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2009年12月27日

第388回「風とマシュマロの国〜アイスランド一人旅2009〜」

第八話 マシュマロは知っている
「最近オーロラは見ましたか?」
 テーブル上のランプがオレンジ色に染める店内が去年と同様にアークレイリの夜を彩っていました。意識してはいけないと思いながらも気さくな店員さんを前にするとついそんな言葉が口からこぼれてしまいます。先週見たという人、最近は見ていないという人、旅人に対する回答はまちまちですが、この街でオーロラを見ることはやはり珍しいことではないようです。見られたら嬉しいけどいつもそれを気にしているわけではないのは、僕らにとっての虹のようなものかもしれません。
「そろそろ出てもいいよ」
 期待に胸を膨らませて夜空を見上げる旅人を星たちが眺めていました。諦めて部屋に戻っても、もしかしたらと窓枠から空を覗き込んでしまいます。結局ベッドと窓の間を何度も往復しているうちに山の向こう側から朝が訪れました。
「今日はどこへ行こうか」
霧のような雨がアークレイリの街を濡らしています。アイスランド4日目、この日は特に行き先を決めていません。というのも今日は特別な日、「マシュマロの日」だからです。
「これじゃきりがない」
 レイキャビクを離れるとなくなるもののひとつが信号で、アクセルを踏めば燃料が切れるか自分で停まろうとしない限り延々と走り続けるといっても過言ではありません。唯一車を停めるもの、それは羊たちの群れでした。信号こそないものの、牧草地帯に群がる羊たちの愛くるしい姿にブレーキを踏まずにいられず、ついつい車を降りてしまうのです。でもそんなことをしているといつまでたっても前に進まず、時間がいくらあっても足りません。そこで開発されたのが呼びかけスタイル。マシュマロたちが現れるとスピードを緩めて窓を開け、その名の通り「おーい」と叫び掛ける。その声に一斉に振り向く羊たちの表情のかわいいこと。「なんだ?」と不思議そうにしているのがたまらないのです。これによって時間を無駄にせずにできるのですが、でも僕の羊に対する愛情はこれだけではおさまりません。もっと近づきたい、もっと触れ合いたい、そういう思いから制定されたのが「マシュマロの日」なのです。
通称マシュマロデーと呼ばれるこの日は完全に羊優先の日。だから目的地にたどり着くことよりも、羊たちと遊ぶことが一番に優先されます。降りたいだけ車を降りていいし、思う存分羊と遊ぶ。何分でも何時間でも。この日があると、ほかの日はどうにか我慢できるのです。
 ただ、ひとえに羊たちと遊ぶといっても容易なことではありません。羊たちは一定の距離までは近づけられるものの、見えないラインを超えるときまって逃げてしまいます。たとえ後ろ向きに寝ていても気配を感じておもむろに立ち上がり、仲間たちと一緒に走ってしまいます。そのうしろ姿がまた愛くるしいのですが。まるでテレパシーを送るかのように、一頭が動くとほかの羊たちも反応し、結果、何百頭もの羊たちが大移動することもあります。マシュマロたちが一斉に動きだす光景は休んでいたから申し訳ない気持ちもあるものの、思わず表情が緩みます。でもどうして逃げてしまうのでしょう。
「まだまだ羊飼いにはなれないな…」
 そんな中で、逃げずにいる羊がいました。数メートル先でじっとこっちを見ています。通常であれば向きを変えて去ってしまうのに動こうとしません。しかし、せっかくのチャンスに僕の足は動きません。咀嚼をやめた羊の表情はどこか近寄りがたく、これ以上距離を縮めることができません。むしろこちらへ向かってきそうな雰囲気すらあります。数秒間目があったとき、僕はあるものを感じずにはいられませんでした。それはまさに神を思わせる表情。真っ白なマシュマロをまとった神のように見えました。もしかしたら羊は神の使いなのかもしれません。だからすべて知っているのです。人間たちが普段どういった生活をしているのかも、なにを食べているのかも。もはや抱きつきたいという気持ちはありません。マシュマロは触れるものではなく、感じるもの。それは風だけが許されるのかもしれません。存在しているだけで幸せであってこちらから求めてはいけない、それはオーロラも同じかもしれません。幸せは手に入れることではなく、いま存在しているものを感じることなのでしょう。
 牧草地帯を真っ二つに割るように伸びる道を走り抜けてたどり着いたのは、フーサヴィークという鯨の街。青い空に国旗が揺れています。アイスランドの北部に位置する小さな漁港でここから船でホエールウォッチングを楽しめるそうです。海の向こうで鯨がジャンプしているかもしれません。
チョルネース半島の海岸線が海と陸地の境い目を紐のように曲がりくねって伸びています。車を走らせるごとに道が切り拓かれていくようなほどカーブが多いときもあればひたすらにまっすぐな道がずっと向こうに伸びていることもあります。半島のふちをなぞっていると「アウスビールギ」という文字が現れました。それは以前から気にはなっていた渓谷。
「火山による地殻変動で川の流れが変わり、巨大な滝は枯れて岩の絶壁だけが残っている…」
ガイドブックの言葉からなんとなくイメージしながら車を降りた僕を待っていたのは想像以上に奇怪な光景でした。
「なんだこれは…」
 グランドキャニオンのような茶色い渓谷がまるで入り口の門のように延びて、その間をは深い森が埋めています。聞こえるのはただ自分の足音だけ。しばらく歩くと茶色い巨大な壁が立ちはだかりました。いまにも語りかけてきそうな絶壁。まるでなにかで切り落としたように垂直に伸びています。かつてはここに滝が流れていたのです。目の前の静かな池が空を映していました。いまにもなにか現れそうで、怖くて逃げ出したくなります。水面と壁に跳ね返る自分の声。撮ってはいけない気がしてシャッターを切ることすらできません。
「すごかった…」
 これを畏怖というのでしょうか。ここにも神がいたようです。自然を愛するということは、単に自然を大切にするだけではなく、人類がその力には到底及ばないということを認識することなのでしょう。夕日に照らされた羊たちの群れがシルエットになって浮かんでいます。そこにいるだけで幸せなんだ。緑にお腹をつけたマシュマロたちの白いほわほわが風に揺れていました。

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2009年12月20日

第387回「風とマシュマロの国〜アイスランド一人旅2009〜」

第七話 アイスランドの理由 
 まるで水槽にはいっているかのように澄んだみず色が地球を覆っていました。この色はあのとき見た氷河の色にどこか似ています。リングロードにときおり現れるパーキングスペースはとくべつ高台に位置していなくても360度見渡せる場所。車を降りた僕は両手を広げて大きく深く息を吸い込みました。
「ミスター・フカワ?」
男の声に振り返ろうとした瞬間、広げていた腕を掴まれ、両足が地面から離れました。
「ちょっと何するんですか!ねぇ!」
目隠しをされた僕の声をかき消すようにエンジン音と砂利をこするタイヤの音が鳴り響きます。
「なんなんですか!どこに連れていくんですか!」
必死に抵抗する僕の口を強力な粘着物が覆うと、ロープが手足に巻きつき、濡れたタオルが鼻の穴を塞ぎました。抵抗する気力を失うとともに意識が遠のいていきます。そしてどれくらい時間がたったでしょう。瞼の隙間からゆっくりと光がこぼれると、青く澄んだビー玉に自分の顔が映っていました。
「ミスター・フカワ?」
やさしい女性の声でした。
「ここは…あなたは…?」
目の前に水色のレースのようなものを羽織った女性がいます。いったいいまなにが起きているのかさっぱりわかりません。
「ここは氷河の中。私はこの国のプリンセスです」
「氷河の中?プリンセス?」
「あなたのことは前々から耳にしていました」
「僕のこと?」
「そうです」
「僕が、なにか悪いことしましたか?」
「いえ、とんでもない」
彼女は、僕がこの国を毎年旅していること、その紀行文を書いていること、そしてなによりこの国を愛していることなどすべて知っていました。
「それでいつかお礼をと思っていたのですが、いつもその前に帰国されていたので…」
「お礼?」
「そうです、今日はこれまでのお礼と感謝をカタチにしようと思ったのです」
「それであんなことを?」
「怖い思いをさせてしまってごめんなさい。これで機嫌を直してもらえないかしら」
すると目の前に手長エビなどの魚介類やこの国で収穫される食料が次から次へと運ばれてきました。
「いや、別にお礼なんて僕は…」
「どうぞ召し上がれ」
戸惑いながら手を伸ばすといままで味わったことのない刺激的な食感が口の中で広がりました。水色のお酒がグラスに注がれると、プリンセスと同じ水色のレースをまとった美女たちが奥から現れ、一人の旅人のために華麗な踊りを披露しました。まるで竜宮城にいるようです。アルコールが旅人の頬を赤く染めました。
「あなたはどうしてこの国を旅しているのですか?」
プリンセスの問いに少し考えて、こう答えました。
「風とマシュマロがあるからです」
「風と?」
「マシュマロです」
プリンセスは目を丸くしています。
「この国には素晴らしいマシュマロと素晴らしい風があります。僕はそれを感じるために毎年ここに来ているのです。それと…」
この国にはほかでは見られない色があること。空のいろ、山のいろ、氷のいろ、どれもこれまで見たものとは違う色。ここでしか見られない色があることを伝えました。旅人の話にさらに機嫌をよくしたプリンセスは最後にデザートを持ってこさせました。
「これは…」
あのときかじりつきたかった氷河で作られたアイスがお皿の上に山盛りに盛られています。見た目通りソーダの味がしましたが、そのせいですっかり体が冷えてしまい、すこし暖房をつけてもらうように頼んでみました。
「それはできません」
「ちょっとだけ、風邪ひいちゃうから、ね、いいでしょ、すぐ消すから」
酔った勢いで押した暖房のスイッチはその場にあたたかい空気を届けました。
「あれ?どしたの?」
すると踊り子たちはいなくなり、みるみるうちに水色の氷河は融け始め、目の前のプリンセスも融けていきました。
「プリンセス!!」
辺りはマシュマロたちの散らばった牧草地帯が広がっていました。
 一年ぶりに訪れたエイジルススタジルの街は以前と変わった様子もなく、スーパーやちょっとした売店、ガソリンスタンドなどすべての色が懐かしく胸がキュンとします。こうしてなんでもない場所に胸を躍らせることができるのも時間のご褒美かもしれません。ちょうどお昼時ということもありたくさんの人たちの言葉が飛び交っているレストランの中にひとりの日本人が混ざっていました。いつのまにかお店での動きもスマートになってきたのか、かつてはその動きが旅人の雰囲気を醸し出し、周囲の関心を寄せてしまったものですが、いまでは地元の人たちに馴染んでいる気がします。ハンバーガーにスープとコーヒー。窓の向こうに牧場でのんびりしている馬の姿が見えます。一年前と変わらない風景。そこにはふるさとに帰ってきたような安心感がありました。
「あと何回訪れることができるかな」
 エイジルススタジルでお腹を満たした僕はデティフォスの滝に向かいました。それは一度訪れたことのあるヨーロッパ最大の滝。高さ44メートル、幅100メートルの瀑布の迫力は遠くで音を聞くだけで近寄りがたいものがあります。もしかすると、滝のどこが楽しいのかと思うかもしれませんが、一度見てもらいたいものです。自然のパワーとおそろしさ。それは、人間が自然を相手にするものではない、ということを思い知らされます。人間を作った自然の力を信じられないくらい間近な距離で感じることができるのです。
「え?」
 しかし、現実はもっと厳しいものでした。進入禁止の看板が立ちはだかっています。これでは間近どころか滝の音さえ聞こえません。
「嘘でしょ…」
おそらく時期のせいでしょう。かつては通行できた道が鉄のパイプで遮断されていました。これに従わないわけにいきません。ヨーロッパ最大の滝を諦めた車は気持ちを切り替えてミーヴァトンへと向かいました。そこは以前何度も訪れた水色の温泉がある場所。もしかすると温泉なんてわざわざアイスランドじゃなくて箱根でいいじゃないかと思うかもしれません。たしかに箱根も好きです、でも違うのです。水色であることもさることながら、誰もいない巨大な露天風呂はまさに地球の楽園。ただお湯が揺れる音だけが聞こえる温泉に浸かって眺める地平線と太陽の攻防は格別の感動があるのです。
「え?」
 しかし、現実は厳しいものでした。やがてあたたかい温泉が待っていることを期待して半裸で駆け込んだ先は見事にぬるい温泉でした。そういえばフロントで何か言っていました。あれはなにか不具合的なことを示唆していたのでしょう。どおりで以前より湯気が少ないわけです。
「まぁいいか…」
 仕方なく大きいほうの露天風呂を諦めて小さいほうに浸かる一人の旅人を太陽が見守っていました。
 空一面に広がる青にインクを垂らしたように赤色がうすく広がっていくとやがて群青色に染まってきました。民家に明かりがともりはじめ、一年ぶりの道が一層愛おしくなります。どこに目を向けても安心させてくれる風景。遠くに見えてきたアークレイリの街の明かりが風に揺れています。冬になるとこの上にオーロラが舞うそうです。やがて車は吸い込まれるように、遠くでみた街の夜景の一部になりました。

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2009年12月13日

第386回「風とマシュマロの国〜アイスランド一人旅2009〜」

第六話 やさしい雨
 ドアをノックする音で目が覚めました。ベッドを降りて、それが夢なのか現実なのかわからないままゆっくりドアを開けると、廊下の光が部屋の中にこぼれてきました。
「おかしいなぁ…」
 人の気配はありません。やはり気のせいだったのかと欠伸混じりに閉めようとしたとき、足元に違和感を覚えました。
「え?」
床の上に一匹のエビがいます。
「こんばんは」
「もしかして、きみが?!」
「そうだよ、僕がノックしたんだよ」
驚きとともに昨晩の料理のことを思い出しました。
「悪かった!ごめんよ、許してくれ!」
「どうしたんだい、急に!」
「だってキミの仲間を食べてしまったことを怒っているんだろう?それともキミが?!」
「違うって!そんなこと怒ってないし、僕はお化けでもない!」
「じゃぁ、なにしにここへ?」
「お知らせに来たんだ」
「お知らせに?」
「そう、ちょっとついてきてよ」
ホテルの廊下を手長エビとひとりの男が歩いていきます。
「ねぇ、いったいどこに連れていくんだい?」
「いいからいいから」
外に出ると、見晴らしのいいウッドデッキの上にやってきました。
「ここ?」
「ほら、あれを見てごらん」
手長エビの指す方向に目を向けました。
「うわぁ…」
 それはまさにオーロラでした。遠くの山々の上に黄色、緑、赤、さまざまな色の光が夜空に落書きするように舞っています。しばらく言葉を失っていました。
「ありがとう、わざわざこれを知らせに…あれ?」
もうそこには手長エビの姿はありません。港の灯りが海面に広がる波紋を照らしていました。
 目が覚めるとまだ外は暗く、夜は明けていない様子。案の定、旅行中は日を追うごとに目覚める時間が早まります。思い出したようにカーテンを開けた僕は窓に頬ずりするように夜空を覗きこみました。しかし、期待に応えるものはなく、見えるのは灰色の分厚い雲と吐息にあわせて伸び縮みする窓ガラスの曇り。アイスランドの夜はあと3回。果たしてオーロラに遭遇することができるのだろうか。ただ、今回の旅はひとつだけ決め事がありました。 
 それは、オーロラを意識しない、ということです。昨年の勝因は、僕がまったくオーロラを期待しなかったから。だから9月上旬の夜空に現れてくれたわけで、過度の期待をしていたらきっと見られなかったのです。とはいえ今回は10月中旬。だめと思いつつも、どうしても心のどこかで期待してしまいます。実際、いま空一面を覆う雲さえも風がどかしてくれそうな気がして、15分に一度のペースで窓の外を見上げていました。
「ゴーザンダーグ」
 結局星たちが顔を出すこともなく、朝食の時間が訪れました。コーヒーの香りと焦げ目のついたトーストの上で広がるバター。相変わらず旅先の朝食は気持ちを穏やかにしてくれます。朝食をおいしいと感じられることは日常生活において容易なことではないですが、毎日なんとなく通り過ぎてしまうからこそ、そこに幸せを感じられる生活を送りたいものです。やがて、窓の外が明るくなってきました。
「タックフィリール」
 雨がウッドデッキをぬらしています。遠くの山々にはいくつもの氷河の舌が降りていました。夜は気付かなかったのですが、ここは氷河が見えるホテルだったようです。海が見えるホテルはよくありますが、氷河のそれは世界的にみてもなかなかないかもしれません。ホテルを出発するとフロントガラスにしとしとと、やさしい雨が降りてきました。黄土色がかった牧草地帯の上を今日もマシュマロたちが戯れています。
「なんだあれは」
 道を塞ぐように真っ白な霧の壁が迫ってきました。まるでこの世の果てに向かうよう。中はかろうじて目先の道が見える程度。突然視界を閉ざされてさすがにスピードを緩めざるを得ません。いったいどこからきたのか、この霧を抜けたら見知らぬ世界へ行ってしまいそうな気さえします。しばらく真っ白な世界に包まれて走り抜けた先には、神秘的な世界が待っていました。
「すごい」
 静かな入り江が白い帽子をかぶった山を反射して、まるで写真のようにとまっています。鏡のように水面に映し出された風景は、どこが境界線なのかもわかりません。雲の切れ間から差しこんだ陽光が水面に反射し、太陽がふたつあるようです。誰かが水面に指を入れたらその波紋がすべてを揺らしてしまいそう。氷河のときもそうでしたが、なにも動いていない映像的静寂がここではよく見られます。やがて灰色の雲たちが太陽に場所を譲るように、山々の向こう側に青空が広がってきました。ほんとに数時間のうちに色々な天気を味わいます。建物がない分、気候の変化を強く感じるのか、晴れているときと曇っているときの印象がこんなにも違うのもこの国の特徴かもしれません。
 車は、海沿いの道を走っていました。CMの舞台にでもなりそうな、険しい断崖絶壁。左側には黒くて荒々しい山の斜面、右側には大海原。車から降りてその間に立つと、人間の小ささと自然が大きさを感じずにはいられません。しばらくして、静かな集落にたどり着きました。ストーズヴァルフィヨルズルという人口300人ほどの村。湾の周りにはかわいらしい木の家が建ち並んでいるものの、誰もいないかのように静けさが漂っています。ここにはペトルおばあちゃんという石を拾い集める女性の家がありました。趣味で集めていたものがどんどん増えたようで、かつて大統領も訪れたことがあるそうです。こうした小さな村をいくつか通過しながら車は、以前訪れた街、エイジルススタジルへと向かいました。

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2009年12月06日

第385回「風とマシュマロの国〜アイスランドひとり旅〜」

第五話 時がくれた色 
 雨もあがり、まるで耳を塞がれたように空気がとまっていました。動いているものはなにもなく、時間をとめられたようにすべてが静止しています。体の中から伝わる呼吸の音以外はなにも聞こえません。目の前に横たわる巨大な自然の造形物。じっとしているのに、それでいていまにも動き出しそうな躍動感があり、耳を澄ませば息遣いが聞こえてきそうです。ヴァトナヨークトル、それはテレビ画面を通して見た印象とはまるで違うものでした。厚みや色、すべてがイメージ通りではありません。透明が重なり合って、こんなにもきれいな水色を放つとは。何億年とかけてできた色。時間がつくりあげた色。それは昨日今日でできた水色ではないのです。そんな感動に紛れてもうひとつの感情が芽生えてきました。
「おいしそう…」
 悠久の時を超えて存在する巨大な氷を目の前にした日本人の感想。でも、仕方ありません。間近で見る氷河は水色というか青白いというかまるでクリームソーダのシャーベット、いわば巨大なガリガリ君のソーダ味なのです。海外の人たちが見てどう思うかはわかりませんが、日本人なら確実にそう思うでしょう。ただ大きさはハンパありません。これならどれだけのガリガリくんができることか。このおいしそうなシャーベットが山から広がっている光景に思わず跳び乗って上からスプーンですくいたくなります。でも以前はもっと大きかったのかもしれません。日々の生活がこんなところに影響しているなんて。世界のしわよせがここにあらわれているのです。
 お腹をつけて寝ているマシュマロたちを左右に、車は海沿いのリングロードを走っていました。羊毛が風になびいています。次の目的地はヨークサロン湖。それは氷河が後退してできた湖で、車で30分くらいのところにあります。
「あれだ…」
 灰色の空の下にまるで南極のような光景が広がっていました。湖の上に氷河が堆積し、いまにもペンギンが顔を出しそう。そこから崩れて切り離された小さな氷河たちが次々と海へ流れていきます。それらを追いかけるように海に向かった僕を待っていたのは、神秘的な光景でした。
「すごい…」
 あたかも誰かが等間隔に並べたように氷河のかけらが打ち上げられています。まるで宝石がちりばめられた砂浜。空気のはいっていない透明な氷がはるか遠くまで海岸線を飾っていました。到底人の力ではなしえません。氷河と海のコラボレーション。自然が作り出した景観にしてはあまりにも美しすぎます。これも時間がつくりあげた景色。太古の昔から存在する氷河を前に35年という時間はあまりに短いものでした。もう日も暮れようとしています。いったい月明かりがこの砂浜を照らしたらどんなことになってしまうのか。そんな光景を想像しながらヨークサロン湖をあとにしました。
 レイキャヴィクを出発して8時間、車はホプンの街に到着します。ホプンとはアイスランド語で「港」の意。実際南部は砂地が続いているため港はほかになく、唯一の漁場として巨大なタラや手長エビが水揚げされます。毎年夏になると手長エビのフェスティバルが開かれ、街中がダンスや音楽で賑わうそうですが、その日は薄く霧がかった静かな港が広がっていました。
「部屋は空いてますか?」
 港の一角に佇む小さなホテルにオレンジ色のスーツケースが吸い込まれていきます。シンプルな部屋の窓からは海を照らす港の灯り。テーブルの上に置かれた蝋燭の火はレストランをあたたかく染めていました。僕のほかに一組の夫婦が食事をしています。
「これをください」
と勘で指差した料理は手長エビをふんだんに使ったワイン蒸しのようなもの。本当は塩焼きのようなものを食べたかったけれど、これも旅にはつきものです。メインにたどり着く前のパンとスープでかなり満たしてしまったこともあり、エビを平らげた頃にはもはや動けなくなっていました。レイキャヴィクから500キロ。港の灯りが差しこむ小さな部屋のベッドに横たわる旅人のお腹の中で、大きなエビが泳いでいました。

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