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2010年01月31日

第392回「シリーズ人生に必要な力その23沈着力」

 何度洗濯しても落ちない汚れや何度クリーニングに出しても消えないシミ、衣類やカーペットなどに付着した頑固な汚れはいくらこすってもなかなか落ちないものですが、そういった色素のしぶとさを身に付けようということではありません。たしかに粘り強さも必要ですが、ここでいう沈着とはいわゆる冷静沈着。物事に動じず落ち着くさま。車で狭い道にはまったり、このメールの相手って誰?と奥さんに追及されたり、外国人に道を訊かれたり。日常生活で突然窮地に追い込まれることは多々ありますが、そんなときに慌てふためかず冷静に対応する力。これがあるかどうかで傷口を治すことも広げることもできます。人によってその初期設定こそ異なるものの、基本的に突然のアクシデントに人は冷静さを失うもの。だからといってその都度動じていては周囲から冷めた視線を向けられる恐れもあります。咄嗟の事態にうまく対応するために普段からこの力を養っておく必要があるでしょう。ではどうやって冷静沈着な力を養うことができるのか。実はこの力を身につけるための場所があるのです。
「パンはなんになさいますか?」
「調味料はどうなさいますか?」
「嫌いなお野菜はありますか?」
 勘のいい方であればこのフレーズだけでピンとくるかもしれません。そうです、黄色と緑のロゴでおなじみのサブウェイ。ファストフードとして知られていますが実はこれこそが沈着力を養う場所なのです。
 サンドウィッチを注文するつもりが突然の質問責めに対応できず思わぬ汗をかいてしまうことは誰しもが経験する苦い思い出。うまく対応できずにあたふたしてしまい気付けば流れに乗っただけで自分の意見を満足に伝えることもできず会計に辿り着いてしまう。次こそはと思うものの、実際訪れる頃にはもうそのシステムを忘れていてまた悔しい思い。苦手なオリーブがたくさん顔をだしているのを見ては「あぁもっと冷静さがあれば」と肩を落として店を出る者が後を絶ちません。自分のイメージとは違うサンドウィッチを食べる屈辱。それが嫌で家でイメトレをしたりマクドナルドなどで肩ならししてから本戦に望むというケースも少なくないようです。こんなにもサブウェイが人の心を動かすのは、これが一種のスポーツだからです。
 現在の種目は、サンドウィッチをメニューから決める「サドウィチー」、パンを選ぶ「パネラビー」、トッピングでおいしさアップを狙う「トッピン」、野菜の好き嫌いを主張する「ドキベジ」、ドレッシングを取捨選択する「ドレセレ」、セットをあてはめる「セトメニー」の6つ。かつては20の項目があったとききますが、得点方法やカウンター越しに戦うことは昔から変わりません。
 「いらっしゃいませ!」が試合開始の合図。「えっと…」とちょっとでも間ができてしまうとペナルティー。最終的に自分の納得のいく注文をできれば勝ちであり、自分の気持ちを出し切れなければ負け。つまり審判は自身の心であり、自分で勝敗を決める。見事な打ち合いができればそれだけ手にしたサンドウィッチの輝きも大きいもの。高校球児が砂を持ち帰るように、悔しくて千切りのキャベツを持ち帰る人もいます。ときどきキャベツが少ないのはそのせいでしょう。余談ですが、かつてオリンピック競技のひとつとして成立しかけたこともありました。ただサブウェイが全世界に普及していなかったこともあり、惜しくも競技としては認定されなかったのです。ただ、その際に作成された公式のユニフォームは世界の舞台で日の目を見ることはなかったものの、現在のスタッフの制服として用いられているのです。もしもサブウェイがオリンピック競技として認定されていたら、日本のメダルの数も増えていたかもしれません。
 ある程度慣れてきたらダブルスにも挑戦してみましょう。これは事前申請が必要な場合もあるのですが、店員さん二人に対して二人で注文します。すると、ひとりのときにはない興奮があなたを襲うことでしょう。また、海外でのサブウェイは言葉が通じにくいということもあり、かなりの冷静さが求められます。最近では注文留学なるものもあるそうですが国内にしても海外にしても、この経験が、人生におけるいかなるハプニングにも冷静沈着に対応できる力になることは間違いありません。
 「はさむべきは冷静さ」という言葉があるように、本当のサンドウィッチを手に入れたときに人は冷静になるといわれます。この力があれば、ホテルのバイキングやドリンクバーなどではしゃいだりしません。サブウェイに寄ってから国会の答弁に臨んだとある議員は四方八方からの野次にうまく対応できたそうです。窮鼠猫を噛むといいますが、そのあとどうなったのかはわかりません。もしも冷静さを身につけていたなら噛むのではなく猫を説得していたかもしれません。いつの時代も冷静に判断できる鼠が勝つのです。サブウェイを制するものは人生を制する。沈着力が人生には必要なのです。

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2010年01月24日

第391回「失って得るものもある、満たされて失うものもある」

 不況・不景気・閉店・倒産、こんな言葉を頻繁に耳にするようになってから、世の中はなんだか元気をなくしてしまったようです。人は簡単にお金を使わなくなり、物が簡単に売れなくなる。経済のものさしで考えればあまり良くない状況かもしれませんが、果たしてこれは悪いことなのでしょうか。たしかに幼少の頃から知っているお店がなくなることは寂しいこと。でも世界はひとつのものさしだけで計れるほど単純なものではなく、一見マイナスな現象もほかのものさしで計ったらプラスになっていることもあります。いまだから得られるもの、いましか得られないものがあるのです。
 地球温暖化と向き合ってはじめて人々はその傲慢な生き方に気付いたように、不況だからこそ気付くことがあるでしょう。もはやブームにまで発展したエコ活動も、それが温暖化防止にどれくらいの効果をあげたのかはわからないけれど、これを機に人々は多くのものを得ました。便利さや効率の良さ、大量生産大量消費、手間を省くことや物質的な豊かさばかりに気をとられているうちに失ってしまった「人とのつながりや自然との関わり」。満たされているうちに失っていたことを温暖化は気付かせてくれました。病気にならないと健康の大切さを実感できないのと同じように、満たされていると失っていることに気付かないもの。人はどこか危機的状況に陥らないと自分にとって大切なものが見えてこないのです。
 盛者必衰と言われるように、どんなに順調に行っていても、時代の変化とともにうまくいかなくなることは世の常。時代は変わっても、その真実は変わりません。はじまりもあれば終わりもあるし、満たされるときもあれば失うときもある、誰のせいでもないのです。肝心なのは、そのときなにを感じるか、なにに気付けるか。どうしたら人の心は動くのか。なにに幸せを感じ、なにに心が潤うのか。それらはどの時代においても大切なこと。豊かさのせいで鈍くなってしまった心の感度や様々なものさしは、きっとなにかを失ったときにこそ取り戻せるのです。ひとつのものさしだけでなく、いろんな価値観で世の中を捉えること、それが「前向きに生きる」ということなのでしょう。世界を変えるスイッチは自分の中にあるのです。
 そういった心のゆとりが経済にも反映されるのに、経済の不安定さを経済的な政策、同じものさしだけで乗り越えようとするからいつまでたっても変わらないわけで、別のものさしを用いて取り組めばやがて経済に反映されるのです。たしかにあの頃は経済的に豊かだったかもしれません。でももしかしたら、お立ち台の上で派手な扇子が舞っていた時代よりも、いまのほうが人々の心は豊かになっているかもしれません。
 心の豊かさは誰でも平等に手に入れることができます。いまは、失われた心の感度を取り戻す時期。人々が手を取り合って苦難を乗り越えるとき。企業同士がコラボレーションをするのもそのひとつかもしれません。辛いときに支えてくれる人こそ本当の親友でしょう。ヒットソングを生めないときに支えてくれた人たちこそ、本当のファンでしょう。失ったとき、大切なものに気付くのです。目の見えないピアニストには、彼にしか奏でられない音があります。逆境で得たものは、時代に負けない力なのです。
「失って得るものもある、満たされて失うものもある」
この言葉が人生には必要なのです。

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2010年01月17日

第390回「シリーズ人生に必要な力その22寄り道力」

 学校帰りに友達と小銭を握りしめて立ち寄った駄菓子屋さんやなんとなく歩いた河川敷。それは家に帰りたくないという気持ちの表れだったのかもしれないけれど、ほんのり罪悪感を抱きながらの寄り道は小学生からしてみればちょっとした冒険。通学路から逸れた道に、いつもとは違う別の世界がありました。やがて駄菓子屋から飲み屋へと場所を移し、罪悪感こそないものの、大人になっても「寄り道」がなくならないのは、そうすることで現実の嫌なことを忘れ、あるいはそれをスパイスに変えることができるからかもしれません。だから人生には必要なのですが、ここでいう「寄り道」とは会社や学校帰りのことではありません。もちろんそれらも大事ですが、すべての、おもに「情報の寄り道」を指します。
 言葉を調べるとき、電子辞書よりも分厚い辞書のほうがいいと言われます。電子辞書が調べたい単語にすぐたどり着いてしまうのに対し、分厚い辞書はたどり着くまでにほかの単語をいくつも目にします。その積み重ねによって得られる膨大な量の単語はボタン操作で瞬時に切り替わる電子辞書のそれに比べたら相当なもの。またページをめくって自分で探す分、印象に残る度合いも大きいのに対し、電子辞書は、分厚い辞書で生まれる一発で開く喜びもないまま、頭の中を一瞬にして通過していきます。わずらわしいことも感動もありません。デジタル化というのは簡単に言えばこういうことで、寄り道だと思われるものは排除されます。現代社会はやたらと無駄が敬遠されがちですが、それが無駄におわるかどうかはその後の使い方次第。人や時代の価値観次第でそれが意味のある寄り道にもなります。無駄に思えるものから新しい世界が生まれることだってあるのです。
 デジタル化、そしてネット社会は僕たちの暮らしに大きな変化をもたらしました。アルバムを買っていた頃は、いつのまにかほかの曲も好きになったりしたものなのに、好きな曲だけをダウンロードしていたらもしかしたら好きになっていたかもしれない曲に遭遇する機会が減ってしまいました。自分の欲しい情報を入手することが容易になった反面、受信ボックスの中がとても偏ってしまったのです。ネット上のコミュニティーなどもそのひとつですが、クリックで築き上げた世界はよくも悪くもこじんまりしてしまい、視野が狭くなってしまうのです。視野の狭さは考え方の狭さであって、つまり心の狭さ。自分の頭にないものを排除しようとしてしまいます。視野が広いとそれだけ受け入れられる量も多く、たとえ自分のイメージと違うことが起きても腹を立てずにそれを率先して受け入れようとするのに対し、視野が狭いとそれらを排除することばかり考えてしまいます。運転するスピードがはやければ速いほど視界が狭くなるように、無駄を排除し、効率の良さばかりを追求していると、人としての視野が狭くなり自分の世界で生きてしまうのです。デジタルやネットがもたらした人間性の変化は、そういった自己完結世界の乱立であり、他者の世界を受け入れにくい社会なのです。
 だからネットやデジタルがダメだということでは決してありません。目的地にすぐにたどり着いてしまう分、寄り道する機会が減ってしまったということで、なんでも食べ過ぎるとよくないというだけの話です。ネットも現実もアナログもデジタルも、バランスよく食べなければ通風になってしまいます。頭や心の通風。ネットでのつながりは本当のつながりではありません。いわばサプリメントのようなもの。それが栄養の補助であるようにネットはコミュニケーションや情報を補助するものです。わずらわしいことを排除して生きているとやがて具合悪くなってしまいます。もちろん情報だけではなく、実感することも必要です。そのほうが数百倍もの価値があります。昨今の散歩ブームはそんな寄り道を排除した現代社会における人々の潜在的な欲求から生まれたものかもしれません。ただ散歩はどこに向かうかよりもどこで足をとめるかのほうが重要なのですが。
 いかに本来の目的地とは違う場所に訪れることができるか。ひとつの山の頂上を知ることも大切だけどいろんな山を知ることも大切。もしかしたら道草にはものすごく栄養があるかもしれません。その広さは心の広さ。人生の幅が狭くならないように視野を広く持つべきでしょう。心が狭いと人を許すことができません。無駄を排除してばかりいるとどんどん殺伐とした空気が流れます。そうならないためにも、人生には寄り道力が必要なのです。

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2010年01月10日

第389回「風とマシュマロの国〜アイスランド一人旅2009〜」

最終話 風とマシュマロの国
 アークレイリに来て二度目の夜空も旅人の思い通りにはならないまま朝を迎えました。今日はレイキャヴィクに戻る日。最終日は空港に近いホテルに泊まり、ブルーラグーンという温泉で疲れをとることが例年の流れになっています。もともとアークレイリで車を返却してお昼の飛行機でレイキャヴィクに戻り、14時のバスでホテルに向かうことになっていたのですが、時間を早めて朝9時にアークレイリを発つことにしました。というのも僕にはまだ心残りがあったからです。
「セイリャランドスフォスを探しに行こう」
 それは実家のカレンダーで見つけた綺麗な滝。今回の目的のひとつとなっていた美しい滝を見逃したことが心のどこかでずっと引っ掛かっていました。どうしてもあの滝を見たい、虹のかかるあの真っ白な滝を一目見たいという気持ちが僕の予定を変えたのです。
「ちょっとなにこれ」
 風にからかわれるように煽られて決して快適とはいえないアークレイリからレイキャヴィクへの空の旅も40分ほどすると窓からハトルグリムスキルキャ教会が見えてきました。数日前の町並みがすでに懐かしく、故郷に帰ってきたという感覚。ぎゅっと掴んだ肘掛が丸いハンドルにかわり、幻の滝探しへと出発です。
「絶対に見つけてやる!」
 3日前と同じ道。ささいな看板さえも見落とさないように慎重に走り抜ける小さな車を羊たちが眺めています。でものんびりもしていられません。バスの時間まであと4時間、片道2時間以内で見つけなければならないのです。
「この辺に滝はありますか?」
 時折現れるお店の人に尋ねながら車を進めていくうちに、ようやく近くにあるらしい言葉が耳の中へはいってきました。
「あれか…」
遠くに、山から白い筋が降りています。あれが幻の滝セイリャランドスフォスかもしれません。
「ちょっと待って…」
 しかしどこか見覚えがありました。それは3日前に休憩がてら車を停めたときに目にした滝。遠くから見るとあまりに小さいので勝手に違うものと思い込んで近づかなかった滝。でも、聞き込み調査からするとあれ以外考えられません。半信半疑で踏むアクセルに、案の定、小さな白い筋は距離を縮めるともに巨大化し、あっというまに高層ビルを見上げるくらいの高さに成長しました。
「これでよかったの?」
 まさかあのとき見たものが正解だったなんて。幻どころか一度目にしていました。ただ言い訳をするのなら、ガイドブックにはリングロードの右側にしるしがつけられていたのに実際は左側だったこと。まさか逆側に現れるなんて。
「これだったのか…」
 風が大量のしぶきをあたり一面に撒き散らしています。虹こそでていないものの、高さ四十メートルの位置から落下する水流は豪快で、その幅の狭さからほかの滝とは違った繊細さがありました。ずっと眺めているとたしかに下から竜がのぼっているように見え、さんずいに竜という文字に妙に納得します。滝の裏側は、水のカーテン越しの世界をのんびり見られるほど穏やかなものではなく、すぐに通過しないとびしょびしょになってしまうものの、正面からとは別の迫力、滝に飲み込まれたような感覚がありました。
「もう悔いはない…」
 時計を見ると12時前、14時のバスにはどうにか間に合いそうです。教えてくれたお店の人に挨拶まわりをしながらリングロードをさっきと逆向きで走る車を羊たちが眺めていました。
「一人旅ですか」
 バスに居合わせたノルウェーの女性と受験英語を駆使してどうにか会話をしているうちにホテルが見えてきました。ノーザンライトイン、もうこれで3度目の宿泊です。覚えていますかという確認さえ必要もなく鍵を渡されると荷物を置いてさっそくブルーラグーンへ。相変わらず世界中から集まった人々を温める水色の世界は幸せにあふれていていつまでも浸かっていたくなります。
 まだ体がぽかぽかしているうちに、ホテルのレストランで最後の晩餐。刻々と日が暮れ、窓は外の景色から食事をしている旅人の姿を映し始めました。最後の夜のはじまりです。
「今日が最後だ…」
 あれだけ言ったのに、意識しないどころか、オーロラに対する思いは日に日に強くなる一方。とくに最終日とあってはかつて上空に現れた実績があるだけに期待せずにはいられません。
「きっと現れる…」
 そんなことを知っているのか知らないのか、想いが募れば募るほど空は雲に覆われていきます。こんなにも風を応援したことはありません。オーロラは願えば見られるほど容易なものではなく、こうして見られないからこそ昨年見たことの希少性がより高まるのでしょう。冷たい空気が体を覆います。もしかしたらまた電話がくるかもしれない、そう思って目を瞑ってもどうも寝付けません。気になって何度もベッドを飛び出しては外で空を見上げていました。
「ゴーザンダーグ」
 結局部屋の電話は鳴らないままチェックアウトの時間を迎えました。夜明け前の出発。ノーザンライツと書かれた小さな看板が白く光っています。口から漏れる白い息も、荷物を車につめてドアを閉める音が静かな夜空に響き渡る感じも、体が覚えていました。
「もう帰るのか…」
 空港へ向かうワゴンの中。僕以外にも数人の宿泊客が乗っています。暗闇を映す窓が、この数日間で目にしたものをスクリーンのように映し出しました。白い帽子をかぶった山々、水色の氷河、大地に両足をつける虹、焦げ目のついたパン、白いカップを埋めるこげ茶色のコーヒー、水槽のような青空、一直線に落ちていく滝、砂浜に打ち上げられた氷河のかけら。そして風とマシュマロたち。すべてが僕の体の中にはいっているようです。
「きっとまた…」
 それがいつになるのかはわからなくても、必ずまた戻ってくるでしょう。どんなに世界が変わっても、ここにはいつもやさしい風景があるから。ここに来ればいつでも風に揺れるマシュマロたちに会えるから。ほかの乗客たちの声が耳を通過していきます。遠くに空港の光がぼんやりと浮かんでいました。


あとがきにかえて。
 アイスランドの話をするといつも驚かれることがあります。それは僕がひとりで訪れていること。「どうして一人なの?」と目を丸くされます。でも僕にとっては小説を一人で読むようなもの。自分のタイミングでページをめくりたいし、自分の気のままに行動したい。こういうのをわがままというのかもしれませんが、みんなで行く旅行とひとりで行くそれはまったく別の楽しみであって、この国を全身で感じるには後者が適しているのです。だから、家族ができて息子と一緒に訪れる幸せもありますがそれよりも、息子にひとりでこの世界を感じられる大人になって欲しいという思いのほうが強いのです。
 それにしても3度目のアイスランド。フィンランド、ベルギー、フランス、ポルトガル、チェコなど、これまで訪れた場所はどれも素晴らしい国でしたが、こんなに訪れている場所はありません。ほかの国とどこが違うのでしょう。10回訪れたらなにかもらえるわけではありません。僕はなにを求めてこの国を訪れるのでしょうか。単に自然に触れ合うだけではなく、毎年訪れたいなにかがきっとあるのです。これほどまでに僕を魅了するもの、それは「変わらないこと」かもしれません。
 ここには、人を縛り付けるものや欲望に翻弄されることもありません。自然をコントロールしようとせず、自然が尊重され、自然を主体に人々が暮らしています。それは「変えること」や「変わること」の本当の意味を理解しているからでしょう。たしかに変わることもすごいこと。変わらないこともすごいこと。でも、欲望が人類の舵をとっているのであればもしかしたら変わらないことのほうが難しいことなのかもしれません。この国にいると、まるで人類の舵取りを自然に任せているような気さえします。欲望に振り回されず自然に生きる。そんな、ありのままの世界を求めて僕は、この国を訪れているのかもしれません。アイスランドには「変わらない世界」があるのです。

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