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2008年12月28日
第343回「個人的なお知らせ」
最近では、一組のアーティストのアルバムよりも、様々なアーティストの曲が収録されているコンピレーションアルバムのほうが勢いがあるそうです。おそらく有名アーティストの曲はダウンロードで済ませられるけど、ある世代やテーマで括られた名曲集をダウンロードするのは容易ではないからかもしれません。僕自身も、よほど好きであればアーティストのアルバムを購入しますが、たいていカゴにはいるのはコンピレーションの類ばかりです。
そんな僕の机には、様々な辞書が並んでいます。国語辞典や英和辞典をはじめ、ことわざ辞典や四字熟語辞典、その他聞きなれない辞典もあります。なんとなく面白そうな辞書を見つけるとついつい手が伸びてしまうのですが、この感覚がどこかコンピレーションアルバムを購入するのと近い気がします。日本語という膨大な数の言葉をひとつのテーマで括った辞書は、いわば一冊のコンピレーションアルバム。なかでも「慣用句」というテーマで括ったコンピレーションは特にお気に入りで、時間があるときに目を通しては、その素晴らしき慣用句の世界に魅了されるのです。
慣用句というと国語の授業で聞くような堅苦しい印象がありますが、実際「足が棒になる」「顔から火がでる」「足を引っ張る」など、実はとても馴染み深く、無意識に使用していることが多いのです。前述の「目を通す」もそれにあてはまりますが。慣用句は、表現を豊かにし、その状況をよりリアルに伝えられる一種の「うまい例え」といえるでしょう。そういった見事な「うまい例え」が無数に載っている慣用句辞典は、もはやご飯のおかずになりうる逸品なのです。
そもそも慣用句はどうやって生まれるのでしょう。「顔から火がでる」と一体だれが最初に表現したのでしょう。きっと第一人者はいるはずです。もしかしたら、清少納言かもしれないし、村人のおじさんかもしれません。いずれにしても、それが国民に支持されなければ今日耳にすることはないのです。実際に顔から火がでることは当然ありえないのに、人々が恥ずかしくなったときについつい使ってしまうほどに絶妙な表現だったのです。つまり、「必要とセンスが慣用句を生む」のです。
ただ、テレビなどのない時代に、「足が棒になる」が広く伝わるのには時間がかかります。その言葉に力がなければ、一個人の表現で終了です。なのに、現代の流行語のように電波に乗らなくても広まったということは、ある曲がプロモーションなしで大ヒットしたようなもの。「足が棒になる」は、宣伝費なしで全国ドームツアーを敢行できたわけです。それだけ、近年の流行語以上の力を持っているのです。その証拠に、「どんだけぇ」はある期間で終了してしまいますが、「泣く子も黙る」は時代を超えて親しまれているわけで、言うなれば「時代を超えた流行語」のようなものなのです。映画で言うアカデミー賞作品です。当時流行もしたけれど、今見てもなお愛されるもの。「例えのアカデミー賞」なのです。
ならば、現代にも慣用句になりうる言葉はあるはずです。もしかすると「空気を読む」とか「ハードルがあがる」という表現は、やがて慣用句辞典に掲載されるかもしれません。すでに「エンジンがかかる」や「スポットライトを浴びる」などの現代的な表現も慣用句として載っています。なので「ご飯何杯でもいける」も可能性はあるかもしれません。慣用句というのはまさに、その時代を反映している表現であり、時代が言葉に凝縮されているのです。
ちなみに、僕の好きな慣用句のひとつに「腑に落ちない」という言葉があります。腑とは臓腑のことで、昔はそこに心が宿るとされていたから、物事が心にすっとはいらないことを「腑に落ちない」と表現したのです。どうですか、この「腑に落ちない」。僕は完全にヘビロテです。アマゾンで売ってたらたくさんカートに入れます。なんとも日本人らしい表現じゃありませんか。みなさんも一度はお試しになられたことでしょう。怒っているわけでもなく、悲しいわけでもない、でもどこかひっかかる。奥歯にネギがはさまっているような、おろしたてのタオルで体を拭くような。この絶妙かつ繊細な表現は世界に誇る日本人の情緒です。だれが言ったのかは知りませんが、素晴らしい例えをしてくれたものです。きっと昔から腑に落ちないことがあったのでしょう。それがいまだにヘビロテなのは、単に好きだからではなく、当然必要だからです。現代社会が僕にこと言葉をヘビロテさせるわけです。つまり、「腑に落ちない」という言葉は、現代社会を象徴しているのです。
公園に行くと、すべての遊具に柵がしてあったり異常なまでの注意書き。ちょっとした失言をみんなで攻撃したり、部下のあの子が自分より有給をとったり、派遣社員だからという理由で簡単に排除されたり。なんだかどうも納得いかない。いろんなことが腑に落ちない。そう、この世は腑に落ちないことばかりなのです。もしかすると現代社会で腑に落ちることなんてないのかもしれません。ならばいっそ、「腑に落ちない」ことを受け入れてしまってはどうだろうか。そんな想いから、ひとつの考えが生まれました。さぁ、ここからが本題です。前置きが異様に長くなってしまいました。でも前置きも大切なのです。この素晴らしき慣用句「腑に落ちない」を使って、こんなことをしたら世の中ちょっとは楽しくなるかもと思い、あることを企画しました。その内容は、2009年になってから!ということで、今年もありがとうございました。また来年お会いしましょう!よいお年を〜!
2008年12月21日
第342回「その言葉にまつわる一連の衝動」
まさかこんな日が訪れるとは思いもよらなかったと言いたいところだがそんなこともなかった。思ったより早かったというだけの話で、その日が来ることを心のどこかで予想していた。ただ、予想していないこともあった。まさかこんな空虚感に襲われるとは思っていなかった。まるで、ずっとそばにいてくれるものだと思っていた彼女が突然姿を消してしまったかのような。
「え、マジで...」
一目瞭然だった。スクーターから降りて確認するまでもなく、なにかが終わったことを瞬時に察知した。普段はむしろ前の道を照らしていたほど明るかった店内が外の明かりをすべて跳ね返すように、まるで溶岩のような黒い塊がガラスの向こうにあった。マジックで書かれた張り紙が風に揺れ、カタカタと乾いたエンジン音が鳴っている。小さなレンタルビデオ屋のリニューアルの可能性はその「テナント募集」という張り紙によって絶たれていた。
「つぶれた...」
その時、この場所が僕にとって大切な場所であったことに気付いた。
それが世の中の不況のせいだとは微塵も思わなかった。そんなこととは無関係に経営が破綻したとしか思えなかった。なぜなら、あまりにも品揃えが悪いからだ。そもそもコンビニの半分くらいの規模ということがもはやそのキャパシティーを物語っているうえ、棚には当然のようにVHSのビデオが並んでいる。品揃えでいうと一般の映画好きの人でも頑張れば追いつけるかもしれない。だから、いくらメジャーな作品だからといって絶対に油断はできなかった。どんなに有名作品でも平気でなかったりする。そんなときはいつも「あ、この前まではあったんだけどね、ちょうど処分しちゃったんだよね」といかにも奥さんの尻に敷かれてそうな店長の言葉をきく羽目になる。
たとえばアダルトとかアニメに特化するならまだしも、一般作品とそれとの割合は通常の店舗と同じ比率。だから、ほかの店に客を取られてしまうのも無理はない。でも、近くにライバルが存在するわけではなく、その地域で唯一のレンタルビデオ屋。つまり、離れた大型店舗の波に店ごと飲みこまれたカタチ。たしかに大型店に勝る要素は見当たらず、どう考えても完敗だった。
だからといって、その店を利用している人がいないわけでは当然ない。現に、僕もそのうちの一人で、両方の会員証を持っている僕にとってはむしろ、その小さなレンタルビデオ屋の方が足を運ぶ回数は多かった。大して品数はないとわかっていながら、映画を見たくなったらまずその店に向かった。それは、近いからという理由ではなく。
「え、現住所ですか?」
「はい、期間をすぎていますので現住所を証明するものがないと更新できません」
胸ポケットに黄色いプレートをつけた男の口から無機質な言葉が棒のように出てきた。
「でも、いままでここで借りていたんだからこのまま更新じゃ駄目なんですか?」
「はい、期間をすぎていますので」
ちなみに僕は、その男が数年前からこの店で働いているのを見てきている。おそらく彼も僕のことを認識しているだろう。
「この更新のお知らせ葉書でも駄目なんですか?」
「はい、公共料金などじゃないと」
「今度持ってくるんじゃだめですか?」
病院は、保険証は今度でもいいって言ってくれる。
「はい、今じゃないとだめなんです」
まったく僕の言葉を寄せ付けない。はじかれた言葉が床に落ちていた。たしかに店の規則だからしょうがない。でも僕はこれまでこの店を何度も利用してきた。数日前までは歴とした会員だった。思えば出会ってから10年にもなる。それなのに彼は、これまでの日々がまるでなかったかのように冷めた目を僕に向ける。元カレにかつてのような恋心を一切抱かない女性のように、冷めた態度で接してくる。いや、もはや他人であるかのように。そんなふたりの間に、僕が探してきた4本の作品が並んでいた。選択肢は主にふたつ。現住所を証明するものを家に取りに帰る、もうひとつは、目の前に並ぶ4作品をあきらめる。
「こんばんは」
たくさんの人で賑わう大きな箱の前に停めてあったスクーターは、小さなビデオ屋の前に来ていた。店内はさっきとうってかわって、僕以外ひとりも客がいない。そもそも僕はその店で最大5人しか見たことがない。店長を含めて。
「すみません、○○ってあります?」
「えっと、ちょっと待ってください」
こういって店長が探しにいくときはたいていないとき。きまってそのあとに、いつものフレーズがでてくる。
「あぁ、すみません、この前まであったんだけどね、整理したときに結構処分しちゃったんですよ」
いったいこの前とはいつのことなのか。何年前から言っているのか。どういう基準で処分したのか。結局、さっき借りるはずだった4本のうち1本しか見つからなかったが、ある意味それはこの店では奇跡に近かった。しかし、ここでも問題が起きる。財布の中にあると思っていた会員証がない。これでは一本も借りられない。なんだか今日はついてない。
「すみません...」
会員証がないんです。
「あ、別にいいですよ」
とてもあっさりしていた。なんの問題もなかった。一切の滞りもなく僕は、観たい映画を借りることができた。単にいい加減なだけかもしれない。それでも店長の言葉は、さっきの現住所にまつわる無機質なやりとりですっかり乾いていた僕の心を潤した。
「すみません、○○ってありますか?」
それからというもの、僕がビデオを借りる際の優先順位は変わり、見たい作品が決まっているときは電話であらかじめ訊くこともあった。
「えーっと、ちょっと待ってください...あぁ、あったんですけど、この前処分しちゃったんですよ。ちなみに、○○って見られました?」
電話越しに店長は別のタイトルを薦めてくる。
「あ、ふかわさん、すみませんねぇ、この前処分しちゃったんでね」
数分後に現れた僕に、またお決まりの言葉を浴びせてくる。そして、はい、と渡された店長のオススメ映画がまた見事にストライクにはいらないことが多い。
電話をしないで立ち寄ることも多かった。なにか見つかるかもと、なにも決めずにはいる。静かな店内。テレビの音はしているのにとにかく物音が目立つ。そして「また来ます」となにも借りずに出て行く。そして、品揃えはなにもアップデートされていないのに、またやって来てはなにかないかと探している。
そんな、商店街の一角の小さなレンタルビデオ屋でなんとなく映画のタイトルと向き合っている時間がとても好きだったのかもしれない。自分の心境と映画のタイトルを照らし合わせている時間。それがぴったり合わさるとき、合わさらないとき。いずれにしても、とても穏やかな時間と空間がそこにあった。小さなビデオ屋の何百倍もの数の作品が並んでいるあの大きな箱の中に、そんなしあわせな時間はなかった。少なくとも僕にとっては。これまで口にはしていなかったが、なんともいえない味気のない場所だった。それは、単純にいうと、大切にされていない、ということなのかもしれない。大切にされているのは利益。それは決して悪いことではない。でも、無意識にその違いを感じていた。まったく同じ映画でも、どこで借りるかで全然違って見えた。だから僕は小さなビデオ屋で借りていたし借りたかった。これからもずっと。なんだか、社会全体が小さなレンタルビデオ屋から大きなビデオ屋に移り変わっている気がしてならない。
「すみません、3,4年前に公開した映画なんですけど」
「ごめんなさい、この前棚を整理したときに処分しちゃったんですよ」
こんな言葉を積み重ねていたら、この店自体が社会に処分されてしまった。あんなに胡散臭くきこえたこの言葉がいとおしくなるなんて。スクーターはUターンして商店街を抜けていった。
2008年12月14日
第341回「LOVE IS ALL」
なにをもって平和とよべるかわからないから日本が平和だなんて軽々しく言えないし、就職氷河期や金融不安という言葉をよく耳にするようにいつだって社会はなんらかの問題を抱え、そんな社会に人々は漠然とした不安を抱き、不満を抱え、違和感を覚えながらに日常生活を送っています。不安を煽るという方法でしか関心を集めることができないメディアはまるで世の中が暗黒の世界に突入するかのような表現をするけど、景気が上昇しようと下降しようとそれもこれも見える世界の話で、見えない世界が豊かであれば別にそんなに憂鬱になることもないのに人々は物質主義に溺れているからキャスターの言葉や新聞の文字に一喜一憂してしまうのです。なにが本当の豊かさなのかを知らないからなのか、そういったことを国民に教えてくれる政治家は見当たらず、結局自分のことしか考えていないといわれても無理もなく、彼らのしていることは足の引っ張り合い。彼らがそんな風だからかいつのまにか日本人は揚げ足をとることに躍起になり、空気が読めない人は排除され、いいところを見つけようとせず気に食わないところばかりを探し、日本には心の広い人がいなくなってしまいました。しかも0と1とで構成される世の中になってしまってからというもの、そのちょうどいい中間地点くらいの柔軟な考え方ができなくなってしまい、まるで世界を白か黒かにはっきり分けなければいけないかのような窮屈な社会になっています。そうして人々は心の余裕を失い、便利さに埋没した生活の副作用から、物事を長期的にみることや気長に待つことを放棄し、その瞬間瞬間でしか物事を判断できなくなりました。何年とかけて根を張り年輪を重ねていくことの重要性を忘れてしまいました。
そうしてできあがった足の引っ張り合いの国は、「あの国の文明は発達しているけど、性格悪いよね」といつか言われそうで不安。そもそも、引き摺り下ろされた人が悪党ならともかく、最近の傾向はそれほど悪くない人がそのターゲットになることで、むしろ悪ではなく本気で頑張っている人。「本気で頑張っている人が、本気で頑張っていることを妬まれて、本気で頑張らない人たちの手によって引き摺り下ろされてしまう」のです。そうして残った人たちは本気で頑張れない人たち。頑張り方がわからない人たち。そんなことの繰り返しで社会は好転するわけがありません。
そんないまの世の中、なにが足りないって、愛が足りないのです。みなさんもうすうす感じているでしょう。どんなにお金があってもどんなに権力があっても愛が足りなかったら心は満たされません。逆にいうと、なにもなくっても愛があれば心は満たされるのです。たしかに、見える世界の豊かさも必要です。でも、どちらかというと、こっちのほうが大切なのです。世の中に起きる事件の大半は愛の欠如によるものです。幼少期に虐待を受けていたり、人との関わりを避けていたり。愛が欠如しているから、暴力的な埋め合わせをしてしまうのです。愛の注ぎ方も愛の受け止め方もわからずに大人になってしまう。愛というととても胡散臭くきこえるかもしれませんが、言葉を交わすだけで、それは輸血と同じ様に愛は注がれるのです。だから本当は、「嫌いにも愛があり、憎しみにも心がある」のです。このことを知っていれば、些細なことに腹を立てたり傷つくこともなくなります。すべてを受け止め、寛大な心になれるのです。悪い所ばかり探していたら、気付いたときは自分がそんな顔になってしまうものです。人のいいところを見つけていたら自然と自分の顔がそうなるでしょう。顔は、世界に対する自分の心が露呈する場所なのです。どんなものにも愛を持って接すれば、自然と愛に満ちた人間なるのです。
そんな想いからはじまったユーザー育成型アイドル「COSMETICS」プロジェクト。来週からいろんなサイトで配信がはじまるので、よかったら聴いてみてください。皆さんの愛を彼女たち、そして世界に。
2008年12月07日
第340回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜最終話 すべてはひとつ」
「あぁ、終わってしまった...」
もうあとは帰るだけ、という状況ほど旅においてせつないものはありません。せつなさと、いい旅だったという満足感とが交錯し、なんだか泣きたい気分になります。カウンターで荷物を預け、飛行機の出発を待ちました。早朝にもかくわらず出発ロビーは多くの人たちでにぎわっています。リュックをテーブルの上に置き、ぼーっと行きかう人々を眺めていると、これまでのことがスライドショーのように頭に浮かび上がってきました。
ホテルに向かうバスの中。ディニャンティの滝。ラートラビヤルグの絶壁。一緒に食事をした夫婦。サンドイッチを作ってくれた娘さん。大地から噴きあがる白い煙。水色の温泉。そして、旅の間ずっと僕の心を和ませてくれた羊たち。思い出そうとしなくても勝手に蘇ってきます。
それにしても、どうしてこんなにも心が潤っているのでしょう。旅の途中で会った人はどうして僕の心を満たしてくれるのでしょう。人と出会い、人と接すること。地位も名誉もすべてを取り払い、人と人とが触れ合うこと。気持ちが通じ合うだけでこんなにも幸せな気分になるのです。おいしいものを食べてお腹が満たされるように、人と接することによって心が満たされる。まるで本能的な欲求が満たされるかのように、それだけで幸せになれるのです。
もしかすると、すべてはひとつ、ということなのかもしれません。人類は、物理的には離れ離れであるけれど、それはいわば細胞分裂をしているだけであって、もともとはひとつだった。だから、離れ離れだったものがつながるだけであたたかい気持ちになるのです。心が満たされるのです。そのために、愛があるのです。愛がすべてをつなげるのです。愛が人と人とをつなぎ、音楽は言葉を越え、自然がすべてを包み込むのです。だから僕が目にした人も大地も空も海も、すべてひとつなのです。人間は自然をコントロールする生き物ではなく、まぎれもなく自然のほんの一部にすぎないのです。すべて、自然から生まれた子供たちなのです。
「そういえば、ここで...」
飛行機が1週間ぶりのコペンハーゲン空港に到着すると、ずっと奥に追いやられていた苦い思い出がよみがえってきました。モノをなくすといいことがある、というのをきいたことがありますが、まさにそういうことだったのかもしれません。財布をなくしたかわりにオーロラを見ることができたのだから。財布をなくさずにオーロラに遭遇というのもいいですが、財布をなくしたからこそ、オーロラはいっそう輝いて見えたのかもしれません。
「もしかして...」
でもまだ、少しだけ可能性は残っていました。というのも、紛失したときに伝えておいたインフォメーションセンターに行けば、もしかしたらマリメッコの財布が届いているかもしれません。このまま乗り換えせず、一度ゲートから出れば訊ねることができます。これでもしも財布が戻っていたら、すべて丸く収まるのです。
「...まぁ、いいか」
財布をなくしたことも、それもいい思い出。取り戻す甘味よりも、ほかの甘い部分を引き立てる苦味のほうを選びました。
離陸前に荷物を整理していると、今回の旅で大活躍したCDがでてきました。いま手にしているこの一枚のCDRに、旅のすべてがつまっています。青い空も、水平線にむかう太陽も、視界を閉ざした霧も、雨も。エイジルスタジルの虹。オレンジ色の灯台。夜空に浮かぶオーロラと、執拗に話しかけるドイツ人。このCDの中に、全部つめこみました。このCDがあれば僕はいつでもアイスランドにいくことができます。この中にある音楽がながれたら、僕はいつでもあのオーロラを見ることができるのです。
「当分、きかないでおこう」
そして飛行機はコペンハーゲンを飛び立ちました。窓の外を眺める彼の中にはすっぽりと、アイスランドがはいっていました。
あとがきにかえて
ということで、一週間の出来事を13週、約3ヶ月にもわたって書き綴ってきました。よくもまぁこんなに時間をかけてと思うかもしれませんが、当然僕の中でも、「きっとみんな次回が楽しみでわくわくしてるぞ!」なんていう風には思っていなく、毎回読んでくれている人に申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。ただ、それでも「アイスランドに行きたくなりました」「旅行気分が味わえました」という感想を送ってくれる人もいて、それらの言葉は僕をとても穏やかな気持ちにさせてくれました。だから、ここまでたどり着いたみなさん、本当にありがとう、そしてお疲れ様でした。
そもそも旅立つ前は、それこそ旅行中は、今回のアイスランド紀行文を書くつもりはまったくなかったのです。書くことを前提に旅をすると、気持ちがそういうモードになって楽しさが半減してしまうからです。しかし、例の自然の神秘に遭遇したとき、これを伝えないで何を伝えるんだ、そんな思いが芽生えてしまったのです。ただ、ひとつ問題がありました。オーロラの感動を伝えるのにどこから書くべきなのか。いきなり最終日でいいのだろうか。そこにたどり着くまでの道のりがあってこそのオーロラ。しかも紛失したCDRの曲とリンクしているんだし。そんなことを考えていたら、13話になってしまったのです。心がアイスランドに旅立ったとき、それがこの紀行文のはじまりなのです。
強くおすすめするわけではありませんが、これまで毎週読んでくれた人も、そうでない人も、もし余裕があったら完成した状態で、最初から一気に読んでもらうと、よりいっそうイメージしやすいかもしれません。アイスランドをより体感できるかもしれません。さらに時間があれば、2007と2008を読み比べたりするのも。ほんとにおすすめはしませんが。ちなみに今回も写真を添付しなかったのは、読み手のイメージを限定させたくなかったからです。写真を載せることは一長一短ですが、そこに依存したくなかったのと、それぞれ自由にアイスランドをイメージしてほしかったのです。
今回旅をして、アイスランドが僕の体のなかにすっぽりはいってしまいました。なにをしていても僕のなかにはアイスランドがあるのです。だからもし、興味を持たれた方は、是非いちど実際に足を運んで、わずらわしいことを全部請け負って、体感することをおすすめします。人生観がかわるとはいいませんが、人によっては変わりますが、予想以上に得るものがあるはずです。そして帰ってきたとき、あなたの心の中にもきっとアイスランドがすっぽりとはいっているでしょう。地球をもっと好きになることでしょう。人生に一度、アイスランドを。