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2009年07月26日
第370回「シリーズ人生に必要な力その14お菓子力」
というと、昨今のスウィーツブームを牽引する人気パティシエのようなお菓子を創る力と思う人もいるかもしれませんがそういう意味ではありません。むしろそういった力はまったく必要とせず、お菓子を選ぶときの力を指します。そんなこと誰にでもできると甘く見てしまいがちですがこのお菓子を選ぶ力こそ社会を生き抜くために必要な要素なのです。
「ちょっと適当にお菓子買ってきて」とかつて「パシる」という言葉で表現されたちょっとした買い出しの依頼はこんなにもネット販売が普及した現在もなお日常で見かけるアナログな光景ですが、一見どうでもよさそうなこの注文こそ実はその依頼された人間の能力を試されているわけで、逆に言えば、この依頼を全うできてこそ社会にでて恥ずかしくない人間と言えるのです。
「適当に買ってきて」という言葉の裏には、「10人程度が集まる打ち合わせに見合ったお菓子を1000円で買ってきて」という事細かな要求が含まれています。つまり、ぜんぜん「適当」ではないのです。なので、ここで何も考えず本当になんとなくお菓子を買ってきたら、実際口にはしないものの、「この人なにも考えてない」という印象を与えてしまいます。集まる人々の年齢層や男女比に応じて、予算と相談しながらお菓子をチョイスしなくてはなりません。「適当に」と言われたときほど真剣に取り組むのです。男性だけなら男受けしそうなスナック菓子などを中心に甘いものを交えたり、女性ばかりであれば甘いものを中心にしつつも新商品を多めに取り入れたり。そこに自分の好みを反映させず常に集まった人たちの顔ぶれを想像しながらお菓子をカゴの中に入れることが大切です。いわば、お菓子選びはマーケティングなのです。
しかし、顔ぶれに見合ったお菓子選びができたからといって安心するのはまだ早いです。というのも、どういった人たちが集まるかわからない状態で買い出しを依頼されることも多々あります。顔がわからない人たちの口に合うお菓子を購入する、これほど困難な要求はないかもしれません。でも、決して諦めないでください。むしろ、年齢層も男女比もわからない状態でお菓子を選ぶときこそまさにお菓子力の見せ所、実力を認められるチャンスなのです。
どんな人たちが集まるかわからない場合はまず、年齢に関係なく愛されているお菓子、これが不可欠です。ジャズのスタンダードナンバーのようないつまでも色褪せないスタンダードお菓子。「歌舞伎揚げ」や「チーズおかき」、「ハッピーターン」などが代表格かもしれません。「トッポ」「じゃがりこ」「カントリーマアム」なども広く愛されているので安全といえます。気をつけなければならないのは、スタンダードだけで固めてはいけないこと。それでは刺激が足りず、保守的な人間とみなされる危険性もあります。ほどよく真新しいお菓子を混ぜておいたほうがいいでしょう。大人になればなるほど開拓するエネルギーは衰えてくるもの。自分では買わないけど気になっていたものを口にしたときの刺激は会議にいいアイディアを与えます。また誰も知らない最新お菓子から昔ながらのお菓子まで悠久の時の流れを感じさせるお菓子たちはあなたに人間としての奥行きを与えてくれます。それだけお菓子の買い出しというのは重要な任務なのです。
かつて、お菓子買ってきてといわれてすべて甘いものを購入してきたスタッフが数ヵ月後に現場から姿を消したというのを聞いたことがあります。それは、お菓子をしっかり選ばなかったからいなくなったのではなく、お菓子選びができる人はなにをやってもうまくいくということを証明しているのです。たかがお菓子選びさえも真剣に取り組む姿勢はそんな仕事にも通用するのです。そういう意味で、お菓子選びはすべてに通じるのです。自分の好きな甘いものだけを購入した人も、運がよければ人生で大きな花を咲かせるかもしれませんが、確率は低いかもしれません。手が汚れてしまうものや、歯にくっつきやすいものを避けたり、手に取りやすいものを選ぶという基本的なテクニックもありますが、最終的には集まった人たちへの愛情が求めらます。会議のあとに空になったお菓子のカゴを見てあなたは自然とガッツポーズをしていることでしょう。その喜びが次のお菓子選びに繋がるのです。
お菓子選びはすべてに通ず、お菓子を選ぶ力は時代を読む力。たかがお菓子選び、されどお菓子選び。この力こそ、人生には必要なのです。
2009年07月19日
第369回「シリーズ人生に必要な力その13怒らない力」
それがいまになったのは特別な理由があるわけではなくこれまで漠然と感じていたものが頭の中で整理されたのがたまたまこのタイミングになっただけでどうしても今でなければというわけではないのだけど今日僕が伝えたいのは「怒ったら負け」ということ。これまでの人生の中で学んだことはたくさんありますがこのことはわりと上位にランクインするものでとても大切な気がします。いくら理論的に正しくても、いくら自分が正義だとしても、「怒ったら負け」。どんなに納得がいかなくても、それが相手に対する愛情表現だとしても、感情を切り離して冷静に対応しないといけないのです。
とはいえなかなかできるものではありません。どんなに冷静な人であっても常に冷静であるとは限らず、2秒後にはそれを打ち破っていることだってあります。だからこれを、いつも心に留めておかないといけないのです。
なぜ「怒ったら負け」かといえば、「怒ってもなにもいいことがない」からです。怒ったところで相手にしっかり伝わらないし、怒られたという印象しか与えません。そして疲れます。精神的にも肉体的にも疲れてしまい、それが余裕のなさに繋がってさらなる怒りにつながるのです。状況に腹を立てているのに、人に怒りをぶつけてしまう。予想と現実との違いを埋めるために、人は怒るのです。怒ってもしょうがないのに、怒るのです。事態は好転しないどころか雪だるま式にどんどん怒りが膨れあがりもはや引っ込みがつかなくなってしまう。そうやって、湧き上がった感情に振り回されたらだめなのです。そういうときこそ「怒ったら負けだ」と何度も念じて深呼吸するのです。
いまさら「怒る」と「叱る」の違いを言及するつもりもなく、感情をなくせと言っているのでもありません。親友を殺害されて冷静でいられるわけないし、大声を出さないと伝わらない状況もあるでしょう。感情を切り離すことも容易ではありません。だからこそ、怒ることが無意味であることを知っておく必要があるのです。なんにもよくならない、ということを。心の中に怒りがたまることはしょうがないことです。ただ、それを人にぶつけたりするのは別の話。怒りで溜まったエネルギーを「怒る」という行為で消費する必要はなく、そのエネルギーをもっと前向きに利用するべきなのです。
もしかすると、やがて「怒り」から発電できる時代が訪れるかもしれません。怒りというエネルギーの平和的利用です。「怒り」でクルマが走り、「怒り」がお金に変わる時代。感情がカタチになる未来。それが可能かどうかはわかりませんが、「怒り」というものを「怒る」ことで消耗するのはもったいないということはまぎれもない真実です。通常であれば爆発してしまうのをぐっとこらえれば、そのエネルギーは別のことで活かされるはず。人としても大きくなっていかなる怒りも平和的エネルギーとして活用できるようになるでしょう。とにもかくにも「怒ったら負け」、寝ても覚めても「怒ったら負け」。このことをみんなが実行すれば、世界はきっと穏やかになります。だからこそ人生には「怒らない力」が必要なのです。
PS:フニオチコンテスト完売しました。ありがとうございました。夏のいい思い出になりますように。
2009年07月12日
第368「シリーズ人生に必要な力その12ギャップ力」
外見というのは人を魅了するものとしてもっともポピュラーかもしれませんが人間の魅力というのは勿論それだけではなく、やさしいとか話が面白い、知識が豊富、お金持ちなど、さまざまな要素があるものの、それらの魅力は誰でもが手にすることができるものではなく、一見不平等とも思えるくらいに生まれ育った環境や運などによって個人差が生じるのものです。誰もが美貌を手に入れられるわけではないし、誰もが運動能力を身につけられるものでもありません。しかし、様々な魅力が存在する中で誰もが手に入れることのできるものがあります。それは「意外性」です。ときに「ギャップ」と呼ばれるその要素は、すべての人間が獲得できる魅力なのです。
漠然と感じつつもあまり言及されませんが、人間は「意外なもの」に惹かれる生き物です。刺激を求めるからなのかどうかはわかりませんが、意外なものに目がとまり、意外な現象に立ち止まるのです。この意外性をコントロールする「ギャップ力」が人生においてとても有効なのです。
「ギャップ力」それは通称「的場浩司力」と呼ばれるもので、怖そうなお兄さん的イメージがあったのにここへきてスウィーツマニアであることを前面に押し出してきた俳優の名に由来するのですが、従来のイメージを時代の流れに沿って覆すと人々は意外性に心を揺さぶられるのです。怖いお兄さん的なイメージの俳優がバイクを乗り回していても、女性が甘いものに目がないと言ってもあまり周囲は関心を示さないのに対し、コワモテの表情が甘みに溶けていく意外性に人の心は動くのです。
昔から存在するヒーロー像というのは、日常生活ではだめな人が実はスーパーマンだった、みたいなことはまさに人々がそういったギャップを魅力に感じるからこそです。ヤンキーたちが更生してなにかをなしとげたりするドラマが流行するのはまさに「ギャップ力」を利用したもので、これはある意味、世の中をも動かす力といえるかもしれません。
日々田畑と向き合っている人たちや日々山々のゴミを拾っている人たちこそ本来スポットを当てられるべきですが、突然渋谷の109にいるようなギャルたちが農業やゴミ拾いをするとマスコミが動きだすのはそこに「意外性」があるからで、どっちが素晴らしいなんて議論の余地もなく、農業や山のゴミの現状を伝ええるには後者のような意外性がないとなかなか世の中に伝わらないのも現実なのです。
では、この「ギャップ力」を身につけるにはどうしたらいいのか。まず自分にとって意外なものとはなんなのかを考える前に自分とはどんなイメージを持たれているのかを知る必要があります。すべてにおいてですが、自分を知ることが大切です。なので会社の同僚やクラスメイトなどに自分のイメージを訊ね、普段どんな風に思われているか、どんな印象を持たれているかを確認します。多少厳しい意見でも決して腹を立ててはいけません。むしろ正直に言ってくれたことに感謝すべきであって、気をつかっていいことばかり言われてもまったく意味がないのです。たとえ傷つけられても「キミのおかげで自分がどう見られているかわかったよありがとう」と思わなければならないのです。なので無記名式のアンケートが有効かもしれません。こうして収穫した自分の印象やイメージこそこれからあなたが身につける魅力の原点であり跳躍するための踏み切り台になるのです。
自分にとって意外なものとはなにか。たとえば、ものすごく真面目という印象だった場合、簡単にいえば不真面目な一面を持てばいいのです。会社ではまじめ人間でもいざ休日にはサーフィンというちょっとワイルドな面を持っていたり、逆に普段はテキトーでなよなよしていてもいざというときには目つきが変わって男らしさが垣間見えたり。ただ、サーフィンをあまり真面目にやっているとそれは意外性にはつながらないのであくまで遊びでサーフィンをやっているのが理想的ですが。
会社では部下に慕われている部長が家に帰ると奥さんの尻に敷かれていると人間的でかわいらしく思えたり、お年寄りに席をゆずりそうな人よりも、なんだかチンピラみたいな人が譲ったほうがやけにやさしく見えたり。怖そうな人がちょっとやさしさを見せるだけで通常の100倍くらいやさしく感じられるのはまさに「ギャップ力」のおかげで、いわば、テレビではのび太のことをいじめてばかりなのに大きなスクリーンの中だとのび太を助けるジャイアンこそギャップ力の鏡といえるでしょう。そこにギャップがあると、ときに涙がでてしまうほど、人の心は動くのです。
だからときおり、この「ギャップ」が悪用されることもあります。なにも事件が起きていないとき、このギャップを利用してさもなにかが起きたかのように伝えられることがあります。意外性だけを追求するがあまり、それに気をとられて、意外性ばかりが売り物にされてしまう。それが、怖そうな人がお年寄りに席を譲った、というタイプのギャップばかりであればいいのだけど、ネガティヴなギャップばかりが取りあげてられているのが現状で、そういった意外性の乱用にも気をつけないといけません。
また、ギャップがあると人間としての奥行きがでてくるからといって、意外性を追求しすぎて本来の自分を見失っては意味がありません。自分に嘘をついてまで身に着けるものではなく、あくまで自然体が結果的に意外性を生んでいることが理想です。さらに、意外性のほうばかりに重点をおきすぎて軸となる方がおろそかになってもだめです。いくらサーフィンがうまくても会社でちゃんと仕事ができなければまったく効果はないのです。両者をバランスよく進めていくことによって、ルックスなどのひとつの要素よりも賞味期限が長く、安定感のある魅力を手に入れることができるのです。「ギャップ力」これが人生に必要な力なのです。
PS:8月30日に開催される「第2回フニオチコンテスト」7月18日(土)チケット発売です!!
2009年07月05日
第367回「人類は常になにかを知らない」
「3D」という言葉をときおり耳にしますがなんとなく立体的というイメージはあるもののそれが「3DIMENSION」という3次元を意味しているとなると知らない人もいるかもしれません。それこそかつてTHE FIFTH DIMENSIONなるアーティストもいましたが、「3D」の「D」は「DIMENSION」(次元)の「D」。ゲームなどによくありますが、まさに僕たちがいるこの世界こそ3次元、3Dなわけで、単純にいうとタテ・ヨコ・高さの立体世界。これに対して2次元はタテとヨコの線で構築された平面の世界です。主人公が平面上を移動していたかつてのドラゴンクエストが2次元で昨今のファイナルファンタジーが3次元ということです。
2次元の世界は決してゲームの世界だけでなく、僕たちの世界にも存在します。たとえばアリがそうで、彼らは2次元の世界を生きています。一匹のアリが朝礼のときなどよく足をのぼってきたりしましたが彼にとっては上に登るという感覚はありません。ひたすらまっすぐにのびる平面を進んできているだけで「高さ」は認識していないのです。だから、アリの行列から一匹手でつまみあげたとき、そのうしろにいるアリからしてみたら「人間にさらわれた!」とはならず、突然目の前のアリが消えた、ということになります。アリは、「高さ」は認識していないからこそ、どんなところもよじ登れるのかもしれませんが。
では1次元とはどういうことでしょう。2次元が平面世界なら1次元は線の世界。平面にもなっていないのです。そして0次元が点による世界。勝手な想像ですが、ホクロというのは0次元のものかもしれません。あの点の中に大きな世界が集約されているのです。
このように、3次元に生きる僕たちはそれ以下の次元についてはわりと容易にイメージできるのですが、問題はその逆です。こっち側に関してはそう簡単にはいきません。4次元とはいったいどんな世界なのか。立体を超えるもうひとつの次元、それは時間です。時間がプラスされるのです。
ちょっと待ってよ、僕たちが生きているこの世界にも時間はあるじゃないか、と思うでしょう。たしかにこの世界にも時間は存在します。ですが、時間に逆らうことは誰もできません。3次元の世界では時間をコントロールすることはできないのです。
「じゃぁなんだよ、4次元の人ってのは時間をコントロールできるってのかい?」
「そういうことです」
ここからは謎の江戸っ子と少年の会話形式でお送りします。
「未来にも過去にも行けるってのかい?」
「そういうことです、ただ」
「ただ?」
「4次元に人はいません」
「いない?なんで」
「おそらく、人ではありません」
「じゃぁ、なにがいるのさ」
「それは…わかりません」
「なんだよ、それじゃ意味ねーじゃねーか」
「だから、人が作った現在とか過去とか未来という概念・言葉も存在しないのです」
「概念?なんだか難しくなってきたぞ?」
「アリが僕たちを認識できないのと同じように、3次元の僕らからは4次元の世界は認識できないのです」
源さん(江戸っ子)の喉を唾液が通過していきました。
「個人的な想像ですけど、どこかに異次元の扉があるのではなく、4次元の世界は僕たちの身の回りに存在しているのです。現在も過去も未来も同時に存在している、というと多くの人が拒絶反応を起こしますが。時間を自由に行き来できる物体の移動ルートと3次元の時の流れが交差したときに見えるのがいわゆるUFOなのかもしれません」
「UFOが?」
「はい。まぁUFOの存在についてはまた別の機会にしますが、どこかに異次元の世界が存在する可能性は高いでしょう」
「異次元の世界ねぇ…」
「そうです、でも…」
「でも?どしたんだい?」
「いままで言ったことはすべて忘れてください」
「なんだよ、散々話しといて」
「いいから忘れてください」
「どして!」
「大事なのは、人類は常になにかを知らない、ということなんです」
「人類は…?」
「常になにかを知らない」
そう言うと、少年はゆっくり麦茶を口にいれました。
「かつて地球が回っていることを知らなかったように、地球が丸いことさえ知らなかったように、人類はどんなに進化してもなにかを知らないんです」
「そんなことないでしょう、科学ってやつがぜんぶ解明するんだから」
「いえ、知れば知るほどわからない部分も生まれます。人類はいくら知ってもすべてを知ることは不可能なんです。言い換えれば…」
「れば…?」
「人類の歴史は、知らないことを発見する歴史、なのです」
「知らないことを発見…」
「そう。知らないことを見つけていくのです。だからすべて知っていると思うことが一番だめなのです。わからないから人類は滅亡しないわけで、もしすべてを知ってしまったら終了なのです。恋愛だって同じですよね?」
「恋愛も?」
「はい。人はわからない部分に魅力を感じ、わからない部分を好きになる」
「わからない部分を?」
「そうです。もちろんわからない部分だけだと単なる不可解な人で終わってしまうけど、恋愛にはほどよくわからない部分が必要なのです」
「もしすべてを知ってしまったら?」
「終了です」
「終了?」
「はい、それか…」
源さんは次の言葉を待ちました。
「愛に変わるか」
「愛?」
「とにかく、源さんがいままで振られてきたのは自分のことをたくさん話しすぎてわからない部分がなくなっちゃうからなんですよ」
「そうか、俺は多くを語りすぎていたんだな!」
「そうです。昔から男前はみんな無口じゃないですか。あれは、無口がいいんじゃなくて、なにを考えているかわからないからいいんですよ」
「そうか、じゃぁ俺も今日から無口になろう!」
「でも源さんが無口だとなんだか不気味…」
「なんだよ、じゃぁ俺はどうしたらいいんだよ!おい、こら!ここが大事だろ!ちょっと待って!」
「わからない」は決して悪い状況ではなく時にはそれを楽しむことも必要でしょう。知れば知るほどわからない部分が生まれ、すべてを知ることは不可能なのです。もしもすべてがわかってしまったらこの世界は誰かの手によってコントロールされてしまいます。「人類は常になにかを知らない」それに気付くことが大切なのです。
PS:4次元の話はあまり気にしないでください。