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2009年02月22日
第350回「ナルシストのすすめ?」
第350回「ナルシストのすすめ?」
違和感をおぼえたり納得がいかなかったりどうも自分をとりまく世界を好きになれないということはよくある話で誰もがまわりのどこかに不満を抱き場合によってはなんでもまわりのせいにしてしまうこともあるけどそういう環境に不満を抱いている人はわりと少なくなくてそういった人をターゲットにした「まわりを変えたいときは自分が変わろう」みたいな言葉や本が横行してそういったものについつい手が伸びてしまう人もいるけどたしかに「世界を変えたいのならまわりばかり責めていないで自分が変わればいい」という言葉はこの全世界が変わるスイッチがまさか自分自身にあるなんてと目から鱗だったりするのだけどなんだカンタンじゃないかと安心したその瞬間で終了することが多く結局はなにも変わらなかったりするし実は自分を変えることがカンタンなわけはなく自分こそなかなか変わらないものでそれこそ世界を変えるに値するだけのことだから相当のエネルギーが必要で頭では理解していても実行するのは容易ではなくむしろ自分が変わるよりも世界を変えるほうがカンタンなのではというくらい自分が変わることは困難なのだけどたしかに意味合いとしては一理あるのでより実践できるように「自分を変える」をちょっとだけ角度を変えて「自分を好きになる」と言う表現にしたらもう少しイメージしやすいのではないだろうかというのも自分を変えるといったってどう変えていいかわからないし果たして変えるとはそして変わるとはなんぞやということになりかねないわけでそれに周囲にあわせるために変貌を遂げた自分が本来の自分でなかったらまったく意味がないのだから変わろうとせずに「自分のことを好きになる」「自分の好きな自分になる」ように意識するほうが健全だし「いまの自分に納得しているか」「いまの自分を好きか」と自問自答してもし自分を好きでいられるのであればきっと世界を好きになれるだろうし逆に自分のことを嫌いであったら世界を好きになれるわけはなくつまり「自分を好きになることは世界を好きになること」で結果それが世界を変えていることになるのだからどんな状況であっても好きな自分の姿を選べばいいわけだしお金がかかるものじゃないから厳密に言うと違う意味かもしれないけど広く「自分を愛す」という意味でのナルシストのすすめ。
ps:第348、349そして今回の350は、タイトルこそ違いますが本質的テーマはまったく同じです。いろんな角度、言葉、考え方でアプローチしているだけで。読んでくれた人がどんな逆境にあっても前向きであることを願って。
2009年02月15日
第349回「器のはなし」
第349回「器のはなし」
お前は人としての器がちっちゃいなぁだとかあの人は器が大きいというように本当に人に人としての器があるとしたらその大きさを決めるのはなんなのかと考えたときおそらくそれはどれくらい現実を受け入れることができるかどうかだろうと個人的には思います。たとえば好きな人にフラれたとか会社をクビになったとか考えると納得のいかないことだったりするけどいつまでも感情にふりまわされて起こった現実を拒絶していても人の器は大きくならずヘタしたら小さくなるのに対し、嫌な現実さえも受け入れて前に進もうとしたときにその分だけ人としての器は大きく広がっていくのではないでしょうか。
あまりに幸せすぎて受け入れられないという状況もありますが、基本的に人は、楽しいことは受け入れるけどそうでないことは受け入れたくないものです。なぜ拒絶したくなるかというと、自分のイメージと現実とのギャップであって「そんなはずじゃなかった」と勝手に裏切られたという被害者意識を持ってしまいます。でも現実に悪気はなく現実はあくまで現実なだけ。なのに自分のイメージと違うからという理由で現実を拒絶することによって嫌度が増幅し余計に現実から逃亡したくなる。現実に怒りを覚えても事態が好転するわけではないのにひたすら感情に振り回されてその場に立ち止まってしまう。嫌なことが起きたときこそ冷静になにが嫌なのかを考えれば物事の本質が見えて怒ってもしょうがないということがわかるもの。そうして冷静に現実を受け入れて前に進むことができたとき、器は大きくなるのです。
さっきから器が大きいとか小さいとか言ってるけど、じゃぁ器が大きいことがそんなにえらいのか、という風に思うかもしれません。別に俺は器が小さくったっていいし大きくしたいなんて思ってないと。でも、器は大きくないとだめなのです。なぜなら人を受け入れることができなくなってしまうからです。
無人島で一人で暮らすならともかく、社会の恩恵を受けといて一人で生きていくなんて身勝手です。社会ではたくさんの人やたくさんの価値観を受けいれなければなりません。自分に合わないからといって逃げていてはますます世の中を嫌いになってしまいます。器が大きければ、ちょっとやそっとのことで腹を立てることもなくゆとりをもって生活できます。そんなに難しいことではありません。実は受け入れるのは無理だと自分で決め付けているだけで、受け入れようと思えば受け入れられるものなのです。大切なのは、拒絶しようとする気持ちから受け入れる気持ちにシフトすることです。
前回と同様、じゃぁ目の前でナイフを突きつけてくる人を受け入れろというのかというと、そうではありません。受け入れるというのはすべてを許すという意味ではなく、現実を受け入れたうえで自分で判断することなのです。
なんだか説教くさくなってしまいましたが、いま悔やんでいることや腹を立てていることも時間がたって冷静に考えてみれば実はたいしたことなかったりするもので、そのときは感情のせいで盲目になっているだけなのです。善と悪の境界線は自分が勝手に引いているだけで自分にとってマイナスと思うこともあとから振り返ればきっとそれはマイナスにはなっていないはず。現実を受け入れて一生懸命生きていればどんな辛い過去も輝いて見えるもの。なぜなら生の世界ではすべて美しいものだから。時間は生きている人だけに与えられたご褒美。悲しいできごとだろうと楽しいことだろうと生きている間はすべて美しいのです。そう信じてすべてを受け入れることができたなら、もうなにもこわくないはずです。
2009年02月08日
第348回「65億分の1」
第348回「65億分の1」
人と触れ合って成長するのが人間だとすれば人は人生でどれくらいの数の人たちと出会うことができるのだろうと考えたときそれは出会う度合いにもよるわけでたとえばコンビニに行ったときの店員さんというのもあれば結婚までつながるものもあるけどそういったもの全部含めた場合の出会う人の数をいちいちカウントしてられないけど意外と大したことないのではと思うのは地球上には65億もの人たちがいるわけでその中で出会える数なんてほんの一握りだから当然出会わない人のほうが圧倒的に多いわけでそれだけ出会うことがいかに貴重かと考えれば目の前にいる男性がどんなに腹の立つことを言おうがイラつく言葉を吐こうが本来であれば自分の目の前に現れてくれてありがとうと思わなくてはならないのだろうけど人はそう簡単にすべてに感謝はできないしじゃぁ刃物を向けられているのに出会えてよかったよありがとうなんて言えるのかというとそんなわけないのだから言うは易し行うは難しなんだけど少なくとも一生で出会える人の数はきっと限られているのだからちょっとイラッとしただけで相手を排除してしまうことはもったいないしそれだけ自分の成長を妨げているからそんなのはやめていっそのこと受け入れたほうがラクなのかもしれないしそれこそ単なる通りすがりの人でなく言葉を投げかけてくれるのは花が水を与えてもらうようなものだからいつだって感謝しなくてはいけないのにそんなことわかっているのに感情に振り回されて冷静に考えられなくなってしまうのはまだまだ成長がたりないのだろうなんて思うけどいずれにしても前に現れた人を見てなんとなく「なんかこの人あわないな」と判断するよりも「65億分の1」と小さく唱えるだけでその人の見え方とその後の人生に結構な違いが生まれると思うからこのフレーズはいまの世の中を円滑にする魔法の言葉なのかもしれないなぁと思うと同時に数十年前は40億人だった人口がこれだけ多くなってしまったこととまんじゅうを腐らせるカビが繁殖することは同じことだなぁとあえて付け加えてみる日曜日の退屈。
2009年02月01日
第347回「大井町の理由」
第347回「大井町の理由」
おかげさまでフニオチコンテスト完売となりました。もしも観覧にいこうと思っていたのに取れなかったという人は本当にごめんなさい。第二回が必ずあるとも言えないし、販売の勢いに押され数十席設ける予定だった関係者用の席もほとんどなくしてしまったので当日券に関しても若干枚になっています。なのでいっそのこと出場者としてエントリーしてみるのもいいかもれません。こういうことから新たな世界が広がったりするので。
いずれにしてもあと一ヵ月となりました。あの大井町の会場に腑に落ちない顔をした人たちが一堂に会すのかと思うとなんだか妙な期待に胸が膨らみます。
大井町、それは惜しくも山手線から一駅ずれた、それほどメジャーではないのだけどマイナーでもなく、派手と言うよりは地味目な街。明るさと寂しさが混在する街、大井町。大井町線という名前は付いているものの、反対側の二子玉川とは華やかさが違う大井町。そういう目で見ると駅員さんや街を歩く人たちもどこか腑に落ちない表情をしているようにも感じます。とにかくフニオチのイメージにはぴったりで、いまとなってはここ以外考えられないくらいフニオチコンテストにふさわしい街だと実感しているのですが、実はこの大井町のきゅりあんで開催することを決めたのは僕ではないのです。というのも、それはコンテストの会場を探している昨年末のことでした。
「どこもいっぱいですねぇ」
なんとなくやるなら、以前からその存在に一目おいていた区民センターのような場所でやりたかったので、東京都内の区民ホールを手当たり次第あたりました。しかし、平日はともかく土日となると一年先まで一杯という状況で、どうしても3月までに開催したいという僕の希望も捨てざるを得ない状況でした。
「3月までの土日だとこの4つです」
どうにかあがってきたのが東京都内で4箇所。当初は日曜日がいいと思っていたものの、そんなわがままも言ってられなくなりました。一度は東京がダメなら地元横浜もありかと思ったものの、ちょうどいい規模のものがなかったり、音楽専用なのでそういった使い方では…と電話で断られたり、もはやどうやってもこの4箇所から選ぶしかなくなりました。そんな矢先のことです。
「あれ、ここって…」
ロケで都内をまわっていたある日、収録場所に着くとロケバスの窓から見覚えのある文字が見えました。
「きゅりあん…?」
なんだか体がその言葉に反応していました。スケジュール表を見ると大井町と書かれています。
「大井町、きゅりあん…」
なんだか激しく聞き覚えのある言葉。僕はカバンの中にいれておいた会場候補リストを見ると、たしかにふたつのキーワードが記されていました。
「ここかぁ…」
それは天のお告げのようでした。これから下見などして会場を決めるという段階で、まるでここにしなさいとでも言うようにロケバスが停まり、収録現場がまさに、その後フニオチコンテストの会場となる大井町のきゅりあんだったのです。
こうなってしまうともう止まりません。この偶然を人は信じてしまいます。早速ロケの空き時間に会場を訪れてステージや楽屋を下見し、そのまま前金を支払って2月28日のフニオチコンテストの会場に決めたのです。完全に衝動買いです。ちなみに、この2月28日も急遽キャンセルがでたからで、これを逃すと一年先まで埋まっている状況でした。だから、なんだか運命的なものを感じてしまうのも無理はないのです。
街としては迷惑かもしれませんが、勝手に運命を感じてしまった大井町に、今後フニオチさんたちが集うようになって、まだ色のついていない大井町を、フニオチの街として活性化させてもいいかもしれません。フニオチの街、大井町。初めて訪れる人はぜひその街のフニオチ具合も楽しんでください。
出場希望の方はコチラ