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2010年07月25日
第413回「シリーズ人生に必要な力その42不満力」
桃屋の「辛そうで辛くない少し辛いラー油」が品切れで購入できないという状況から久しい今日に至ってもまだ店頭には並んでいないようです。そのネーミングセンスも然ることながら、一度食べたら誰もが病みつきになるその味は、日本中にまさかのラー油ブームを巻き起こしたほど。ラー油なんていままで餃子のときにしか視界にはいらなかったのに、もはやあらゆる食事に使用する者も少なくないそうで、さすが「ごはんですよ」を生んだ桃屋の貫禄。とはいえ「ごはんですよ」が発売された際にどんな感じだったのかは知りませんが、ラー油がそれくらい長期に渡って愛されるかはまだわかりません。ブームに終わる可能性もあります。でももしかすると、いまだに店頭にないということは、品切れの裏に戦略的な意図があるのかもしれません。国民全員をお腹一杯にさせてしまったら一過性のブームに終わってしまう、だから調子に乗って大量生産するのではなく、生産量を調整する。なが〜く愛されるものになるために。社長室にはこんなことが書かれているかもしれません。「満足させるな、不満を与えろ」と。もちろん、味で満足させないわけではありません。それができなかったらブームなんて起きるはずもありません。ブームの先のスタンダード、エヴァーグリーンな食べ物であるために、味で満足させた上で、不満を与える。つまり、もっと食べたいのに食べられない状況を作る。これがヒット商品の黄金パターン。そんなことを意図したのかはわかりませんが、結果として桃屋は「不満というご馳走」を世に与えたのです。
流行はなぜ終わるかというと、人々が満足してしまうから、お腹一杯になってしまうから。満腹感を与えてしまったら、どんなに好きなものでも食べられません。あんなに好きだったのに興味すらなくなってしまう。そうやって流行は去って行くのです。だから流行ほどこわいものはなく、芸能界などでも容赦なく現実化します。大好きなプリンも、食べ過ぎたら嫌いになる。もっと食べたい、その気持ちこそ大切なスパイス。そこにおいしさの美学があるのです。桃屋が目指したのはブームになることではなく、スタンダード。何十年後の家庭の冷蔵庫に「ごはんですよ」と「ラー油」の両方が入っている状況。だから、お腹一杯にさせちゃいけない。不満を与える必要があるのです。
もちろん桃屋だけではありません、電化製品もそう。どんなに気に入って買っても、次に出る商品に目移りします。そうです、新商品の目的は、それまでの商品に不満を与えること。不満を与えて新しい商品に手を伸ばさせる。だから人々は買い続けるし、企業はそれを知っているのです。
音楽もそう。<だれかのように>一曲で5分も6分も聴かせるのではなく、3分くらいで潔く終わったほうが、もっと聴きたい気持ちにさせる。だから商業ベースで考えれば、自ずとカタチは決まってくるわけで、あとは作り手の価値観の問題。
生産者と消費者の関係だけではありません。たとえば海外に旅行するとき。好きな場所こそ、日程は少なめがいいでしょう。もっといたい、まだ帰りたくない、そういった不満こそ最高のお土産。たとえ一生に一度きりの場所だとしても、もっと滞在したかったという想いがその旅を輝かしいものにするもの。お腹一杯になってしまったら二度と訪れようとは思いません。満たされない気持ちこそ愛し続ける理由。「不満」は継続に欠かせない要素なのです。
人間だって、人に満足を与える完璧な容姿よりも、どこかに不満を抱かせるそれのほうがその人の魅力の持久力は高いでしょう。人工で造られた整った綺麗さよりも、自然の整っていない美のほうが飽きないものなのです。
世界は不満で動いている、特に経済は不満によるところが大きい。だから自分がなにかを続けたいときは、この「不満」をうまくコントロールするといいでしょう。ただ愚痴に変換するのではなく、不満を楽しむ。これができれば人生もより楽しくなるはずです。
不満。それは心に満たないこと、満足しないこと、不満足なさま。こうやって目にするととてもネガティブな言葉のようですが、まだそのことに気付いていないだけで、人は、「満足することよりも不満が残るほうが好き」なのです。満足したら終り。満足ほどこわいものはない。満足は停滞を招きます。不満こそ生きる原動力。常に不満が残るほうが前に進む。あともうちょっと食べたい、もうちょっと居たい。満たされない想いにこそ持続可能なエネルギーが潜んでいる。不満をうまくコントロールできてこそ、人生の達人。だから人生には、不満力が必要なのです。
ps:iTunesで、作者の希望により潔くない曲ばかりを集めたアルバム「dancemusic」を配信しています。よろしくお願いします。
2010年07月18日
第412回「シリーズ人生に必要な力その41きなこの力」
きなこソフトクリーム、白玉きなこぜんざい、まるで魔法の言葉のようにひとたびそれを織り交ぜるだけで魅力を倍増させてしまう「きなこ」。「抹茶」や「ゆず」などと同様、主役をおびやかすことなくうまく引き立てる名脇役。スィーツ界でそれらは3大テノールならぬ「3大いい感じなる響き」として重宝がられていますが、殊にきなこは体にもよく、ほかのふたつに比べて抜きに出ている感があります。さらに大きな違いとしては、食べ物以外にも使用できる点。これは意外と知られていないことなのですが、実は、きなこは食べ物だけにかけるものではないのです。
ご存知の方もいるかもしれませんが、たとえば富士山頂にかける「きなこ富士」や、きなこを撒き散らす「ぶっかけ祭り」、きなこまみれになったおじさんから逃げ回る「アンクルきなこフェスティバル」。地方によっては体育祭などで見られる組体操のピラミッドにかける学校もあるように、きなこを食べ物以外にかける風習はいまでも残っています。また、グラビアアイドルにきなこをかけたら雑誌の売り上げが倍増した、屋根にきなこをかけたら家庭内の不協和音がなくなった、という報告も届いています。きなこはどこか神聖な力を持った粉、いわば「神の粉」なのです。
「あなたがいま、もっともきなこをかけたいものはなんですか?」
きなこの普及に務める日本きなこ協会の皆さんに上記のアンケートを実施したところ、以下のような回答になりました。
1位 スカイツリー
2位 六本木ヒルズ
3位 嵐
今年、急浮上したのがいま話題のスカイツリー。「完成したときもいいけど、建築途中に一度かけておきたい」という意見が多かったようです。2位のヒルズは「あの光沢感のあるビルからきなこが滑り降りていくのを見たい」、3位は「メンバーの中で決めるなら私はぜったい大野君!」という意見も。また、8位にAKB48、12位に松崎しげる、25位に甲府盆地、33位に思春期と続いたようです。
欧米では、先入観のなさからか、食べ物に使用することのほうが珍しく、様々な局面できなこがかけられている光景を目にします。アメリカの一般市民に同様のアンケートをとったところ、
1位 自由の女神
2位 ホワイトハウス
3位 レディー・ガガ
という結果になりました。1位には「あの手に持ったソフトクリームみたいなやつもいいけど、抱えている辞書みたいなやつにもかけたい」という意見も。3位は、去年のビヨンセに代わっての登場。「きなこまみれもいいけど、少量かけてもむしろファンキー!」という者も。ちなみに12位にイチロー、14位バスケットボール、16位にアメフトの選手。昨年8位だったタイガー・ウッズが今年85位にランクダウンしたものの、スポーツ人気の根強さを反映している一方で、18位に黒人、25位キューバといった、いまだに残る人種差別や社会情勢の問題も浮き彫りになりました。
ちなみにフランスでは、1位凱旋門、2位エッフェル塔、3位サルコジ。毎年アビーロードにきなこを撒く風習のあるロンドンでは、1位こそフィッシュ&チップスと食べ物だったものの、他にはポール・マッカートニー、エルトンジョン、オアシス、スーザンボイルなど、数々のアーティストが名を連ねていたことがその特徴といえます。
「それだけ、世界中で愛されている、ということでしょうね」
と話すのは、上記会長であり、株式会社「月のかけら」の社長でもある木名木名男(きな・きなお)さん。
「結局、おいしそうに見せるだけでなく、そのものの良さを引き出してくれるんです」
そう言って、コーヒーにきなこを大量にかける木名氏。現在、「月のかけら」のきなこが国内シェアナンバーワン。もともときなこは大豆からできていると思われがちですが、それはいわば養殖のようなもの。本当の天然のきなこは、サハラ砂漠に眠っているといわれています。
「ただ、注意しなくてはいけないのは」
天然であろうと、養殖であろうと、あくまで名脇役。主役が不在だったり、きなこをメインにするようでは本末転倒なのです。社長に、ライバルはいますか、と尋ねると、
「名脇役という意味では…」
少し間をとってから、「ネギ」とつぶやくように発しました。最近ではiPadにかけるのがお気に入りという社長、将来の夢はなんなのでしょう。
「そうですね、いつか月にかけてみたいですね」
と笑みを浮かべる木名さん肩には少量のきなこがかかっていました。
世界中で愛されるきなこ。食べ物にしか使用しないことほどもったいないものはありません。合コン時、メイクの最後にきなこをパタパタとしておくだけで、周囲の目線は釘付けになることでしょう。もちろん、接待の際にかけておけば商談成立間違いありません。人生には、きなこが必要なのです。
2010年07月11日
第411回「シリーズ人生に必要な力その40見抜く力」
ほっかぶりに唐草模様の風呂敷。泥棒というとそんなイメージがありますが、それはマンガやドラマの世界だけで、実際にはそんなわかりやすい格好はしていないでしょう。まるで「僕は泥棒です」といわんばかりの服装。過去に存在していたかさえ疑わしいですが、いまの泥棒は普通にスーツを着て、周囲に気付かれないような格好で盗みをするはずです。だから周囲に馴染んでいても、どこか不審な点を見抜く必要があります。ただ、見抜くといっても、スーツの泥棒なんてまだまだかわいいもの。なぜなら、「盗んだ」という「悪」がわかりやすいから。この世に存在するのは、盗みや殺人のようなわかりやすいそれだけではありません。非常にわかりにくい悪。悪どころか、むしろ「善」に見えている悪。真の悪は、それを悪と呼ぶかどうかは個人の自由ですが、悪と気付かれないように、善のフリをして涼しい顔で存在しているのです。
たとえば、「エコ」に関してもそう。一般的に「エコ」を推進することに疑問を抱く者はあまりいません。しかし、それに便乗してお金を儲けようとする人たちはいます。エコという時代の価値観を利用して、いや、時代の価値観を作り上げて、お金儲けをする。税率をあげるとかそんな輪郭のはっきりしたものではなく、大衆の気付かないようにお金が流れ込むシステム。自分たちが得するシステム。その技術に優れ、そこに命を懸けている。もちろんお金儲け自体を責めることはできないし、お金を得るだけなら別に構いません。お金がすべてではないのだから。でもそのシステムが、貧困に苦しむ人々をさらにどん底に突き落とし、多くの命を奪っている。たとえば、産業のための戦争。産業のためのエコ。それでも平気で正義の顔をしている。正義を掲げているものにこそ、その裏側に悪が潜んでいるもの。僕たちは、正義の仮面のその奥に潜む悪の眼差しを見抜かないといけないのです。
悪を悪じゃないように見せること。悪が正義になるシステムを構築すること。正義か悪かは、人々の価値観で変わるので、悪が正義になるように人々の価値観をコントロールする。でも、人々はコントロールされているなんて気付かない。一度常識として認めてしまうと、誰もそのことを疑わなくなるのです。
カルト教団の信者たちを見て僕たちは、中にいると気付かないんだ、と思ったりします。外側にいると気付くことも、中にいると気付けない。じゃぁ果たして、僕たちは確実に「外側」だといえるでしょうか。もしかしたら、「なにかの内側」にいるのではないでしょうか。宗教とかそんなわかりやすいものではなく、もっとわかりにくいカタチで、なにかの内側にいる可能性は充分ある、というか、残念ながら、そうなのです。僕たちはなにかの内側にいるのです。本当は外側があるのに、そこからの情報は遮断されているのです。
もちろん、内側にいるからといって殺されたりするわけではありません。なにかが得をするシステムが組み込まれた世界で生きている。それを僕たちは常識という言葉で気付かないようになっている。でもこの世に常識なんてものはなく、あるのは、このシステムを維持するための規則だけ。僕たちはたまたまそういった「内側のルール」で生きているだけなのです。それは外側からしたら常識でもなんでもないのです。この壁は法の力では破壊できません。なぜなら法律はこの壁を守るためにできているから。この壁を壊せるのは唯一、大衆の力。僕たちが内側を自覚しない限り、この壁は崩壊しないのです。
世の中の舵を握っているのは善でしょうか、悪でしょうか。きっと後者、善のフリをした悪が舵を握っているのです。99%の乗客が正しい船だと信じていても、気付いている人はいます。気付かないほうが幸福だと思う人や気付かないフリをしている人もいるでしょう。気付かなくてもなんの問題もなく生きていけます。しかし、この船を動かすには多大な犠牲を払っていること、この船を動かす燃料のために苦しんでいる人たちの存在に気付かないといけません。世界のどこかに「豊かさの犠牲」がある。そこから目を背けていることは、結局僕たちも「悪」に加担していることと同じなのです。
本当の悪を見抜く力。この力があれば、巷にあふれる偽善に満ちた笑顔なんて簡単に見抜くことができます。善のフリをした悪。悪が善になっている世界。この歪んだ世界を矯正するためにはまず、内側の自覚が必要です。どのシステムが世界を動かすのか、システム対システムの争いはいつまで続くのでしょう。それは僕たち大衆の見抜く力にかかっているのです。
2010年07月04日
第410回「シリーズ人生に必要な力その39ノラ猫力」
だからといってホームレスのような生活とか非社会的な人間になることを勧めているのではありません。ちょっと最近、なんだかみんな、行儀良すぎるというか立派な人になろうとしすぎというか、もっといろんな人がいてもいいのになぁと思うのです。そもそもなにが立派でなにがそうじゃないかなんて簡単には決められないし、重みのある言葉以上に軽い言葉だって価値はあって、薄っぺらい人間にこそ強さがあるかもしれないのに、巷にあふれるものさしは偏ったものばかり。場にそぐわない言葉はまるで処刑台にでも乗せられるかのように吊るしあげられて、常に周囲を気にしていないとなにもできない風潮。失敗が許されない社会、失敗の価値を認めない社会。なにかあるとすぐ排除する動き。どうも自由がないのです。民主主義を盾に無駄が省かれ、効率の良さばかりを追い求めているうちにこの国から、のんびりの妖精も寛容の神様も軽さの王様も手間隙王子もいなくなってしまいました。この島はいったいどこへ向かうのでしょう。
その点、路地裏の塀を渡り歩くノラ猫たちはほんといいなぁと思う。犬のように小屋を与えられなくても、なんの支障もなく生活している。アスファルトの上で溶けるように寝転んでいる猫たちにほのぼのするだけでなく羨ましくすら感じる。ストレスに苦しみながら人間が一生懸命構築した社会のうえで、のんびり暮らしている猫たち。本人はのんびりだなんて思っていないのだろうけど、ストレスなんてものもない。ストレスという言葉も責任という概念もない。そういった胡散臭い言葉を城壁にして社会という城を構築してきた人間も、少しはあのノラ猫たちを見習うべきなのです。
社会人だとか、責任だとか、洗脳するように重たい言葉が飛び交っているうちに、社会はとても窮屈になってしまいました。和を乱さないようにしているうちに、寛容の潤滑油が空になってしまいました。だからいつもぎすぎすしているのです。日常生活に潤いがないから重たい空気だけがのしかかる。直接言うのを避けて空気として責め立てる。いったい理想の社会とはなんなのか。そもそも社会というものに期待しすぎなのです。完璧な社会を求めすぎ、社会に埋没しすぎ。社会は「世界のすべてではない」のです。だから365日、24時間社会人でいる必要もなく、社会に取り残されたからと言ってそれを悲観視する必要もない。24時間社会との関わりのなかで生きていればストレスに押しつぶされるのも当然。ときにはあの猫たちのように社会から離れてみることも大切なのです。
もちろん、法律違反をしていいわけではないし、社会と切り離してずっと生活することは不可能。そういうことではなく、社会的に優等生であろうとしたり、社会に理想を求めないで、こんなのやってらんねーよと、たまには社会という学校を抜け出して、屋上で昼寝したり、河川敷で石を投げているだけの時間だって必要ということ。「必要」なんて言葉も使いたくないのですが。なにも考えずたまにはノラ猫たちのようにのんびりひなたぼっこをして過ごす日。仕事をさぼる日。そんな自分を許せるかどうか。自分に寛容になれるかどうか。最終的にたどり着くのはそこなのです。結局、自分を許せるかどうかが、寛容な社会の第一歩なのです。
貧しい国と豊かな国、そのものさしは一般的に経済的なものをさしていて、それに対して本当の豊かさとは経済的なものじゃないとか、ちょっと哲学をかじるとそういうことを声高にいう人もいる。でも、お金があるほうが心が貧しくて、お金がないほうが本当の豊かさがある、なんてことが一般常識になってしまったらそれはそれでおかしいし、そのことに気付いたのはお金が活躍した時間があったからで、人々の価値観は流行のように変化していくもの。もし仮に、田舎にこそ本当の豊かさがある、という価値観を万人が抱いていたらきっと、都会の人はお金を払って田舎の生活をするようになる。企業がその価値観に目をつけて動き出す。常に人の多数派の価値観を伺いながら経済は動いていく。失われたものを補いながら、時代の価値観は変化していくのです。
幸福だとか不幸だとか、結局、誰の言葉も正しくない。社会の価値観にあてはまる必要なんて全くない。そんなこととは関係なく自分の価値観で生きればいい。僕たちはもっと自由気ままに生きていくべきだし、生きていける。ノラ猫たちのようにのんびりと。いろんなことを気にしすぎ。周りに気を遣いすぎ。批判を恐れすぎ。立派な人間になろうとしすぎ。立派な人間を求めすぎ。そんな奴がいたっていいと寛容な気持ちを持つべき。貧困とか裕福とか、記号に惑わされすぎ。社会に完璧を求め過ぎ。世界はいつだって自分の理想にはならない。理想の世界になってなにも言わなくなるより、理想の世界にならなくて愚痴ばかり言っているほうがむしろ健全。世界を自分の理想にしようなんてもってのほか。こんな矛盾に満ちた世界でもノラ猫たちはあんなに気持ちよさそうに寝ているではないですか。人間も、ノラ猫になってみたらきっと、肩の力が抜けて、すーっとラクになるはず。地面に寝そべってみれば、また違った世界が見えてくる。
生きていくことが辛いと感じるときもあるかもしれません。社会に取り残されたり、社会を冷たく感じたり。そんなときこそノラ猫になったらいいのです。彼らと目が合うだけで、いろんなことがどうでもよくなってくる。なんだかいろいろ許せてくる。だから人生には、社会という枠組みなんて気にしないで生きていく、ノラ猫の力が必要なのです。もちろん、この話にだってとやかく言う必要もなく、適当に聞き流せばいいだけの話で。