« 2010年03月 | TOP | 2010年05月 »
2010年04月25日
第404回「シリーズ人生に必要な力その34失敗力」
「失う」と「敗れる」、見事に嫌な雰囲気漂う二つの世界のコラボによってうまれた言葉。それは「成功」の対になる言葉。こんな風に言うととてもネガティヴな印象を受けますが、果たしてそんなに悪いことなのでしょうか。
「失敗は成功のもと」
もはや口にするのも恥ずかしいほどポピュラーな諺。失敗したからといってそこで簡単にあきらめるべきではない。昔から人々は多くの失敗や過ちを繰り返し、そのたびにこの言葉を自分に他者に言い聞かせてきたのでしょう。
「僕は一度も失敗はしていない、一万回にわたる発見をしただけだ」
発明家エジソンの言葉。とは言うものの、実際失敗したときは悔しくてしょうがなかったかもしれません。失敗して「やったー、発見したー!」なんて晴れやかな顔はできないでしょう。失敗してくじけそうになっても、なぜ失敗したのか、なにがいけなかったのかを繰り返し追及したことがやがて世紀の大発明につながったのです。「なにが起きたか」ではなく「なにを感じたか」。失敗を失敗に終わらせるか貴重な発見にするかはその後の行動によるのです。
失敗から学ぶこと。失敗しないと気付かないこと。失敗しないと見えない世界。失敗しないと得られない感情。失敗は「失う」どころか多くのものを僕たちに与えてくれます。成功で得るものよりも失敗で得るそれのほうがきっと大きい。諺が言うように、成功するためのステップアップにそれが必要なのは、真実を教えてくれるからでしょう。成功だけでは見えてこないのです。
人間だれしも失敗はつきもの。だから失敗しないように歩むのではなく、失敗したときに多くを感じ吸収すること、やめずに進む力が必要なのです。ここでおわったらそれは失敗で、進んでいけば発見と呼ぶべきものに変わる。勝利から得るもの、敗北から得るもの、もしも後者のほうが貴重なものだとしたら、言葉として対にあるけれど本当は対ではなくむしろ「小さな成功」と呼ぶべきものなのかもしれません。もしくは、僕らが思っている失敗は実は失敗でないのかもしれません。となると本当の失敗とはなんなのか。それは、失敗を恐れてなにもしないこと。失敗したときになにも気付かない感じないこと。ましてや失敗を機にやめるなんてもってのほかで、それほどもったいないものはありません。失敗してもくじけずに続ける、そこからなにかを感じる、これがまさに失敗力なのです。
とはいえ、簡単に身につけられるものではありません。いざその場面に遭遇すると、こんなこと全部忘れてしまうかもしれません。「成功のもと」なんて成功者の結果論、失敗の渦中ではただただ辛かったりする。だからこそこの失敗力が必要になるのです。人は失敗する生き物。失敗のない人生なんてありません。これから訪れるすべての失敗を乗り越えられるように、そのたびに大きく成長するために、失敗を発見に変える力、失敗力が人生には必要なのです。
2010年04月18日
第403回「シリーズ人生に必要な力その33ログアウト力」
インターネットの多大なる功績のひとつは、世界中の人々のつながりを実現したこと。それまで必然的だったそれは、インターネットによって偶然的なものになり、思いもよらぬところで人と人とが結ばれるようになりました。しかし、光に影はつきもの。気付かぬうちに失われているものもあるわけで、そういったことに目を向けてみれば、ネット上でのつながりが増えた反面、現実社会でのそれは希薄になってしまったようです。
最近よく耳にする「つながっている」という言葉。インターネットが人々をつなげるとしたら、昔の人たちはつながっていなかったかと言うともちろんそうではなく、そんなこと気にせず生きていけるほどつながりを実感していたのでしょう。だからいまこんなにも「つながり」を大切にしようということはつまり、それが失われつつあるということ、つながりを実感できなくなってしまったことの裏返しなのです。
いったいどうしてつながりを失ってしまったのか。社会は人々の努力によっていろんな設備が整いました。水道も道路も電気もいまはあたりまえのように存在していますが、本当はどれもすべて人々のつながりの賜物。しかし環境が整い、情報の伝達がスマートになればなるほど、つまり便利になればなるほど自分ひとりで生きていると錯覚し、人々のつながりを感じられなくなってしまう。だから、失っていないのです。本当はつながっているのに、それを感じられないだけ。便利さ快適さ物質的豊かさを追い求めた結果、心が満たされなくなってしまった。だからつながりを確かめたい、常に実感したい、それが現代の人々が追い求めるものなのです。
その役目を果たしているのがネット上のコミュニケーション。ミクシィやツイッターなどは、なにもない土地に道路を作ることと同じくらい意味のあること。現実社会で欠乏した「つながり」をネット上でサポートしてくれるのです。でも注意しなくてはならないのはそれはあくまでネット上であってある意味栄養補助食品と同じサプリメントのようなもの。食事をずっとカロリーメイトなどで済ませるようなもの。本当に必要なのは現実社会でのつながりなのです。
メールもケータイもない時代、マイミクもフォロアーもいなくても人々は充分生きていました。ケータイを手にしたらメールが来なくなるととても寂しくなったように、ネット上でつながればつながるほど、つながっていないときの寂しさが強調される。つながりが失われていったからケータイやネットが浸透していったのか、それらの普及でつながりが希薄になったのか。いずれにしてもIt革命は結果として僕らの心に隙間を作りました。それは余裕やゆとりとは似て非なるもの。隙間。なにをしていても感じる空虚感。だからついついログインしてしまう。その結果、心はどんどん弱くなり、ちょっとしたことで怒ったり命を絶つ人が増える。これは、その対象が変わっただけで、森林を伐採し自然を破壊していたあの頃と同じなのです。
では弱くなってしまった心を強くするにはどうしたらいいのか。それこそまさにログアウトなのです。
ログインの対義語であるログオフやログアウトはインターネットに接続していない状態のこと。ログイン自体はなにも悪くないのだけど結局インとアウトのバランスが大切で、そこに埋没してしまったら身も蓋もないのです。自然との共存と同じように、これからは現実とネットとの共存。このままでは、人間の心がネットに侵略されて、現実社会でのつながりがなくなってしまうのです。
僕たちは直接言葉を交わすことも直接触れ合うことも以前に比べて格段に少なりました。だれかの手よりも、パソコンやケータイのボタンに触れる時間の方が長くなってしまいました。昔の人たちがいまの人々のやりとりを見たら度肝を抜かれることでしょう。手元の小さなボタンに触れて、それがこの世界の誰かに伝えられる。いまでこそボタンやパネルですが、やがて触れなくなる日が訪れるでしょう。もしかしたら指紋もなくなってしまうかもしれません。脳波で文字を打つようになればまさしくそれはテレパシーの世界。こうなるとすべて頭のなかで済ませるようになり、現実とネットの境界線がなくなる。人間は動かずに、ネットの世界だけで生きる。生まれた瞬間ログインされる。いま、そんな社会に向かっている気がします。そうなる前に、かつて自然を守ったように、現実のつながりを守らなければならないのです。
自分たちがこんなスタイルになるなんて誰が想像したでしょう。ネット上では伝えられるのに、目の前にいる人にはうまく伝えられない。電車のホームで倒れている人がいるのに、平気で素通りできてしまう。もしかしたら本当は平気じゃないかもしれない。でも、手を差し伸べたくても助ける空気が流れない。助けている人がどこか特別な人に見えてしまう社会。人類が目指したのはそんな世の中だったのでしょうか。たしかに自分の時間も大切、でももし倒れているのが自分だったら。打った場所よりも見て見ぬフリをされたことのほうが後遺症になるかもしれません。僕たちは自分の損得だけで生きる生物の集まりなのでしょうか。僕たちはそんな生き物では絶対にないはず。本当は人にやさしくしたい。人のためになりたい。愛はたくさんあるのにその愛をうまく使うことができないだけ。愛を感じる機会がないだけ。でもこのままずっとログインしていたら、現実社会で心のない生き物になってしまいます。
インターネットは多くの人々に夢と希望を与えました。それは人々の暮らしに不可欠なもの。ネット上でのつながりにも価値や可能性を感じます。でもそれだけではだめで、手と手をつなぐことが必要なのです。ログインとログアウトの共存。かつて環境破壊が進んだように、いま、心や精神の破壊が進んでいることに気付かなければなりません。このままではなにかを埋め込まれ、生まれたときからログインする時代が訪れてしまいます。そうならないためにも僕たちはしっかりと現実世界で繋がっているべきなのです。いつまでも国同士で争っている場合じゃありません、敵はそんなところにいないのです。だから、人生には、ログアウトする力が必要なのです。
2010年04月11日
第402回「シリーズ番外編人生に必要なことわざ」
その魅力から離れられないのは単なる年齢のせいではなくやはりその的を射た表現とセンスのよさ、そして簡略化された短い言葉に表される普遍的な人間の性質があるから。古臭いという言葉では片付けられない永遠性すら感じられます。よく耳にするものもあればほこりをかぶったままのものもありますが、どれをとっても頷けるものばかり、全く風化していないのです。いくら時代が変化しても大切なことは変わらない、そんなことを数々のことわざが教えてくれているようです。そんな中で今回ピックアップしたのがこのことわざです。
「雨だれ石を穿つ」
おそらく「塵も積もれば山となる」「継続は力なり」「石の上にも3年」「ローマは一日にしてならず」「千里の道も一歩から」と似た類のことわざでしょう。でもそういったポピュラーなことわざの影に隠れてしまっていますが、こんなにも静と動を兼ね備え、映像的で、サウンド的にも心地よいものはほかに類をみません。「あ」ではじまるやさしいイントロに対し、「うがつ」という尖ったアウトロ、サビの「石を」も最高です。「塵も積もれば」にはない力強さ、「継続は」や「石の上にも」のような理屈っぽさもなく、なにより自然の摂理であることがこの他のことわざより群を抜いて説得力を持っているのです。
「微力ながらも続けることによってやがて石に穴を開けるほどの威力になる」
いまさら解説するまでもありませんが、すぐに放棄してしまう、すぐにブレてしまう現代社会においては特に必要なことわざのひとつといえるでしょう。昨日今日でなにかを築くのではなく、時間をかけて積み上げる。これはいつかの「根を張る」話に共通することかもしれません。時間は裏切らない。続ければきっといいことがある。やればやっただけのことが必ず返ってくるのです。
もちろん、だからといって好きな人にひたすらメールをすればやがて振り向いてくれるわけではありません。それは単に自分の思いを押し付けているだけ。そういう誤解がストーカーを生んでしまいます。また、やめないことがすべてでもありません。ときには諦めることも必要です。でも、最近は短すぎるのです。昨日今日で判断してしまう人が多いのです。
昨今の政治を見てもそう、全然石を穿っているよには見えません。あっちにいったりこっちにいったり、誰もが目先の損得、個人や党のメリットデメリットで動いていて、石にはぜんぜん響かない。成果が出る前に場所を変えてしまう。信念という雨だれを落とさなければいつまでたっても石を穿つことはできないのです。
そしてもうひとつ大事なのは、どんなに硬い石でも、雨を受け入れていること。自然は環境をすべて受け入れる。環境に対抗したら身を滅ぼすだけ。たとえ相手が水滴であっても、やがてそれを受け入れていることが自然界の調和、そして永遠の理由なのでしょう。
その濁った響きからか、最近では「穿った見方」というのが「偏った見方」と誤って使用されることも多いようです。ことわざの光景をイメージすればそのような使い方はしないはずで、本来は「的確な見方」として使用されるべき言葉。間違ったほうが多数派になることは珍しくありませんが。
この毎週の言葉の雨がどれだけ石を穿ったのかはわかりません。でもこれがいつしか小さなくぼみを作り、それがやがて大きなものになると信じています。
「雨だれ石を穿つ」
なんでも短期的な視野で物事を捉えてしまう世の中だから、人生にはこのことわざが必要なのです。
ps:7日にリリースした「dancemusic」がiTunesで1位になりました。ありがとうございました。
2010年04月04日
第401回「シリーズ人生に必要な力その32有料放送対応力」
最近ではオンデマンドなるシステムによって、各局有料ではあるものの過去のドラマやバラエティーなどが閲覧できるようになりました。また、ハードディスクレコーダーの普及によって、好きなだけ録画できるようになり、ワールドカップやボクシング、フィギュアなどスポーツの生中継を除けば、決まった時間にテレビの前に来る機会も減りました。かつて、上映時間にわざわざ映画館まで足を運んでいた人々の家にブラウン管のテレビが登場し、よほどのことがないと映画館に訪れなくなってしまったように、自分専用の画面をケータイできるようになってしまったいま、家族団欒の主役だったテレビの引力が薄まっています。スポンサーのあり方も変わり、テレビ局はやがて決まった時間に無料で放送することより、時間にとらわれず有料で番組を発信することを選ぶでしょう。テレビは、観たい人がお金を払って見る時代。ケータイやパソコンがテレビを「有料」に変えるのです。そんな近い将来に備えて有料放送対応力が必要、ということではありません。ホテルなどでボタンを押さないと見られない番組、いわゆるペイチャンネルのことを指します。
ビジネスホテルなどのリモコンを手にすると家庭で使用するタイプと違うことに気付きます。なにかが起きそうな赤いボタン、テレビの上にはセクシーな女性が表紙を飾る冊子。ビジネスマンの寂しい夜を紛らわせてくれる有料チャンネル。せっかく一人で泊まっているのだから思う存分楽しもうと思うものの、ついそのボタンを押す手が止まる。男なら誰しも経験あるでしょう。見たいけれどこのボタンを押せば別途料金が加算されて、チェックアウト時にバレてしまう。「あ、この人見たな」とフロントマンに思われてしまう。しかもそれが出張となれば領収書に記載されてしまい、「お前の欲望のためにどうして会社が払うんだ?」と上司に、「社員の性欲を経費で満たすわけにはいきません」と経理の女性に宣告されるさまをフロア中に晒すことになります。
だからといってこれで諦めるようでは男が廃ります。どうにかサンプル映像だけでことを済ませようとするものの、さすがに数秒間ではエンジンがかからない。どうしてそんなことができるのか、お試し時間は見るたびに短くなり、まるでこちらの狙いを把握しているかのように、やがて真っ青になりまったく反応しなくなる。しばらくたって復活するものの、ときすでに遅し。また最初からやり直すことの繰り返し。そして男は、本能という言葉に背中を押され、赤いボタンの上にそっと乗せた人差し指に力を込めるのです。
「お客様、有料チャンネルのご利用がございましたので、別途1500円頂きます」
最近ではカード式のものも多く、フロントで加算されない場合もあります。はだけた浴衣に千円札を握り締め、わざわざエレベーターを使ってカード券売機を探しにいく姿ほど哀愁を漂わせているときはありません。このときばかりは、エレベーターに申し訳ない気がして思わず階段を探してしまいます。しかし由緒あるホテルほど券売機はなく、会計時に加算されることを覚悟しないといけません。気まずいフロントでのやりとり。これを乗り切ってこそ、人生のエキスパートといえるのです。
「エレベーターを降りたときの表情でわかりますね」
とは、都内有名ホテル勤務の向井さん。ホテルマンは機械でチェックしなくてもフロントに向かってくる顔で有料放送を見たかわかるそうです。なのであまり「昨日有料チャンネル見たんだよな」なんて気にしているとそれが顔や姿勢に出てしまい、近くの女性スタッフにも察知されてしまいます。ここは男たるもの、いくら有料チャンネルにお世話になったとしても、堂々たる姿勢で会計を済ませたいもの。そのために閲覧する上での心得があるのです。
まず、赤いボタンを押して自由を手に入れたからといって、いきなり成人映画を見ない。本能のままに閲覧していては気まずい会計が待っています。そうならないためにはここでしばらく一般映画を見るのです。
有料チャンネルは平均して3チャンネルあり、そのうちひとつが一般の映画(おもに洋画)。あとのふたつが成人映画(和と洋)となります。一般の映画は、そもそも「言い訳シネマ」といわれるもので、成人映画を見たかどうかを曖昧にするためにあえて設けてあるチャンネル、つまりビジネスマンの味方なのです。ちなみにフロントでは有料チャンネルの使用有無は判別できますが、どのチャンネルを見たかはわかりません。この言い訳シネマを見ることによって、あくまでダイハードが見たくてボタンを押したわけで、その延長でたまたま遭遇したにすぎないと、胸を張って別途代金を支払うことができます。そのためにも最低15分は言い訳シネマを見る必要があるでしょう。
もうひとつは、ミニバーを使用すること。ホテルはたいてい小さな冷蔵庫に飲み物がはいっていますが、この利用はたいてい伝票に記入する申告制。この伝票を持参することで、追加代金が有料チャンネルだけじゃなくなって印象が薄まる上、会計時にわざわざ追加代金の詳細を発表しなくなるし、会社用の領収書も、「宿泊代のみにしてください」と涼しい顔で伝えられるのです。思わぬところに味方は存在するのです。
あとはもう、開き直ることでしょう。いくら有料チャンネルを見ても客は客。そうだよ、俺は有料チャンネルの男だよ、と胸を張ることで、むしろ男らしく見えることでしょう。あとは、会社で謝ればいいのです。
最後に、閲覧する上での注意点として、あまり高望みはしないこと。いつまでも自分の得意球を待っていてもなかなか望み通りの球は投げてはくれず、気付けば朝日が薄いカーテンの向こうから差し込んできます。なので、あまり選り好みせずに迷わず突き進むべきでしょう。
テレビは近い将来、有料になるでしょう。それは無料で閲覧できるものが増えた代償かもしれません。そうなる前にまず、特に男性は、ホテルでの有料放送対応力をつけておく必要があるのです。
PS:本日開催するフニオチコンテストは、もう一度テレビの前に家族を集めること、子供からおじいちゃんおばあちゃんまで皆が楽しむことを、その目的のひとつとしています。