を戻っていきました。
「こんなところに」
まるで童話の世界にいるようでした。道路から海に向って延びる砂利道の先にあるのは赤いトタン屋根の小さな家。赤といっても単なるそれではなく、潮風を浴びて色褪せた、年季のはいった赤。そこからいまにも煙を吐き出しそうな小さな煙突がのびています。灰色の石の壁には白い木で囲われた四角い窓がふたつと木製の入り口。まるで子供がクレヨンで描く家。果たしてこれは現実の世界なのでしょうか。日本からやってきた靴が一歩ずつ童話の世界へと歩み始めました。近いようで遠い道のりは、風と呼吸と石がぶつかり合う音。ちょっとずつ建物が大きくなってきます。そして10分ほど歩いたでしょうか。目の前に、ふたつのかわいらしい家が兄弟のように並んでいました。
「誰か住んでいるのかな」
ここで人が暮らしているのでしょうか。荷物置き場とは思えません。時間も早いのでさすがに戸を叩くわけにもいかず、舐め回すようにじろじろと眺めてしまいます。ここで生活していたらどんな気分なのでしょう。どんな色彩が待っているのでしょう。文明から切り離された生活は些細な自然の変化を敏感に感じるはずです。こんなにも海が穏やかな表情を浮かべているなんて。遠くに羊たちの姿も見えます。いまにも犬が飛び出してきそうな静寂。ひょっとしたらいま、未来の自分の姿を見ているのかもしれません。この扉の向こうに未来の自分がいる。この扉をノックしたら80歳になった僕が現れる。そして僕が80歳のときに、30半ばの僕がここにやってくる。
「そうだった…」
さすがにこのときばかりはカメラがないことを悔やみました。でもその分、心のメモリースティックにはきっと色濃く残っていることでしょう。一生消えることもありません。小さな家を離れた鉄の塊はまた、まっすぐの道を進んでいきました。鳥たちが一列になって飛んでいます。観光地でもなんでもない誰かの生活は僕にとって永遠になりました。
2010年12月05日
第429回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」
第十一話「いつもの朝」
暗闇を棒でかき回すように、光の線がくるくると回転しています。昼間には見ることのできなかったもの、それは灯台でした。なにもない真っ暗な世界を、まるで生き物のように見回しています。
「この印はなんだろう…」
コーヒーカップで押さえられた地図の上にたくさんの星が散らばっていました。特に沿岸部などに多く見られる星のマークこそ、灯台を示すもの。もしそれが灯台っぽいマークだったらあまり気にならなかったかもしれませんが、なにもないところにぽつんと記される星の形に、想像力を掻き立てられずにはいられません。その星のひとつがいま暗闇を照らしています。
灯台というとどれも同じようですが、アイスランドのそれは個性的で、写真におさめたくなるほどかわいらしいものばかり。日本の一般的な灯台のように白くて円柱状のものではなく、角砂糖のような、四角いオレンジ色の建物。それが自然の景色にとても映えて、一目見ればあっという間に心の中にはいっています。かつて訪れたソイザネースの灯台はいまだに脳裏に焼きついているほど。アイスランドの人々はきっと、島の夜を守る灯台に強い愛着を持っているのでしょう。真っ黒な夜空に浮かんで光を放っている姿はたしかに星のよう。一体、この星はどんなカタチをしているのでしょうか。
光の棒がこの暗闇をずっとかき混ぜてくれるわけではありません。星が遠ざかれば再び真っ黒な世界。あとどれくらい走ればいいのでしょうか。ヘッドライトの前を横切る鳥たち。ぼーっとしていたら暗闇にさらわれて別の世界へ連れて行かれそうです。
「やがて朝が訪れる」
アイスランドでここまで真夜中に運転したことははじめて。しかも、町の明かりのない真っ暗な道は、運転する者を不安にさせます。いつまで暗闇が続くのか。ただ朝を信じるしかありません。それでも朝は訪れる、どんなに暗い夜にも必ず朝はやってくる、そう信じてハンドルを握っていると、次第に暗闇が薄まってきました。ゆっくりと空が浮かび上がり、目の前に青みがかった世界が広がっています。まだ赤も黄色も存在しない世界。刻一刻と夜が融けていく。それは夏と冬の間の秋のような、美しい時間。そして青色がさらに薄まっていくと、周囲は霞んだもやのなかに白くて丸いものがぽこぽこと浮かびはじめました。
「いつだって、朝は僕たちを裏切らない」
こんなにも朝を信じたことはあったでしょうか。たとえ灰色の雲が空を厚く覆っていても、朝は世界を明るくしてくれる。世界に色がつけられていくいつもの朝。いつもの朝であり、新しい朝。この世でもっとも新しい朝のはじまり。この朝の訪れをどのように感じているのでしょう、まるで夜通しそうしていたかのように羊たちは体を揺らしながら草を食んでいます。そして昨日訪れたコパスケールに着いたときにはもう町はすっかり朝の空気。朝もやに包まれた教会は昨日とはどこか違った印象で、見ているだけで神聖な気持ちになります。
「さぁ、ここからだ」
朝からたくさんの力をもらった僕は、見知らぬ世界を突き進みました。起伏に富んだ海岸線。絶壁が延びていたかと思えば海面と同じ高さの道が続きます。まさか人生でこの道を走ることになるなんて。車を降りて深呼吸すれば、生まれたばかりの朝の空気が体を膨らませます。海辺の牧草地帯の上には羊たちが寝そべって朝のひと時をのんびり過ごしているよう。激動の世界はいったいどこにあるのでしょう。穏やかさと静けさと、砂利道を歩く音。ここにはやさしいものしかありません。白い雲に包まれたやわらかな朝は、絵葉書にしたらこの風も届けてくれるでしょうか。白い建物を衝動的に飛び出してたどり着いた海辺の朝。生きていれば、こんなにも素晴らしい朝に出会えるのです。世界はすべて気持ち次第。羊たちの声が空に飛んでいきました。