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2010年02月28日

第396回「シリーズ人生に必要な力その27感謝力」

新しく生まれるものや失われるものに気をとられて僕たちは
あたりまえに存在するものに感謝することを忘れてしまう。
本当はあたりまえなものなんてないのに。
 「祝日」というくらいだからしょうがないのかもしれないけれど、日本には祝う日はあっても感謝する日はあまりありません。思いつくところで勤労感謝の日くらい。誕生日にしても成人式にしても、基本的には祝う日、祝ってもらう日という意味合いが強く、個人レベルでそうしている人はいるかもしれないけれど、「感謝する日」という意識は低いように思えます。たしかに祝うことも大切ですが、そこに目を奪われて、感謝することがおきざりにされているようです。こういった節目にこそ、いつも支えてもらっていることや、生きてこられたことに対して「感謝」するべきなのでしょう。
 誕生日になると母親にプレゼントする人がいます。一般的には周囲からプレゼントしてもらうものですが、今日まで育ててくれたことへの感謝の気持ちがそのような行為につながるのでしょう。同じ「ありがとう」でも、お祝いに対するそれではなく、そばにいてくれて「ありがとう」という気持ち。誕生日こそいつも支えてくれている人たちにプレゼントする、そんな風習がこの国でもスタンダードになれば、とてもあたたかな空気に包まれる気がします。
 日常生活においては「ありがとう」よりもよく耳にする言葉があります。「すみません」という言葉。この言葉が「ありがとう」の代用になることがしばしばあります。謝罪というほど大げさなものではなく、相手を思いやる気持ち。たしかに使い勝手はいいですが、これは感謝ではありません。もしかすると僕たちは、お祝いすることやへりくだることには慣れているけれど、感謝することはあまり上手ではないのかもしれません。感謝を伝える習慣がないのです。それはそれで悪いことではないのですが、もう少し感謝を日常に取り入れるためにもまずは節目で「ありがとう」を伝えるべきなのでしょう。
 そもそも感謝とはなんなのでしょう。「ありがとう」ってなんなのでしょう。「ありがたいことだと思う」それは、「有り難し」ということ。最近でいう「ありえない!」ということでしょうか、もちろんいい意味のほうですが。もっとシンプルにいえば奇跡的なこと、「あたりまえではない」ということ。蛇口をひねれば出る水も、スイッチを回せばあがる炎も、冷静に考えればどれもあたりまえではありません。あたりまえのように存在しているだけで、その裏側には多大なる努力と情熱があり、これまでの積み重ねによって身近に存在しているだけなのです。そういう観点で世界を見れば、あたりまえなものなんてありません。すべてが「有り難い」ものなのです。
 でも人は慣れる生き物。習慣になるとそれがあたりまえだと勘違いして感謝することを忘れてしまう。感謝を持続させることができないのです。食生活も衣服も、「存在することがあたりまえな世界」にいるから感謝することを忘れてしまう。どんなに最初は感謝しても、存在が身近になるとその気持ちを忘れ、不満すらこぼすようになる。それらが「有り難い」ところにいないと感謝できず、失ったときにようやくその「有り難み」に気づくのです。   
 とはいえ慣れも必要です。でなきゃいつまでたっても辛い悲しみを背負って生きていくことになります。存在することに慣れ、感謝するどころか不平不満をいうようになり、幻想を追い求めてきたからこそ人類はここまでやってこれたのでしょう。欲望を否定することはできないからこそ、感謝することをひとつの価値観として大きく取り上げる必要があるのです。
 有り難くないことなんてない、すべてに「ありがとう」という気持ち。もちろん、数が多ければいいというものではありません。顔をあわせるなり「いつもありがとう」と言っていたら気持ち悪がられてしまいます。でも、伝えるのは時々としても、感謝の気持ちは24時間でありたいもの。「ありがとう」をいつも心にしまっておくだけで、世界は違って見えるはずです。すべてが愛おしくなってくるはずです。「先生さようなら、みなさんさようなら」を「先生ありがとう、みなさんありがとう」に変えるだけでも、「お疲れ様でした」を「ありがとうございました」にするだけでも。発しているだけで言葉に気持ちがついてくるでしょう。 
 すべてに感謝することは容易なことではありません。でも感謝の気持ちを忘れずにいれば、争いごとなんて起きないはず。冷静に考えれば、生きていること自体が奇跡、「有り難い」ことなのだから。46億年という時間のなかで一瞬とも言える同じ時代を生きている人たちが憎しみあうことがいかにばかげていることか。人生には、感謝する力が必要なのです。

20:06 | コメント (8)

2010年02月21日

第395回「シリーズ人生に必要な力その26褒め力」

 かつての受験戦争なる言葉をよく耳にしていた時代ほどではないにせよ、相変わらずその過熱ぶりは衰えず、少子化のおかげで門の幅が多少広くなったにもかかわらず、受験生に対するプレッシャーや受験に対する考え方は以前と変わらないようです。受験自体は決して悪いことではなく、力を試す場、本気を出す練習としては有効ですが、まるでそれが人生すべてを決めてしまうような雰囲気には少なからず疑問を感じます。ここからが合格でここからが不合格、社会はそんな単純な境界線はないのに、そういったシステムを頭に植えつけてしまうことは非常に危険なのです。受験だけでなく、世の中にはいろいろな局面で試験が行われますが、同じ試すのなら良いところを発見するためのそれがあってもいいのに、普段の学習がどれくらい身に付いているかを知ろうとするあまり、どれも欠点を探す試験ばかり。どんなに素晴らしい教科書や参考書、教師やカリキュラムをもってしても、そういった教育全体の考え方が最も良くない教育であることにどうして気付かないのでしょう。たとえ美味しい料理を作ることができてもお店が不衛生であったら意味がないように、人にやさしくない教育システムはそれ自体が悪影響を及ぼすのです。
 教育というとどうしてもその「教える」という言葉に気をとられて知識を与えることばかりに重点を置いてしまいます。たしかに知識も大切ですが、それを伝えればいいというほど教育は薄っぺらいものではありません。そもそも知識は使わなければ単なる情報にすぎず、活用して初めて知識と呼べるもの。ただ与えるだけでなく、それを活用する場も必要になってきます。もうひとつ大切なこと、それは「見つけること」です。
 人によって向き不向きがあり、得意分野がそれぞれ違います。なのに、ひとつのものさしをみんなにあてていたら一部の人しか心地よくありません。人の数だけものさしが必要であって、一人一人が輝くにはどの角度から光をあてたらいいのかを、教える側は考えなければなりません。そもそも精神的に未成熟な状態で否定ばかりされていたら逃げたくなるのは当たり前。なんでも頭ごなしに否定するのではなく、「キミのここは素晴らしい、でもここは直したほうがいい」と、弱点の前に良い場所を見つけてあげることが必要なのです。教育は、与えることと見つけること、このふたつが共存してはじめて成り立つのです。
 若い頃どうしても外見だけで人を判断してしまうのはものさしをたくさん持っていないから。しかし、経験を積んで大人になっていろいろな価値観を身につけると、人を多角的に見ることができるようになります。人を見る目がかわり、褒める場所を見つけられる。教師たちに求められるのはそういうことであって、たくさんの価値観が必要なのです。そうすれば違いを認めることもできるでしょう。人と違うことは責めるものではなくむしろ褒めてあげるべきもの。それが社会のルールを逸脱していないかはまた別の話で。ゆとりが必要なのは時間ではなく、教える側の器なのです。
 もちろん学校だけの話ではありません。部下にしてもスタッフにしても、やり方を教えるだけではだめで、いい部分を見つけてあげることも上司の役割。褒められて伸びるタイプとかそうでないタイプとか言いますが、褒められて嫌な気分になる人はいないでしょう。ただ注意や否定ばかりしていたら、なにを言っても心に響きません。褒められて心が開いてはじめて言葉が届くのです。
 褒めることと甘やかすことは違います。もちろん、ゴマをすることでもありません。やさしい教育、それは存在を認めてあげること、それぞれの違いを認めてあげること。みんな同じことだけが美ではないのです。褒めること、それはやさしさであり、強さの証。違いを認め合える人たちがたくさんいれば世界はもっと変わるでしょう。いろんな角度で世の中と向き合い、良い部分を見つける、そんな褒める力が人生には必要なのです。

10:31 | コメント (9)

2010年02月14日

第394回「シリーズ人生に必要な力その25断定力」

 最近よく耳にする言葉でどうもひっかかるもの。自分でも無意識に使ってしまいその都度反省してしまう「個人的には」という言葉。いつ頃からか人はこの言葉を頻繁に用いるようになりました。
「個人的にはそう思います」
 あまり耳障りがよくないのは、個人が発しているのだから個人的なのは当たり前なのに「個人」であることを強調しているから。なぜ言わなくていいものをわざわざ言うのでしょう。どうして「個人」の意見であることを主張するようになったのでしょう。おそらくこの言葉の裏には、自分は思っているけれどあくまで一意見なのであまり追及しないでください、という気持ち。「個」であるけれど「主観」ではなく「客観」のひとつ、アンケートの一意見、一回答にすぎないというような気持ちが隠されています。意識的に使用しているつもりはなくても、潜在的に、どこかで責任の所在を曖昧にしたい心理が働いているのです。ではなぜ責任の所在を曖昧にするのでしょう。
 社会でのストレスが多すぎるためか、人々は排除できるわずらわしいものをどんどん削ぎ落としてきました。人との関わりあいも楽なほう楽なほうへと移り変わり、顔を合わせなくても社会と繋がっている気分を味わえるようになりました。しかし、関係性が希薄になった分、人に直接言葉を投げ掛けたり、個人として主張する場や人から否定される機会が少なくなってしまい、自分の肉体から言葉を放つことに抵抗を感じるようになってしまったのです。極力丸みを帯びた言葉にしたいという相手を思いやる気持ちもあるかもしれません。でもそれ以上に、否定されることや周囲との相違、真偽の追及を恐れ、言葉の責任から逃れようとしてしまうのです。責任を負いたくない、追及されたくない、それは自信のなさからくるものかもしれません。無意識に否定されることを避けた結果、「個人的には」を使用してしまうのです。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
「はい、個人的にはテキサスバーガーと・・・」
「こちらでお召しあがりですか?」
「いいえ、個人的には持ち帰ります」
 かの大統領は「yes,we can」と言い切ったから皆の心に響いたわけで、あれが「perhaps, we can」だったらあの大観衆の拍手は生まれなかったし、歴史に名を刻むこともなかったことでしょう。当然僕たちは大統領ではないのであそこまで言い切る必要はありませんが、社会ではときにはっきりと断定することが求められます。いつも曖昧な人よりも、常に断言できる人は信頼できます。それに、自分が感じたことを「一個人」としての意見ではなく「自分の意見」として述べるほうが、たとえ周囲と違っていても、生き方がかっこいいのです。誰がなんと言おうと俺は思うんだ、と。
「あくまで個人の感想です」
「効果には個人差があります」
「スタッフがおいしくいただきました」
 誰に向けてのメッセージなのか、とってつけたような断り書きからは責任を取りたくないという匂いしか感じられません。本当にスタッフが食べているのならあんなテロップを出す必要はないし、本当に商品に自信があるなら個人差を強調する必要もありません。政治家にしてもそうです。まるでパス回しをするような責任のなすりつけあい。世間的にイメージの悪い者が辞職して事態を収拾させる。果たしてそれは責任なのでしょうか。あとで追及されると困るからどこか煮え切らない表現をして、「信じたい」「言っていない」「覚えていない」などの感情論に帰結する。きっぱりと断定して発言する人がいないから信用できないのです。
 だからもう「個人的には」は使いません。それは誰かと衝突しろということではありません。自信を持って自分の意見を主張しようということ。この国はそんな断定できる人を求めています。否定を恐れずに断定する力、それが人生には必要なのです。

10:47 | コメント (8)

2010年02月07日

第393回「シリーズ人生に必要な力その24こっそり帰る力」

 上司の誘いや取引先の接待、社会にでるとやたらと増える付き合いの数。でもこれも大事な仕事のひとつであって、たとえ気が進まなくても断るわけにはいきません。より取引を長くするためには人と人との繋がりは重要ですし、いくら有能な人物でも人付き合いが悪いと孤立してしまってなかなか才能を開花させることはできません。だから社会がどんなにネットに包まれようとも、直接顔を合わせる「付き合い」はなくならないのです。 
 しかし、いくら人付き合いが大切とはいえ、すべてに付き合っていたら体がもちません。合コンや飲み会、忘新年会や結婚式の2次会、世の中にはたくさんの付き合いの場があり、帰りたくても帰れない状況は頻繁に訪れます。自分が主役ならまだしも頭を下げるような場所ばかりに足を運んでいると心身ともに疲弊してしまうだけでなく当然金銭的にも厳しくなるでしょう。かといっていざ帰ろうとすれば「あれ、帰るの?」と引き止められ「ちょっと付き合い悪いよー!」とののしられ、結局朝までいることに。人はこの「付き合い悪い」という言葉に弱く、この音を浴びる度に罪悪感でいっぱいになり、個人の都合と社会での立場のジレンマに苦しみながらも、社会を選ぶのです。人付き合いもほどほどにしなければ人付き合いだけで人生が終わってしまいます。そこで必要になってくるのが今回の「こっそり帰る力」。通称ドロン力と呼ばれるこの力を持っていれば、いかなる集まりでも簡単に抜けられるようになるのです。
「そうですね、僕もかつては帰れなくて胃潰瘍になったこともありましたよ」
と笑顔で話すのは都内会社員の塚本浩二さん(仮名・36歳)。
「でも、この力をつけてからというもの、とても充実した人生を送っています」
そんな彼に「こっそり帰るコツ」を教えてもらいました。
「まずは絶対に帰りたい雰囲気を作らないことですね」
 帰ろうと思っているとどうしてもその気持ちが表情にでてしまうもの。そんな曇りがちな笑顔が何よりも目立ってしまい、周囲に気を遣わせてしまう。帰りたそうな雰囲気だけが印象に残り、参加しているにも関わらず「付き合い悪い」レッテルを貼られ、やがて誘われなくなってしまうのです。帰りたい素振りを微塵も見せず、ありえないくらい元気に振る舞うこと。誰よりも楽しそうにしていることがこっそり帰ることの第一歩なのです。
「極力、派手な服装のほうがいいですね」
 寝る子は沈黙で目を覚ますと言うように、穏やかな色遣いだからといって帰りやすいわけではありません。派手目の服のほうが存在感があって周囲を安心させるのに対し、目立たないように控えめな服装をしていると逆に「どこにいるんだろう?」と不安にさせるので、極力派手な服装を選びましょう。「不在感」は「存在感」よりも目立つのです。
「できたら手ぶらがいいでしょうね」
 さすがに荷物が多いと「帰る感」が出てしまいます。なので小さなカバンかウエストポーチ、できたら手ぶらのほうが、トイレに行くかと思わせることもできるので成功しやすいでしょう。また人によっては、置き去りにしてもいい「ダミーカバン」持参の人もいます。これがあると、「あれ?あいつどした?荷物あるしなぁ」という風に誰も帰ったとは思わないのです。ほかに「ダミーメガネ」というのもあります。
「あと、節目には出ないほうがいいですね」
 1次会と2次会の間にこっそり帰るケースが多いのですが、実はこれが一番目立つ帰り方。というのも、2次会の最初は新しい場所に移って誰がいるとかいないとか、いわゆる点呼的な時間になります。ここでいないと「え?あいつ帰ったの?」と不参加感が浮き彫りになるため、できたら2次会の頭は参加しておいて周囲のアルコール度が高まってきたらそっとタバコでも吸いにいくように外に出ましょう。
「明日早いんでは禁句!」
 適切な理由のようですがこれが一番駄目なパターン。これを切り出したら「え?何時?6時?オレ5時だけど?」ともうどうにも切り返せない状態に陥ります。こんなことを発するくらいなら無言で立ち去るような不可解さを残したほうが全然いいのです。
「出たらまずケータイの電源オフ!」
 晴れて脱出したものの、同僚からの度重なる着信やメールに思わずタクシーをUターンさせてしまう人もいます。体こそ家に向かっているものの心が着いてこない。そんなことで頭を悩ませるくらいだったらむしろ最後まで残ったほうがいいのです。なので精神衛生上、必ずケータイの電源は切りましょう。
「付き合いだけがすべてじゃない!」
 たしかに付き合いも大切ですし、それだけで出世する人もいますが、人には向き不向きがあります。それがストレスになるくらいなら付き合いを抑え、その分全力で仕事に向かえばいいのです。きっと周囲も理解してくれるでしょう。
「こっそり帰ってばかりなのに、なぜだか周囲からは付き合いがいいというイメージを持たれているんですよ。参加しているときは目一杯楽しんでるからですかね」
続けて彼は
「いまでは立ち去ったあとのパーティーの雰囲気を想像しながらスパイ感覚で楽しんでいます。最初は大勢の集まりで練習すればやがて少人数でも可能になりますよ。もしかしたら自分の結婚式でもこっそり帰ってしまうかもしれませんね」
そう言って、幸せいっぱいの表情を浮かばせました。社会での立場と個人の都合、うまくバランスを保つには、この「こっそり帰る力」が必要なのです。

14:12 | コメント (5)