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2009年09月27日
第377回「シリーズ人生に必要な力その19気にしない力」
それが生まれてからどれくらい経つのかわかりませんがおそらくストレスという言葉が生まれる前からも人類はストレスに悩まされていて、いまのところそれらがなくなる気配はなく、むしろほどよいストレスは必要ともとれるほど、生きるうえで避けられないものなのでしょう。ただ、現代社会においてはほどよいどころではなく、情報過多、社会的重圧、人間関係など、その原因は数え上げればきりがありません。場合によっては命をも脅かすこともあります。仮にストレスを解消できたとしてもそれは一時的に忘れられるだけであって通常の生活に戻ったときにまたその存在に気付いてしまうでしょう。僕たちは一生ストレスというものから逃げられないのです。
そこで必要になってくるのが今回の「気にしない力」。ストレスにはもはやこれしかないといっていいでしょう。何を見ても何を言われても、気にしなければいいのです。まったく心の負担になりません。ストレスには、それに耐えようとするよりも、「大したことない」と気にしないことがいちばんなのです。かつて「鈍感力」という言葉が世の中を席巻しましたがそれと似て非なるもの。「鈍感」が「感付かない」「気付かない」のに対しこの力は「気付いて」います。気付いたうえで気にしないのです。ただ、この「気にしない力」は本シリーズの中でもかなり上位にくるほどの大切な力で、それだけにこの力を手に入れるのは容易ではないこともご理解ください。もはやこの力が最も難しいといっても過言ではありません。当然、トレーニングが必要です。気にしない力を身につけるためのトレーニング、それが「カレーうどん」です。
カレーうどんを食べたときに飛び散る黄色いシミ。今日は大丈夫だと思ったらやっぱり、と何度落胆したことでしょう。お店によっては紙エプロンを支給してくれるところもありますが、それをしたからといって絶対に大丈夫とは限りません。汁は生き物なのでエプロンじゃないところを目がけてきます。ただ、どんなに汁が飛び散ろうが、どんなにシミが付こうが、気にしなければ付いていないのと同じ。「べつに死にやしねぇし」と思えばなんてことないのです。「気にしない」はどんなエプロンよりもエプロンなのです。 いまでこそ食べ物としてのイメージが強いかもしれませんが、カレーうどんは古くから精神鍛錬の道具として作られたもので、それがのちに食用として広く伝わりました。修行僧が滝に打たれる光景はよく知られていますが、彼らがその前に行っていたことはあまり知られていません。それがまさにカレーうどんなのです。カレーうどんを食べて衣服にシミがついてもメソメソしない、という修行をしているのです。なので、滝に打たれる僧侶をよくみると黄色いシミがついていることがあったり、なかには滝に打たれながら「気にしない気にしない、シミなんて気にしない」とつぶやいている者もいます。カレーうどん専門店などはその修行の場の名残で、滝の近くにカレーうどん屋が多いのはそういった理由になります。
だからといって、やみくもにカレーうどんを食べればいいかというとそうではありません。正しい順序を踏まないと、単に服が汚れていくだけ。以下の順序に従って、焦らず着実に力をつけていきましょう。
ステップ1「着古した白いTシャツを着て食べよう!」・・・なにごともまずは敵を知ることが大切。最悪捨ててもいいくらいの白いTシャツを着て食べることにより、実際どのあたりに汁が飛んでいるのかを把握できます。おそらく最初は意外に飛距離があることに驚くかもしれませんがまずは相手のことをよく理解すること。もちろん、エプロンは付けません!
ステップ2「買ったばかりの白いTシャツを着て食べよう!」・・・今度は自らリスクを背負うことで緊張感を高めます。買ったばかりの真っ白なTシャツに黄色い汁が飛ぶたび、背中にムチを打たれるような気分になるかもしれません。それでも食べ続けることで、シミに対する精神的な免疫力が形成されるのです。
ステップ3「大事な資料とかを横においてみよう!」・・・上司やお得意様に提出しなければならない大事な資料などをあえて丼の横におきながら食べてみましょう。かなりのプレッシャーの中で食べることになりますが、汁が飛ばないように食べるのではありません。黄色の汁が飛ぶたびに上司の顔がよぎりますが、この訓練こそがあなたを強くするもの。それはやがて企業に帰ってくるものと信じて思いっきりすすりましょう。
ステップ4「電車に乗ってみよう!」・・・お前カレーうどん食べただろ?という車内中の視線を浴びることでかなりの力が身に付く反面、この段階で挫折してしまう人が多いのも事実。どんなに見られても何食わぬ顔をしていましょう。やがて、視線を集めることがクセになるかも。
ステップ5に行く前に、ちょっと一息こぼれ話・・・イタリア語で「ハダカーデ・カルーボ」ということわざがありますが、これは18世紀初頭の裸でカルボナーラを食べる儀式に由来するもので、古くから重んじられてきた「キニシネリーノ(気にしない力)」を養うために当時の貴族たちが毎夜全裸になって熱々のカルボナーラを食べていたことからこのことわざが生まれたそう。国は違えど、やはり考え方は同じなのです。
ステップ5「ウェディングドレスを着て」・・・最終段階です。人生の晴れの舞台、たとえ純白のドレスに黄色いシミがついても、たとえ白無垢にまだら模様が付いても全然気にしない。こんなめでたい日に小さいことでくよくよするなと胸を張りましょう。そうすればやがて訪れる夫の浮気なんてどうってことありません。実際、お互いに嫌なことがあっても気にしないことを誓うカレー前結婚式や、ウェディングケーキならぬウェディングカレーなるものに箸をいれるカレーウェディングが最近流行っているようです。
シミを嘆くよりシミを受け入れろ。これはドイツの哲学者の言葉。人は、考えることより、考えないことのほうが困難である。これはフランスの思想家の言葉。いずれも「気にしない」ことの偉大さを表しているでしょう。大切なのは、飛ばないように注意を払うのではなく、気にしないこと。だって、生きているだけで素晴らしいのだから。抱えきれないほどのストレスにあふれる現代社会、人生には「気にしない力」が必要なのです。
2009年09月20日
第376回「シリーズ人生に必要な力その18しょうゆとソースの判断力」
住宅街の中にも意外と公園はあるもので、ブランコや砂場など、昔ながらの光景を見ることができます。しかし、そういった遊具よりもひときわ目立っているものがありました。膨大な量の注意書きがされた看板。ボール遊びもだめ、大声もだめ、花火もだめ、楽器もだめ。とにかくあらゆる「してはいけないこと」がたくさん書かれています。そうなるともう、黙ってブランコに乗っているか、ベンチでじっと読書をしているしかありません。そんな、窮屈な公園を最近よく見かけるのです。
ある知人は、家族で花火をやろうとしたところ、どこへ行っても禁止されていて、はるばる1時間以上もできる場所を探したそうです。東京から遠く離れた美しい海岸線に立てかけられた看板には「バーベキュー、花火禁止」という文字。この国は、自由に花火もバーベキューもできないのです。
たしかに禁止事項をつくることは大切です。近隣住民に迷惑をかけたり、海を汚してはだめです。でも、多すぎるのです。問題を回避することは大切ですが、その回避方法がいつも「禁止」、つまり「やらせない」のです。それはいわゆる事なかれ主義。なにもしないのが一番というあまりに短絡的な発想なのです。
花火をやって後片付けをしない人たちがいるから砂浜での花火が禁止される。バーベキューをして汚す人がいるからできなくなる。でも、砂浜を汚さずに花火やバーベキューをやる方法を考えるのが人間であり社会であって、なんでも禁止すればいいというものではありません。少数の悪い人たちのためにルールが作られて、大多数の人たちの権利が奪われてしまう。なにかあるとすぐ、禁止していないからいけないんだ、みたいなわけのわからない理屈のせいもありますが、そんな責任を押し付けた結果、この国は禁止だらけになってしまったのです。
これによって人は、禁止されているかどうかで判断するようになり、自分で判断する習慣がなくなってしまいました。やっていいことと悪いことを自分で判断する力が鈍ってしまったのです。禁止されているからダメ、禁止されていないからいい、常に誰かの価値観を参考にしないと行動できない。このままでは、「だって看板に書いてないよ」と、公園で馬を放し飼いにする人がでてしまうかもしれません。
当然、信号が赤でも大丈夫だったら渡っちゃおう、ということを推進しているのではありません。そうではなく、現代の世の中は信号が多すぎるのです。必要のないところにまで信号を設置するから窮屈でしょうがないのです。少数の非常識な人たちを簡単に取り締まろうとするから、常識的に行動している人たちの行動が狭くなる。予防線ばかりを張り巡らしている社会は同時に人間を信用していない社会ともとれます。本来なら、もっと人の判断力を信用するべきなのです。
こうして判断する機会を失ってしまった僕たちがもう一度、判断力を取り戻すためにはその力を身につけるためのトレーニングが必要です。それに適したものが「しょうゆかソースかの見極め」なのです。お弁当についている小さい容器もあれば定食屋のテーブルに置いてある場合もあります。はっきり「ソース」と書かれていたり、魚の形をしていたりすればある程度中身もわかりますが、必ずしもそういう親切なものばかりではなく、えてして紛らわしいもの。また、キャップが赤だからしょうゆ、青だとソースとは限らず、そんな先入観を抱いているといつかさんまにウスターソースをかけたりコロッケにしょうゆをかけてしまう破目になります。そんな失敗も判断力を身につける上では必要ですが、大切なのは、それがしょうゆなのかソースなのかを自分の力で判断すること。その訓練を積むことで、それがロースなのかハラミなのか、脈ありなのか脈なしなのか、この収入でこの家賃を払えるのか、結婚すべきなのかどうかなど、あらゆる局面において自分で判断する力が身につくのです。
禁止することは簡単ですが、禁止しすぎては個人の判断力が衰えてしまいます。判断ができないというのは、自分のものさしがないということ。自分のものさしを使ってこそ、自分の人生。自分のものさしで判断する機会が失われている時代だからこそ、人生にはしょうゆとソースの判断力が必要なのです。
2009年09月13日
第375回「シリーズ人生に必要な力その17不安力」
どんなに強い格闘家も、それを表に出さないだけであって、心のどこかに不安はあるもの。それをかき消すために日々努力しているわけで、いわば不安が最大の敵ともいえます。どんなに野球選手になりたいと願っても、その希望だけでは努力は続かず、自分よりも上手な人の存在を知り、挫折や失敗を経験して、もっと練習しないとだめかもという不安から本気の努力がはじまるのです。
理想をいえば、不安なく希望だけで突き進みたいものですが、たいていの場合どんなに希望に満ち溢れていても不安を抱かない人はいません。その不安を壊すのは努力以外のなにものでもなく、そこに近道や横着は存在しない。不安だから頑張れるわけで、「不安は努力の種」なのです。
だから希望が良性の感情で不安は悪性のそれということでは決してなく、どちらも人生には必要なもの。それらは表裏一体で希望や期待がなければ不安は存在しません。「あの人は僕を好きになってくれるだろうか」という不安は「僕を好きになってほしい」という希望や期待があってこそ。希望があるから不安は生まれ、希望が生まれた瞬間そこに不安が寄り添うのです。世の中には、希望の数だけ、いや希望の数以上に不安は存在するわけで、不安が地球を動かしているといっても過言ではありません。不安が世界を支えているのです。
特に経済面で不安は最も重要な要素で、不安に足を向けられる企業はないでしょう。なぜなら消費をさせるには不安が欠かせないからです。不安を与えて消費を促す、これが現代経済の鉄則。あなたの部屋にはこんなに菌がたくさんいるんですよ、という不安を与えて除菌スプレーを買ってもらう。メタボリック症候群と呼ぶことによって、なんだか病気になったような感覚にさせてダイエットをさせる。最近のマスクが爆発的に売れたのも同じで、意図的なものにせよそうでないにせよ、不安が経済を動かしているのです。
もっとも規模の大きい不安は環境問題です。地球温暖化という不安を利用して消費意欲を高める、これが最近よく見かける傾向。環境問題に真面目に取り組んだ結果、世界規模での経済活性化運動に利用され、エコロジーのエコがエコノミーのエコになってしまうのです。でもこれは悪いことではなく、欲望を利用して温暖化を防ぐことができれば一石二鳥。不安と欲望を掛け合わせることは悪いことではなく、エネルギーを倍増させるのです。環境問題に関してはこれまで何度も触れてきているのでここでは割愛しましょう。
不安を与えて消費させる、いまの世の中は不安経済なのです。でもおそらく昔は違いました。経済復興、マイホーム、いろんな夢に向かって発展する希望経済。でも希望が見えにくくなってしまったのか、いまでは希望を与えて消費を促すよりも不安を与えてしまうほうが容易な時代なのです。誰かにコントロールされた不安が世の中を動かしているのです。
不安、それは人を動かすエネルギー。しかも同じエネルギーでも怒りに比べて持久力のあるものでしょう。でも抱きすぎたらそれは不安でなく恐怖。ほどよく不安と向き合ってうまくコントロールする、そのバランスをとるのが希望です。温暖化を食い止めた先にある地球や人類のありかたを示す明確なビジョンがないといくら排出量が減っても意味がないように、不安を解消することに頭がいっぱいになって本来自分がどうあるべきかを見失ってはいけません。いま自分が抱いている不安をエネルギーとして利用し、自分を希望のかたちに成長させる、そんな力が人生には必要なのです。
2009年09月06日
第374回「シリーズ人生に必要な力その16保管力」
机の上に積まれた書類やなかなか片付かない衣服や本などはもちろん、日々膨大な量の情報が飛び交っている現代社会においては、パソコンやケータイなどに溜まっていくデータをうまく分類しておくことが必要ですが、今回の「保管」の対象はそういったものではありません。リンスを指します。
どんなに失敗のない人間でも、日常生活においてうっかりミスをしてしまうことはつきもの。とりわけ全裸というリラックスした状態では、気が緩んで思わずシャンプーの前にリンスないしコンディショナーを出してしまうことくらいはあるはずです。なんだか全然泡立たないなぁと思ったらどおりでとあとから気付く場合や、ポンプを押す寸前に気付いたものの脳の処理が追いつかず、手のひらにはもうご希望とは違う商品が届いている場合。いずれにしても中濃ではなくウスターソースを出してしまったあの感じを人生で避けて通ることはできないのです。ものを大切にすることはどんなに時代が変わろうとも守るべきこと。若干とろみの少ない液体は当然捨てるわけにいきません。ここですぐ捨てられるような人は、いつかそんな風に自分も捨てられるのでしょう。この出番を間違えたリンスは、シャンプーしている間、どこかで保管しなかればならないのです。
保管場所としてスタンダードなのが膝の上。これは座って髪を洗う場合のみ有効なのですが、おそらく右利きの人はポンプを右手で押しているので左手にリンスがあるでしょう。その場合は左膝、逆の人は右膝の上に載せるのが理想的です。但し、あまりシャンプーを激しくするといつのまにか肌色の斜面を滑り降りていってしまうので、膝を揺らさずにシャンプーをする訓練が必要です。
足の甲というのもあります。これは立ってシャワーを浴びる場合に多く利用される場所です。人によってはつま先を上向きにして外に流出するのを防いだりしますが基本的に上から滴るシャワーなどに破壊される恐れがあるので保管場所としてはあまりオススメできません。
上級者になると、鎖骨のくぼみで保管するようになります。右のくぼみでリンス、左のくぼみでトリートメント。「鎖骨にリンス」という言葉があるだけに昔からその場所はリンスの一時保管場所として使用されてきたようです。ヨーロッパの貴族たちはあのくぼみに石鹸を置いていたときいたことがありますが国によってその利用のしかたは若干違うようです。いずれにしても上級者向けなのでお水などで練習する必要はあるでしょう。
左手で持ち続ける、という方法もあります。ずっと左手にリンスがあるので片手でシャンプーします。これはシャワーを手に持たずにできる場合のみですが、うまくできるようになると、左手にリンスを持ったまま着替えや食事、箱根の温泉旅行なども可能になります。最近はあまり見かけなくなりましたがかつてはそういった人たちをロマンスカーで見かけたものです。
保管場所としてほかに蛇口の上やバスタブのふち、お母さんを呼ぶ、というのもありますが、覚えていて欲しいのは、絶対にへそで保管してはいけない、ということです。昔からリンスはへそで保管するな、もしも保管したら翌日一気に毛が抜け落ちる、という噂を聞いたことがあります。なので、絶対にリンスはへそで保管しないでください。
「誤って出したリンスを保管できる男は基本なんでも保管できる」とよく言われます。それは、失敗してもひるまない精神力、失敗をエネルギーに変える力なのかもしれません。シャンプーする前に間違ってだしてしまったリンスを一時的に保管する力、そんな力が人生には必要なのです。