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2010年03月28日
第400回「シリーズ人生に必要な力その31聞く力」
海外を訪れると感じることのひとつに、聞きとることの難しさがあります。一見、言葉を用意して自ら文脈を組み立てる「話す」ことのほうが大変のように思えますが、実際ネイティヴの日常会話の発音はなにがなんだかわからないままあっという間に流れてしまい、たとえジェスチャーなどが加担してくれたとしても、実際に英語の文字を目で見るように言葉を掴むことはできず、気付けばサーブ権はこちらに移っている。相手のスピードが速いならまだしも、たとえゆっくり話してくれたとしても、何度きいてもわからないものはわからず、ただ言葉が右から左へと通過し、聞き取ることの難しさを痛感するのです。また、子供の頃にいたっては、音こそ耳にしているもののその内容を理解していないことはよくあって、朝礼の校長先生の話もそのひとつですが、ただでさえよくわからない話に加え暑い日差しに集中力を削がれ、顔こそ朝礼台にむけているものの、なにひとつ頭に入ってはおらず、気付けば鼻血を出して倒れている。言葉をしっかり捉えることは決して容易なことではないのです。
ただ言葉が通過しているだけでは聞いているとは言えず、実際に頭で理解・吸収してはじめて「聞いている」といえますが、今回の聞く力とは、そういったヒヤリングでも校長先生の話を聞く力ではありません。「聞く耳を持つ力」のことです。
「聞く耳を持たない」という慣用句があります。いくら言っても「相手の言うことを聞こうとしない」。耳から声は入ってきているものの、気持ちがまったく聞いていない。それは集中力やヒヤリング力の問題でもありません。まさしく心の問題。心が言葉や声を受け入れていないのです。
大人になると知識や経験が豊富になり、失敗する回数が減ります。学生時代に叱られてばかりいた人も大人になると自然とそういった機会は減るもの。しかしその反面、自分の価値観や判断に自信を持つようになると、人の意見に耳を傾けなくなってしまう。それが自分に反するものだと特にその傾向は顕著になり、自分の間違いを認めようとしないどころか、自分が間違っているだなんて夢にも思わなくなってしまう。
歳を重ねて経験豊かになる分、柔軟性が欠如し、頭の回路が一定になってしまいます。こだわりといえばきこえはいいですが、見方によっては単なる頑固者。周りの意見やアドバイスには目もくれず、ひとりだけで突っ走ってしまう。成功者であればあるほどその危険性は高く、自分の価値観でここまで来られたから、自分の価値観だけを信じてしまう。最初はみんなの声を聞いていたのにいつのまにかワンマンプレイに。こうして人は次第に聞く耳を持たなくなり、視野を狭めてしまう。それが命取りになることも知らずに。
どんなに偉業を成し遂げた人も、どんなに権力を保持した人でも、聞く耳を持たなくなったら終わりです。天下を取った者が転落するのはきまって「聞く耳を持たなくなった」とき。盛者必衰の理をあらわすといいますが、そのとき転落がはじまるのです。時代の寵児になったときこそ、周囲の言葉や声をしっかりと受け止めなければ崩壊も時間の問題。だから、周囲が必要なのです。周囲の声が聞こえる、風通しのよい環境。もしかするとそれは耳の痛い話かもしれません。でもすべてが終わってしまうことに比べたらそんなのきっと痛くも痒くもないはず。周囲の声こそ身を守ってくれるのです。
もちろん、周囲の言葉ばかりで自分の主張がないのは問題外。聞く耳を持ちすぎてなにがなんだかわからなくなっては本も子もありません。ですが、えてして大人になるとどうしても聞く耳を持たなくなってしまうもの。もしかするとそれは、否定されることからしばらく遠ざかっているからかもしれません。何も知らないがゆえに親の言うことを聞かなかった子供たちはやがて大人になり、知識や経験とともに否定されることがなくなり、気付けば矢を跳ね返す岩のように硬くなってしまう。一度定着してしまったフォームはなかなか直すことができないように、大人になると自分のスタイルを変えることはそれを貫くことよりも困難なのです。周囲を受け入れることは自分の間違いを受け入れること。周囲の言葉が聞こえないとやがて時代に取り残されてしまいます。それに、周囲の反対を押し切って突き進めたものが仮に成功したとしても、それは果たして成功といえるのでしょうか。たとえ失敗だったとしても、それが周囲と納得の上で築いたものであれば、それでいいのではないでしょうか。結果云々ではなく大切なのは足並みを揃えること。心地良い環境であり続けることが大事なのです。
ちなみに恋愛においては例外と捉えていいでしょう。人を好きになると聞く耳を持たなくなってしまいますが、恋愛はそれでいいのです。周囲と足並みを揃えてする恋愛ほどつまらないものはありません。周囲が反対するからこそ恋は激しく燃えるもの。聞く力は恋愛においては不要なのです。
それは、人を信じること。酸いも甘いも知り尽くし、簡単には信用しなくなった大人たちが取り戻さなければならない柔軟性。年を重ねるとどうしても頭も心も硬くなってしまうから、周囲の意見や声に耳を傾ける力、そんな力が人生には必要なのです。
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2010年03月21日
第399回「シリーズ人生に必要な力その30妥協力」
妥協という言葉にはどこか諦めのニュアンスが込められているのであまりいい意味で用いられません。たしかに妥協を許さないというと貫徹した力強い印象を与えるし、妥協するというとどこか弱腰な感があります。理想を言えば妥協のない生活を送りたいものですが、なかなかそうもいきません。もし妥協せずに生きようとすれば必ず誰かと衝突し、誰も妥協しない世の中は間違いなく争いにあふれているでしょう。妥協をすることで人は世界との折り合いをつけるのです。そういう意味で「妥協は社会の潤滑油」であり、誰かの妥協が世の中を円滑に動かしているのです。だから、妥協をしないように努めるのではなく、生きていく上では「上手に妥協すること」が求められます。ではどうしたら上手に妥協できるのでしょう。その力はどうやって身につけることができるのでしょう。もっともスタンダードな妥協の訓練として挙げられるのが、「部屋探し」です。
入学や進学、就職や転勤など、春から新しい生活が始まる人も多いかと思います。この時期はいたるところで引越しの車や、不動産屋の前で間取り図を眺めている人を見かけますが、この部屋探しこそ妥協の力を磨く絶好の場なのです。「部屋探しは妥協の巣窟」と言われるだけあって、それは思い通りにいかないもの。必ずどこか諦めなければならない箇所が出てくるのです。家賃も間取りも理想なのに築年数が古かったり、オートロックもガスコンロもあるけど日当たりが悪かったり。どこかが満たされると必ずどこかが欠けてしまう。特にはじめて一人暮らしをする者にとっては夢の世界。しかし実感するのは理想と現実のギャップ。間取り図では完璧でも実際に足を運んでみるとどうもイメージと違っている。きまってどこかがしっくりこない。あと3万円あればと通帳を見つめても、それじゃ家賃のためにバイトするようなもの。そうなるともうあとはアイツにお願いするしかありません。すべてを丸くおさめる「妥協」の登場です。このさえあれば恐いものなんてありません。
それにしても、なぜ部屋探しに妥協はつきものなのでしょう。答えは簡単です。「理想の部屋なんてありゃしないから」です。この世には存在しないのです、あなたにピッタリのお部屋なんて。だから本来であれば不動産屋は「ピッタリのお部屋が見つかる!」なんて言わずに「あなたにピッタリのお部屋なんて…あるわけにー!!」ときっぱりお客さんに伝えるべきなのです。100点の部屋なんてこの世に存在しない。もし仮に自分で建てたとしてもあなたの理想にはならない。理想と現実は絶対に一致しないのです。必ずどこかで折り合いをつけるときがくる、だからこそ妥協力が必要なのです。
実際、コツはあります。それは、妥協できないことはなんなのかを明確にすることです。たとえば、南向きだとかオートロックだとか2階以上だとか、絶対に妥協できないことを認識するのです。すると自ずと「妥協できること」が明らかとなり、決断しやくなる。妥協できないことを明確にすること、それが妥協への近道なのです。
「妥協」それは、世界と折り合いをつけた証。世間との握手。妥協とは、現実を受け入れること、妥協して人は大きくなるのです。結婚にしてもそう。自分の理想の相手なんて見つかるわけありません。語弊はありますが、どこかで妥協しなくてはならないのです。しかし、部屋と同様に、はじめは気になっていたこともいつのまにか好きになったりするもの。妥協こそ愛なのです。かつて、ある国の王様が自分の城を手に入れた際にこんなことを言いました。
「王様、素晴らしい部屋ができましたね」
すると王様は答えました。
「たしかに、この部屋にはすべてが揃っている。が、ひとつ足りないものがある」
「足りないもの?」
「妥協だ」
「妥協?」
「そうだ、この部屋には妥協という人間の美しい感情が存在しない」
そして彼はクロスの色を自分の好みでない色に張り替えさせたと言われています。妥協のない部屋なんてなんの魅力もない、妥協して得たもののなかにこそ人間の美がある、そう言いたかったのかもしれません。
それは決して諦めることではありません。世界と折り合いをつけること。うまく妥協し、それを楽しめるようになってからが本当の人生なのかもしれません。妥協こそ美であり、生きる知恵。人生には、妥協力が必要なのです。
2010年03月14日
第398回「シリーズ人生に必要な力その29根を張る力」
時代によって生活様式が変わるように、人々の用いる言葉もそれによって変化し、ちょっと前まではあんなに口にしていたのにいつのまにか誰も手を付けなくなってしまうことは珍しくありません。数年前の人々は、まさかこんなにも「つぶやく」とは思わなかったでしょうし、「KY」を口にしなくなるとも思わなかったでしょう。言葉はその時代を反映する鏡といえますが、そんな中で最近あまり聞かなくなった言葉があります。それは「根気」です。
「根性」とか「根気」とか、かつてはわりと耳にしていたのに最近めっきり聞かなくなりました。どんな困難にもくじけない強い性質。物事を飽きずに辛抱強く続ける気力。こんなに素晴らしい言葉もいまではすっかり音信不通で行方不明になってしまったようです。かつてのテレビドラマではそういったタイプの主人公が多く見られたのにいまは見られなくなってしまったのは、もしかすると現代の世の中が根気で満たされているからではなく、そういったことが見放されてしまったから。なんでも容易に手に入れることが美徳されている世の中は「根気」や「根性」とは反対の方向に向かっていて、いわばそれらを求めない、それらを必要としない社会になってしまったのです。
たしかに、ただ単に流されて生きているのであればそれでいいかもしれません。時代に乗るだけ、みんなと同じ色の花でいいのであれば根性なんていりません。でも、生きている証を残したいのであれば、自分の花を咲かせたいのなら、話は違ってきます。時代を創る人、自分だけの色の花を咲かせたいのであれば絶対に根気、今回で言う「根を張る力」が必要なのです。
どんなにかわいらしい花も土の中でしっかりと根を張っています。どんなに硬い土であろうと、たとえアスファルトであっても、いつかきれいな花を咲かせるために根を広げています。たしかに人は皆オンリーワンかもしれませんが、じっとしていても花なんて咲きやしません。種を持っているだけであって、根を張って芽を伸ばさなければいつまでたっても花は咲かないのです。もしかしたらその間は、周囲から何もやっていないように思われるでしょう。代わり映えのない日々が続くかもしれません。それでも辛抱強く時間をかけて根を張っていれば必ず実を結ぶ日が訪れるのです。
しっかりと根を張っていれば、一度枯れてしまっても、また花を咲かせることができます。冬の時代が到来しても、やがて春が来たときに芽をのばすこともできます。根を張っていないと、西部劇で風に飛ばされる丸いやつのように、ただ転がっていくだけ。時間をかけて根を張っていれば、地に足を着けて伸びていくし、たとえ誰かが引っこ抜こうとしても、そう簡単には抜けないのです。
それなのに世の中は、根を張らずに花だけを咲かせようとしてしまいます。咲かせるというより、まるで胸につけるコサージュのように、花をくっつけてしまいます。でもこんなものはなにかあったときいとも簡単にぽろっととれてしまう、うわべだけの美しさです。めまぐるしく変わる時代だからこそ、その時に合った花をくっつけるのではなく、時代に関係なく根を張ることが大切です。きっと、辛抱につぐ辛抱の日々でしょう。でも一瞬で花を咲かせる種なんてありません。風雪に耐えてきた者だけがきれいな花を咲かせることができるのです。社会が時間をかけないことに価値を見出しているときこそ、自分だけの花を咲かせたい人は時間をかけて根を張るべきなのです。
もちろん、すべてにおいて時間をかけろというわけでありません。時間を短縮すべき部分はそれでいいでしょう。でも、時間をかけたり手間隙かけるべき部分は必ずしもそうとは限りません。花をつけることはできても、簡単に根を張ることはできないように、どんなに時代が変わっても、時間をかけて手に入れるものを短縮して得ることはできないのです。
根性とか根気とか、なんだかとても汗臭くて耳障りはよくないかもしれません。でも僕たちはそういった力を持っているにも関わらず使わなくなってしまったのです。使い方を忘れてしまったのです。根気というエンジンを使用していないから、いざかけようと思ってもかからないのです。根っこにとっての水分は情熱で、花を咲かせるまでの太陽は人々との出会いでしょうか。根気という言葉には、時間をかけるイメージがあります。現代人が忘れかけている時間をかけて築くこと、「根を張る」こと。それは絶対に嘘をつきません。なんでも短縮されてしまう時代だからこそ、人生には「根を張る力」が必要なのです。
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2010年03月07日
第397回「シリーズ人生に必要な力その28後悔力」
「後悔先に立たず」と言うけれどこれほど嘘な諺はありません、なんて言うと語弊があるでしょうが、これは単なる慰めや気休めにすぎず、後悔ほど先に立つものはないのです。かのクラーク博士の有名な言葉、「少年よ、大志を抱け」の続きに耳を傾ければ55分くらい経過したところで「反省するなら後悔しろ」というくだりがあるそうです。一般的には逆に捉えられがちですが、それくらい「後悔」することの重要性を説いているのです。
たとえば旅先で思わず大量に購入してしまった昆布茶。いざ家で飲んでみるとなんか違う、あの温泉街で口にした感動がまったくない、それで大して使用せずに戸棚の奥に眠ってしまう、なんてこともあるでしょう。どこに飾るのか木刀やペナント、旅先にかぎらず「なんでこんなもの買ったんだろう」とあとから自分の衝動買いに嫌気がさし、「あぁ、馬鹿なことをした」と後悔してしまう。でもそれでいいのです。もしここで「これはきっと旅先というエッセンスが加わって美味しく感じられるわけできっと普段の蛍光灯の下で飲んだらなんの感動もない」とか「これはお店の中だからかわいく見えるけど実際普段着たら大したことない」などと冷静に判断してなにも買わないような人生なんて面白くともなんともありません。後先考えずに行動してしまう、それは理性を突き破って全力でぶつかった証。その後悔こそがなによりのお土産であり、人生を豊かにするものなのです。
甘いものばかり食べていた子供の頃に比べて大人になるといろんな味覚が備わるのと同じように、楽しいことだけが人生でないことに次第に気付くもの。苦味があってこその甘み。甘い生活ばかり送っていたら糖尿病になってしまいます。人生楽ありゃ苦もあるさ、幸せは辛いことの上に立つ、と先人たちが言うように、人生に苦味は必要なのです。
でも苦味の中でも「後悔」となると途端に人気がなくなります。なんだか後ろばかり振り向いて女々しさも上乗せされてあまりいい印象を与えません。「引退に悔いはない」と言う方が「いまだに引退しようか迷っています」という選手より清々しさがあります。「反省はしても後悔はするな」ちょっといいこと言おうとする人はそんな風に言うでしょう。でも本当に苦労している人ならわかっています。できるだけ後悔したほうがいいことを。なぜなら気持ちよく終われば終わるほど、あとに続かなくなるから。自分の作った曲に心から100点をつけられるアーティストはいません。あーすればよかったという気持ちが次に繋がり名曲は生まれ続けるのです。後悔のしかたには個人差があり、見苦しい場合もあるでしょう。はらわたが煮えくり返って眠れないくらい悔しいときもあるはずです。人に伝えるかどうかは別として、そんな後悔している時間こそが次に使用するエネルギーの充電期間なのです。
「反省するなら後悔しろ」
これは同時に「反省は頭、後悔は心」ということかもしれません。むしろ反省なんていりません。冷静に分析なんてする必要ないのです。そんなのは誰かに勝手にやらせておけばいいのです。ひたすら後悔して悔しい思いに枕を濡らす、これがすべての原動力。一番だめなのは、後悔をおそれてなにもしないこと。自分をだせずに終わること。そのとき全力でぶつかって、結果だめだったら思う存分後悔すればいいのです。別に死ぬわけじゃないのだから。そこで学習したとか失敗は成功のもとなんていう気休めの言葉もいりません。ひたすら後悔すればいてもたってもいられなくなって気付けば前に進んでいく。後悔はやがて未来に繋がるのです。
だから、後悔だけで終わったらそれは後悔力とはいえません。次に活かせてはじめて力。次につながるくらいまで後悔しないとだめなのです。そしていつしか後悔が味わい深いものであることに気付く頃、きっとあなたはとてもいい顔になっているでしょう。深みのある顔になっているでしょう。後悔をおそれず全力でぶつかる。悔いなしといった人より、悔いありといった人のほうがその後は輝いている。後悔を生きるエネルギーに変える力、そんな後悔力が人生には必要なのです。
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