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2009年03月22日
第354回「キミは当たり前と思うかもしれないけど僕にとっては不思議なことで」
キミはきっと当たり前と思うかもしれないけど僕にとってはとても不思議に思うことがあって例えば人はどうして仲良くなるのだろうかということなのだけどこれだけ言うと怪訝な表情をするかもしれないからもう少し付け足すと人はどうして言葉を交わすと親しみを抱くことができるのだろうかということでつまり相手の体内になにかを注入したわけでも注入されたわけでもないのに言葉を交わすだけで確実に交わす前よりも相手の顔が穏やかに見えたりして実はこれってすごいことなんじゃないかなだってパソコンは情報を転送してもパソコン同士は仲良くならないのだから人間もパソコンのように言葉という情報を交換しあってもなんの感情も抱かないというケースもありえたわけでそう考えるとこの「言葉を交わすと親しみがわく機能」はどんなに技術が発達してもどんなにウィンドウズが進化してもコンピューターには決してまねることのできないもので「仲良くなる」ことがいかに素晴らしいことであるかは知っておくべきだろうし初対面の印象がなんか嫌でも会話をするうちになんだか二人の間にあった壁が目に見えて崩れていってその人を受け入れている自分や受け入れられている自分に心地よくなったりするのは当然何度言葉を交わしても嫌いな人はいるけれどまぁ嫌いというのもひとつの愛のカタチだから気にしないとしてやはり僕がかつて言った「言葉は想いを運ぶ」という考えがここへきて妙に信憑性を帯びてきたりするわけなんだけどこの際「想い」なんて抽象的なものにせずいっそ「愛」という言葉に替えて「言葉は愛を運ぶ」ということですすめていけば心の中に愛というエネルギーがあってそれは怒りだとかやさしさだとかすべてのエネルギーにつながるもので当然好きも嫌いも思いやりも憎しみもなんだけどそれを運び出す一つの手段が言葉であって言葉を発したときに目には見えない愛がそれを向けられた相手のところへ飛んでいき彼の心に注がれるわけだから会話をするというのは単に情報を交換するだけではなく「愛情を注ぎあう」ことなんだということは科学では証明できなくても真実だからなによりもまず「会話」や「対話」なしに平和は訪れないし「世界は言葉が作っている」といっても過言ではないから僕たちがなにげなく使っている言葉というのはなんだかすごいものなのだけどもっというと言葉もなく同じようなことがこの前ファミレスであって少しはなれたところにいた南米系の黒人グループのひとりが知っているのか知らないのか僕のことをじっと見ていてなんだろうと思っていたら彼がにこっと僕に微笑んだときにうまれたふたりの間のあたたかなものは信じられないかもしれないがそれまでは存在しなかったわけで彼は心の中にあった愛を僕のためにわざわざとりにいってくれてそれを笑顔という道具で僕に届けてくれたのだからあたたかいものとはまさに愛なのだけど僕も思わずにこっと微笑み返しをしてしまったわけでこうなってくると笑顔は言葉のひとつと捉えることができるし本来人間はその使い方を誤る人がしばしばいるだけでみな愛にあふれた生き物だからやはり言葉を使って愛を注ぎあえばいつか世界は愛で満たされるだろうしこれから僕が訪れる場所は日本語はもちろん英語も通じないところだけど世界共通の言語があるからどうにかなるだろうしせっかくだからこの機会に人と仲良くなるというのはどういうことなのか言葉とはなんなのかをあらためて感じてこようと思うので次週の週刊ふかわはお休みしますというお知らせ。
2009年03月15日
第353回「新しく生まれるものや消えゆくものに心を奪われて僕たちは」
新しく生まれるものや消えゆくものに心を奪われて僕たちはあたりまえに存在するものに感謝することを忘れてしまっているのではないだろうかと思うことがあります。ここ数十年の間に手に入れたものもあれば失ったものもあるけどたいてい人は生まれるものを喜んで失ったものに気付かずあとから失ったものに気付いてその大切さを実感するのだけど実は本当に大切なものは新しいものでも消えてしまうものでもなくいつもあたりまえに存在するものであってそのあたりまえに感謝できるかどうかがとても重要なわけで、あたりまえに存在するものがいかにあたりまえでないのかということ、つまりあたりまえなんてない、ということなのです。
これまでの経済発展によって人々は物質的幸福に恵まれそれはそれで大いに意味はあったし賞賛するべきことなのだろうけど物事には光と影があり光のほうにばかり気をとられて影の存在に気付かないもので様々なものが便利になり物理的に満たされてはしゃいでいる間に失っているものがあったことも事実です。なんでも手に入りなに不自由なく生活していると見えなくなることがあるようで、便利さの中で人は自分ひとりだけで生きられるかのように錯覚し自分のことばかり考えるようになり見えないものを信じなくなってしまいました。景気の上昇とともに人は心の感度が弱くなってしまったのです。だからいつまでたってもこんなに便利になってもストレスしか残らないのです。これからは心で生きることが必要なのです。
人と人とのコミュニケーションや自然や家族との触れ合い、人間が人間らしく生きるためにはなにが必要か、あたりまえに存在するものに感謝できるか、そういったことを考えるときなのです。不景気だろうが不況だろうが、たしかに経済的には苦しい面もあるかもしれないけど、そんなときしか手に入らないものもあります。そんなときじゃないとできない経験があるのです。人々が助け合って本当の心のつながりを実感したり人間性を取り戻すいいチャンスなのです。
そう考えるだけでも、この時代に対する解釈はぜんぜん違ってくるでしょう。ただ嘆いていてもなにも解決せずなにも好転しません。こんな時代だからこそ、手に入れられるものを見つけるべきなのです。決して楽観視しているわけではありません。すべてが満たされていたら心はなにも感じず、満たされていないときに心は動きはじめるもの。いつの時代も人はなにかを知らずにいるのだからこの時代に人は大切なものに気付くのです。新しいものや消えゆくものに心を奪われてしまう僕たちは、いま、あたりまえに存在するものに感謝できる「心の豊かさ」を取り戻すときなのです。
2009年03月08日
第352回「意識と無意識のカンケイ」
第352回「意識と無意識のカンケイ」
専門家じゃないから科学的な証拠はないし特別な知識があるわけでもないけどあくまで感覚的な観測で「意識と無意識」の話をさせてもらうと「答えは無意識の中にある」と僕は解釈しています。「意識」は頭の中で考えている間のこと、その答えは「無意識」の中に現れる、ということです。
人は意識と無意識を繰り返して生活しています。意識しているときに人は考え行動しますがだからといって無意識の間はなにも頭に浮かんでいないかというとそうではありません。なんらかの言葉や映像、カタチにならないカタチが浮かんでいるはずです。無意識を意識することは理論上不可能ですが無意識の間に浮かんだことを思い出すことは可能です。たとえば1分間の無意識の状態から意識に切り替わったその瞬間「あれ、いまなにが浮かんでいたっけ?」と頑張って探しにいくのです。追いかければ追いかけるほど遠ざかろうとしますがなんとか追いついて手にしたものこそが正解だったりするのです。
答えとか正解とか一体なんのことかと思うかもしれませんが、それは「宇宙的な正解」です。この場合でいう宇宙とは無重力空間ではなく、この世に存在するすべてのもの、いわゆる「自然」も含まれています。人は自然、宇宙の規則にしたがって生きているわけで、極端にいうとすべて生まれたときそれこそ生まれること自体が宇宙の規則にしたがっていると考えることもできます。人は自分の意志で生きているようで実は、大きな宇宙のサイクルの中にいます。しかし、そんなことどこにも書いていないし誰も教えてくれません。でも、しっかりと表示されているのです。それが「無意識」なのです。無意識のなかに宇宙からの伝言があり、無意識になることで人は宇宙全体とつながることができるのです。
では、なぜ普段から宇宙とつながることができないのでしょう。それは、「意識」しているからです。「意識」することは宇宙とのつながりを遮断している状態。つまり人間は「意識」することで自己を宇宙や自然から遮断し宇宙のサイクルに反して行動することができるのです。身近なもので我々は夜更かしをします。そうすることだけで自然界の規則から逸脱しているのです。ある意味文明はそれを可能にしたものと言えますが、ただ、いまさら夜更かしをするなということでは当然なく、わからなくなったときこそ人は自然や宇宙に耳を傾けるべきということです。いろいろ考えて出た答えが必ずしも正しいとはかぎりません。そういうときは逆に意識するのではなく「無意識」になることで自分がどうあるべきかを訊ねるのです。「無意識」は、宇宙・自然界とつながることができる、いわば、宇宙へのログイン方法なのです。
悟りを開いたとか神のお告げだとか運命だとか宿命だとか、そういった類の言葉がありますが、昔の人たちはそう表現することでうまく処理してきただけで、結局は同じことです。神がいるとかいないとかではなく、大事なものは無意識の中に存在する。無意識になることで自分が宇宙と一体になれるのです。だから、宇宙とのつながりは脳ではありません、心です。意識は脳から投影されたもので、無意識は心が投影されたもの。気のままに行動できるととても心が潤うのはそのためでしょう。宇宙のサイクルに従って生きているのですから。頭で考えた結果の行動ではなく、心のままに行動するのです。感じるままに。どう生きるべきかなんて考えず、宇宙が答えをだしてくれるのです。
だからといって、四六時中ぼーっとしていていいかというと、社会はそれを許しません。自然界では居心地がよくても、社会では居る場がなくなってしまいます。だから人は常に意識をしていなければならないのですが、わからなくなったとき、疲れたときはそれをやめて無意識になるのです。そうすればきっと宇宙が教えてくれるでしょう。大事なものは、無意識の中にあるのです。
ps:いつも感想ありがとうございます。もしコメントを公開しないで欲しい場合はその旨を明記してもらえれば大丈夫です。よろしくお願いします。
2009年03月01日
第351回「みんな輝いている」
第351回「みんな輝いている」
人はみんな面白い、僕はいつもそう思っています。たしかに漫才や漫談、コントといったものは芸の領域なので誰もが簡単になしうるものではないけれど、それを自分自身で伝えられる人、人に伝えてもらう人、様々ですがみなそれぞれに面白さを持っているのです。だから「笑い」というのはみんなのものであって決してプロだけのものではありません。最近は笑いを分析したり批評したりする傾向が強く、笑いを真剣に観るようになってしまいなんだか本末転倒な気もしますが、笑いに優劣はなくいろんな笑いがあっていいのです。面白いものは非日常ではなくむしろ日常にあふれているもの。もう一度、笑いをみんなのものにしたい、人は誰もが面白い、そんな想いがこのコンテストにはありました。
だから僕は、このコンテストにおいてなにもしません。出場者の奥に潜む面白さを観ている人たちに伝えるだけです。その面白さは決して特別なものではなく、言い換えれば個性です。その人の個性、人間性こそが面白いのです。フニオチという言葉を通して、彼らの人生が伝わればいいのです。万有引力ならぬ万有魅力といったところでしょうか。人はみな、輝く魅力を持っているのです。
政治に関してもそうでしょう。政治家たちはなんだか人の上にたつ偉い人のような振る舞いですが、別に上でも下でもかまわないけど、やるべきことは国民一人一人の力を引き出すことです。人々の魅力を存分に発揮させる、いわば国民全員のプロデューサーなのです。なのに税金だとか制度だとか選挙のことで頭がいっぱいでそういった目線で仕事をしている人が見当たりません。理論だけで政治はできないし、いくら正義感が強くても自分がスターになろうとしていたら空回りに終わります。国民一人ひとりの力が引き出されてはじめて国に活気がでてくるもの。そのとき人々に本当の笑顔が生まれるのです。そうしたらお金が多いとか少ないとか言わなくなるでしょう。人は自分の力を発揮できたとき、人の役に立ったとき、お金以上の充足感を得られるのですから。
ヒットするアイドルの姿が時代によって変わるように、政治家のあり方も時代と共に変化するわけで、政治家とはこうあるべきだといつまでもかつての概念にとらわれていると時代とのズレが生じてしまいます。これからの政治家はそういうことを理解していなければだめなのです。ひとりひとりが輝く環境をつくること、それが政治家の務めでしょう。どの世界においてもリーダーは個人の力では存続しません。なにかを押し付けたり与えるだけでなく、人々の力を発揮させてこそ真のリーダーなのです。そこには多大な愛が必要なのですが。
人はみな面白い、人はみな輝いている、そのことが伝わったならそれだけで僕の心は満たされます。時代が求めている限り、僕はこのイベントを続けていくつもりです。すべての人々を笑顔にするために。フニオチコンテストに参加してくれたみなさん、ありがとうございました。