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2010年11月28日
第428回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」
第十話 チェックアウトは夜明け前
「ここらへんかな…」
フーサヴィークに戻ってきた僕は、この町で一晩を過ごすことにしました。いつものようにアークレイリに戻らなかったのは、ここなら明日もし晴れたらすぐ海岸線を走ることができるから、そしていつもと違う町に泊まってみたかったから。街灯が灯り、町は灰色と橙色に包まれています。地図を見ずになんとなく走っていると、宿泊施設らしき建物が見えてきました。
「今日は泊まれますか?」
港から程近いホテルは真っ白で、なにも書いていなければ病院のよう。アイスランドには学校の寄宿舎を利用したホテルがあって、僕が訪れたホテルもそのひとつ。とはいっても、なかには夏だけだったり、お風呂やトイレが共同なタイプもあるのですが、ここは各部屋にバス・トイレもついていて、説明されなければなにも気付きません。しかも、部屋はとても綺麗で、外観の白を裏切らない内装。アイスランドの人たちは几帳面なのか、とても清潔かつ衛生的で、どこか日本人に似ている気がします。やはり、同じ火山を持つ島国。ただ、彼らは体が大きいので、日本人にとっては部屋もベッドもキングサイズ。ベッドに座ると足が床から離れてしまいます。
荷物を置いて、霧雨を浴びながら町を散策。おみやげ屋さんにはいったり、レストランを覗いてみたり。もちろん派手な外観のお店はありません。小さなスーパーは地元の人たちの集まる場所。彼らに混ざって買い物をすれば、なんだかこの町に住んでいるような気分。これも旅の醍醐味のひとつなのです。町のレストランをいくつか見つけました。でもレストランというよりどこか人の家のような外観。常連さんで集まる空間に惹かれるものの、そこに飛び込むのはなかなかの勇気を要するので、今日はひとまずホテルのレストランで夕食をとることにしました。
「シーフードスープと焼き魚」
豪華なパーティーができそうなほど広いのは学生たちが利用するからでしょうか。でもメニューも高級レストランのようにしっかりしていて学食の雰囲気ではありません。各テーブルの上には蝋燭の灯。まだだれもいない静かな店内で、この港でとれたであろうシーフードを味わっていると、ようやくほかのお客さんもはいってきました。
「明日は晴れ間が見られますように」
あの雲もきっと朝にはどこか遠くへ、心のどこかでそんなことを願いながらベッドにはいれば、まるで底なし沼にはまるように体がふかふかのマットの中に沈んでいきました。
「まだこんな時間…」
瞼を持ち上げると真っ暗な部屋が見えます。カーテンの隙間から差し込む光もありません。時計を見るとまだ3時、徐々に起床時間が早まるのはいつものことです。太陽こそでていないけれど、もう雨はあがっているだろう、ぼんやりとそんな期待を胸に開けたカーテンは、濡れたアスファルトとストローのような雨が降り注ぐ街灯を映し出しました。朝になったら、それとも今日一日、いずれにしても朝食まではあと数時間、もうしばらく眠っていられます。
「いや、だめだ!」
沼に沈んでいく途中で体が這い上がりました。ベッドを飛び降りると、僕は荷物をまとめ、着々と部屋を出る準備をはじめました。
「よし、行こう!」
まるで夜逃げでもするかのように、音を立てず、ゆっくりと扉を開けます。オレンジ色のスーツケースの男が真っ白な建物からでてきました。強く熱い決心をやさしい雨が包みます。雨上がりどころか朝食の時間も待たずに飛び出したのは、おそらくあの雲を突き破りたかったからかもしれません。車のマフラーからあたたかそうな煙。若干朝食に後ろ髪を引かれながら、車は真っ白な建物を離れていきました。もちろん料金は支払い済み、鍵はフロントに置いて。
最後の街灯を抜けると、ジェットコースターのような坂道が暗闇に突入するようにまっすぐ延びています。そして一気に駆け上がれば、一瞬視力を失ったかのように、ただ真っ黒な世界が目の前に広がりました。
「なにも見えない…」
ヘッドライトと暗闇が闘っています。もしもこのライトが消えたら、テレビのように世界がまるごと消えてしまうかもしれません。しかし、すべてを呑み込んでしまいそうな暗闇はやがて、大きな海や羊たちを浮かび上がらせました。この先には大きな海が広がっている、きっとたくさんの羊たちが草を食んでいる。見えないけれど、感じることはできます。真っ暗な世界に昨日見た風景がどんどん当てはまり、映像になって流れていきます。もはや暗闇に対する恐怖はありません。そして、次に目にしたものはさらに僕を安心させてくれます。それは、この真っ暗な世界にのみ存在し、昼間には見ることのできないものでした。
2010年11月21日
第427回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」
第九話 地図とコーヒーカップ
海岸線の道が内側からぐいっと引っ張られるように形成された三角州のちょうど先端あたりに佇む一軒のカフェの前に銀色の車がとまっています。ここはアウスビールギという巨大な滝の跡がある森にほどちかい場所。テレビの音が薄く流れる店内には背の高い男性と、ずっと編み物をしている女性のふたり。結局あれから降ったりやんだりの雨のなか起伏に富んだ海岸線を走り続けてたどり着いた休憩地点は、静かな時間が流れています。洗車中のように雨水が流れる窓の横で僕は、テーブルの上に広げられた地図のシワを押さえるようにコーヒーカップを置きました。
「これじゃ滝にもいけない」
ここからデティフォスの滝へと道がのびています。それは一度だけ訪れたことのある欧州最大規模の滝。ゴーザフォスよりもダイナミック。しかし、ただでさえオフロードの道のり、この大雨じゃ途中でなにが起こるかわかりません。もうひとつのアウスビールギの森は、巨大な絶壁に囲まれた深い森のなかに神秘的な池があるのですが、こちらは昨年訪れたときに神秘的を通り越して、あまりの恐怖で逃げ出したほど。晴れていてそうなのだから、こんな大雨では入ることすらできないでしょう。まだまだ雨はやみそうにありません。ここで引き返すか、まだ海岸線を走るか、それともしばらくじっとしているか、3つの力が拮抗しています。コーヒーがなくなる前に決めたいところ。
「今日は戻ろうか…」
しかし、引き返すのは簡単なのに、地図の上に散らばる言葉やマークは僕の心を離しません。これまでにほぼ主要な町を訪れた僕にとって、見知らぬ小さな町の引力は強大で、ついついその名に好奇心が芽生えてしまいます。ガイドブックにも載っていない、なにもない町。とりわけ海岸線に点在する町は、一体どんな世界が待っているのかと想像が膨らみやすく、いてもたってもいられなくなるのです。そして、地図に載っているのは町の名前だけではありません。
「これはなんだ?」
その地域に生息している生物がマークで記されていて、たとえばフーサヴィークの港の上には鯨のマークがあるのですが、ここから先の海岸線の上に記されたマークはそれとは別の生物のようでした。
「アザラシ?」
それは、間違いなくそうでした。鯨ならまだしもアザラシともなると、かなり北極寄りを実感します。おそらく容易に見られるわけではないにしても、この近くを泳いでいることを想像するだけで気分が高揚します。そんな、ケーキのように地形にデコレーションされた、まだ見ぬ町の文字とアザラシのマークをもはや食べずにはいれらません。コーヒーカップの底が顔出すと、銀色の車はさらに北東へと進みました。ちなみに、羊たちのマークは記されていません。そんなことしたら地図はマシュマロだらけになってしまうのでしょう。
三角の先端からふたたび海のほうへ吸い寄せられて、あっという間に海が真横に来ています。ここからは未踏の地。新しい世界に突入するように、車は入り江の上にかかる橋をわたります。まるで遊園地のアトラクションのように、波が覆いかぶさってきそう。道が飛び出て、押寄せる大きな波に呑み込まれてしまいそうな不安を雨の中でもかまわず群がる羊たちの姿に掻き消してもらいながら、灰色の空の終わりを求めて走りました。
「ちょっと降りてみよう」
しばらくすると左手に黒い砂浜が広がってきました。さっきまで絶壁から見下ろしていた海は、いま砂浜の向こうで波を立てて打ち寄せています。道路わきにとめた車のなかからでてきたヒトの体は風があっという間に波打ち際へと運んでくれました。ここにアザラシが漂着することはあるのでしょうか。砂浜を撫でては逃げていく波に触れると、それがあの高台から見た広大な海の一部ということがとても不思議に感じます。この透明な液体がたくさんあつまって、すべてを呑み込んでしまいそうなほど大きな海になっているなんて。
アクセルを踏む足に砂の感触。散々走り回ったので、すっかり靴のなかにも砂がはいりこんでいます。風を浴びたらなんだか疲れもとれたようで体が楽になっていました。それにしても、灰色の屋根はいったいどこまで続くのでしょう。結局、雲の切れ間も、本物のアザラシの姿も見ることのないまま、次の町が遠くに見えてきました。牧草地帯の上に、白と水色の教会。コパスケールという小さな町の入り口には牧草地帯の羊たちと、独特な表情をした案山子のような人形たちが迎えてくれました。もやに包まれて、幻想のなかの町のようにも感じます。おそらく数百人で形成されるこの町を果たして、地球上のどれだけの人が知っているのでしょう。知られることが当たり前になっている世の中では、こうして知られずに存在することのほうがよほど困難なはずです。こんな小さな町にも、やはりコーヒーを飲む場所はあります。これまでの人生の最北端で飲むコーヒーが潮風と雨にさらされた体を温めてくれました。
「これを飲んだら戻ろう」
次の町まではまた数十キロ。これ以上行ったらキリがありません、というよりもうこの先に雲の切れ間はない気がしました。少なくとも、今日は。灰色の切れ目を求めてたどり着いた誰も知らない町。羊たちだけには来た事を報告しておきました。だんだん灰色が濃くなってきています。ゆっくり波を立てる海と、雨のなか草を食む羊たちを眺めながら車は、来た道を戻っていきました。
2010年11月14日
第426回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」
第八話 羊たちに会いに
「きゃー!」
その日も302号室から悲鳴がきこえていました。
「また302ね、新人がくると必ずこうなのよね」
婦長の宮本が呆れ顔でナースステーションを飛び出します。
「フルカワさんだめでしょ、新人さんがびっくりしてるじゃない」
「大袈裟なんだよ、別に触って減るもんじゃないんだし」
「いいですか、ここはそういうお店じゃないんですよ。そういうことしたいなら元気になって退院してからにしてください」
「わしはもう充分元気だよ!」
そう言って、また看護師の腰に手を伸ばしました。
「きゃぁ!」
そんな302号室から悲鳴が聞こえなくなったのはそれから半年後のこと。
「あ、また食べ残してる。だめじゃないですか、しっかり栄養摂らないと」
「どうせ食べたって治らない」
妻に先立たれてからと言うもの、すっかり意気消沈してしまい、看護師の体に触れるどころかすっかり口数も減りました。
「元気ないですね、フルカワさん」
「あぁ見えて奥さんのことすごく愛していたのよね。でもちょうどいいんじゃない?元気よすぎたから」
「そうですね…」
新人の川上はフルカワの様子を気にしていました。
「そういえば最近よく写真見てますけど、あれってなんの写真ですか?」
「え、あなた知らないの?私なんかねぇ…」
宮本は、フルカワから度々写真の話を聞かされていました。
「アイスランド?」
「そう、若い頃、毎年旅していたんだって」
「アイスランドって、イギリスの上でしたっけ?」
「それはアイルランドじゃない?私もよくわからないけど、フルカワさんが行ったのはアイスのほう」
「何しに行くんですか、アイスランドに?」
「今度それきいてみなさい、たぶん1時間以上話こまれるから」
川上は気になってパソコンを開きました。
「地球の素顔?」
「そう、地球の素顔と静寂。あそこには都会にない本当の静寂がある。そしてな…」
嬉しそうに語るフルカワの話を川上は興味深げに聴いています。
「オーロラも?」
「そうだ、あれはすごかった。ただ、わしが行くのはオーロラがあるからでも巨大な滝があるからでもない」
「なんですか?」
「マシュマロだ」
「マシュマロ?」
「そうだ、緑の上にたくさんの羊たちがいてな、それがとても真ん丸でやわらかそうで、まるでマシュマロのように見える」
「そんなに羊いるんですか?」
「そりゃぁもうたくさんな。声を掛けたときに振り向くしぐさが愛おしくてな。あの頃は本当に羊飼いにでもなろうか迷ったほどだよ」
「またいけるといいですね、アイスランド」
フルカワの目の輝きに川上は少し安心しました。
「おじいちゃん!」
ある朝、孫の亮太を連れて娘の由美がやってきました。
「おぉ亮太か、来てくれたのか」
「これ、お見舞い」
そういって紙の袋を手渡すと、中から真っ白なぬいぐるみがでてきました。
「おじいちゃん羊好きでしょ」
「ありがとな、亮太は本当にやさしい子だな」
亮太の頭をしわしわの手が覆います。
「僕もいってみたいな、アイスランド」
「そうか?行って見たいか」
「うん、いつかおじいちゃんと一緒に行ってみたい!だから早く退院してよ!」
「亮太、おじいちゃん頑張って病気治してるんだからそう焦らせないの」
そう言って、由美は花瓶の水を取り替えに部屋を出て行きました。
「ちょっとどうしたんですか」
その夜、川上が見回りに来ると、フルカワが私服に着替え、カバンに荷物をつめていました。
「なにしてるんですか!」
「いつまでもこんなところにいたんじゃ人生棒にふるだけだ」
「そんな荷物持ってどこ行くんですか」
「どこだっていいだろ」
「そんな無茶したら体もっと悪くなりますよ」
川上は必死にフルカワの手をとめます。
「また会いにくるって約束したんだ」
「元気になったら行けるじゃないですか」
「元気になったらっていつまでたってもよくならない、なら悪くなってもいいから行かせてくれ」
もう一度あの場所を訪れたい、それがフルカワにとって人生最後の願いでした。
「そんなわがままいったら天国で奥さんに会えませんよ。きっと元気になりますから!」
しかし、容体は決して良くはなりませんでした。
「ねぇ、また呼んでない?」
「もう今日で5回目」
ナースステーションに男の声が響いています。
「おーい、おーい」
案の定、302からです。
「フルカワさん、用があるときはこのボタンでしょう。そんな大声だしたらみんな起きちゃうじゃないですか」
それでも彼は叫び続けます。
「おーい、おーい」
「フルカワさん!ここにいますよ!」
「おーい、おーい!」
まるで寝言のようにフルカワの口から発せられています。その度に川上はナースステーションから駆けつけていました。
「302号室、容体が急変しました!」
数日後のことです。食べ物を喉に詰まらせたフルカワの容体が悪化し、呼吸もままならなくなっています。担当医師が駆けつけた頃にはもう意識を失っているようでした。
「おじいちゃん!」
連絡を受けてやってきた由美と亮太の目には、チューブを鼻に通して動かなくなったフルカワの姿が映っています。
「え?ひとりで?」
「そうなんです、実は病院を抜け出しましてね」
レンタカーを借りたフルカワはあの頃のようにリングロードを走り抜けていました。
「おーい!元気だったかぁ?おーい!」
遠くまで散らばったマシュマロたちに声を掛けると一斉に車に目を向けます。
「久しぶりだな、元気だったか」
車から降りたフルカワは、羊たちの群れのなかにはいっていきました。
「どした?珍しく今日は逃げないんだな。ようやくわかってくれたのか」
まるで彼を受けいれたように、羊たちはそのまま草を食べ続けます。そしてフルカワは、羊たちと同じように緑の上に寝そべりました。
「ねぇ、おじいちゃん、笑ってる」
フルカワが微笑んでいるように見えます。
「もしかしたらいまごろアイスランドを旅しているのかもしれないわね」
その夜、彼は息を引き取りました。苦しむ様子はなく、穏やかな表情。由美は亮太の手をやさしく、強く、握り締めました。川上の頬を涙がつたっていきました。
アイスランドの空を白い雲たちが静かに流れています。緑の上の羊たちが次々に草を食むのをやめ、顔を上げました。アイスランド中のマシュマロが、まるで誰かの声に反応するように。やがて雲の間から太陽がゆっくり顔を出すと、すべてを包むように大きな虹が架かりました。羊たちの毛が風に揺れています。やわらかな雨が、陽光にきらめきながら、空から落ちてきました。
2010年11月07日
第425回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」
第七話 雨と風のラプソディー
叩きつけるような雨が町を濡らしていました。水彩画のように四角い建物たちがぼんやりと丸みを帯びて浮かんでいます。綿のような厚い雲が空を覆い、まるで閉じ込められてしまったかのよう。いくら去年が晴れていたからとはいえ、ブーザルダールルのように空は僕に都合よく晴れてはくれません。
「どうしよう」
ガソリンスタンドのラウンジの窓は雨に打たれるフーサヴィークを映しています。ここはアークレイリから100キロほど離れたアイスランド北部の港町。夏にはホエールウォッチングなどの観光客で賑わうようですが、時期的なのかこの雨のせいか、港の船たちは静かに佇み、去年とまるで違った印象を受けます。雨があがるのを待っていようか、雨のなかさらに北へ進むか。町を散策してもいいのだけどこの雨ではどうも気分が乗りません。一日はまだはじまったばかり。コーヒーが、軽めの途方にくれる男ののどを通過していきました。
「コーンのほうで」
今日はどうやって過ごすべきなのか、途方にくれる彼が選んだのは、とりあえずソフトクリームを食べること。運転の疲れもあって、旅の間はアイスクリームを食べることが多く、なにかと節目節目に購入してしまいます。とくにソフトクリームはフライドポテト同様、味で違和感をおぼえることもなく、安心して食べられるのです。フィンランドもそうでしたが、北欧の人たちはアイスクリームが好きなのか、お店には大抵アイスのケースが置かれています。
「よし、行こう」
糖分の力が、僕にさらに進むことを決意させました。でも当てはありません。ただ雲の切れ間を求めて。町を出るとすぐにジェットコースターの最初のような道がたちはだかり、駆け上がると目の前に海が広がりました。フーサヴィークの北東は、ボタンのように突き出したチョルネース半島。その周囲を指でなぞるように道が伸びています。舗装はされているものの崖の上。走っているとこのまま海に投げ出されてしまいそうな感覚になります。スローモーションのようにゆっくりとしぶきをあげる波。まるで島全体が船で進んでいるかのよう。あまりにも大きな海は島ごとのみこんでしまう生き物のようにも見えます。しばらくすると、ちょっとした休憩所が現れました。
空に飛び出すように突き出た崖の上の休憩所。といっても、売店もなにもありません。ここはかつても訪れた場所で、あのときは天気に恵まれ見晴らしもよく、地球の端っこまで見渡せました。まるで水槽にはいっているような澄んだ青色に包まれていましたが、今日はすっかり灰色で、光の入り込む余地もありません。
「ちょっと出てみよう」
風に車が揺れています。ちょうど小雨になったのでドアをゆっくりあけるとその隙間から大量の霧雨まじりの風がはいりこみ、風圧でいっきにドアが全開になります。閉めることも容易ではありません。立っているのも精一杯で、ちょっと油断したら飛んでいってしまいそうです。やっとのおもいでたどり着いた数メートル先の柵からは、眼下にしぶきをあげて崖にぶつかる波。風に乗って雨がミストのように動き回っています。気持いいもののあっというまに服はびしょびしょ。雨粒が大きくなるともう車に逃げ込まずにはいられません。まるで風が追いかけてきたように、車がひっくり返りそうなほど揺さぶられます。ヘッドホンをつけて、もうしばらく果てしなく続く大海原を眺めていることにしました。
「さぁでておいでよ!」
どこからか声がきこえてきます。
「ねぇ、そんなとこで寝てないで、でておいでよ」
それは風たちでした。風たちが大きな鉄の塊を揺さぶっています。
「こんなすごい風じゃでられないって」
「大丈夫。僕たちがいいところに案内するから」
「いいところ?」
風の誘いに、仕方なく男は車から降りました。
「さぁこっちこっち!」
「ちょっとまって、足が」
風に押されて男は大地がもうすぐ途切れてしまうところまで来ました。
「待って待って!落ちちゃうって!」
「さぁ飛び込んでごらん」
「なにいってんの、そんなことしたら死んじゃうよ!」
「大丈夫、僕に乗るんだよ」
「キミに?そんなの無理だって。だいいち僕にはキミが見えない」
「信じれば見えるから」
男は目を見開きました。
「だめ、なにもみえない」
「目を閉じて…」
男は静かに目を閉じると、思い切り息を吸い込んでそれをぜんぶ吐き出してから、大きく手を開いてドミノが倒れるように体を前に預けました。風に乗るどころか体はそのまま水面に落下していきます。
「風が運んでくれる…」
ゆっくりと目をあけるとそこは大海原の上、なにもない場所に体が浮かんでいます。
「ね、信じれば見えるんだよ」
「っていうか、もっと早く乗せてくれなきゃ!」
男は風に煽られながら海の上をまるで水上スキーでもするように走り回りました。さっき乗っていた車が遠くに見えます。
「どこか行きたいところある?」
「そうだなぁ」
そういって男は真上を指差しました。
「うえ?」
「うん、あの雲の上まで連れてってよ」
「よし、オーケー!」
そういうと、風は男をのせて雲に向かって一気に上昇していきました。
「うわ、すごい!」
「ちゃんとつかまってて」
二人は灰色の世界を突き抜けていきます。
「こんなに分厚いんだ!」
ようやく雲の層を抜けるとそこには燦燦と輝く太陽が待っていました。
「まぶしい!」
真っ白に光る太陽、そして透き通る水色の空が広がっています。鳥たちがときおり通過していきます。
「ここに晴れ間があったのか」
雨と風が、晴れ間を夢見る男を誘うように、車の周りで飛び回っています。ヘッドホンからシガー・ロスの音が流れていました。