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2008年10月26日
第334回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第七話 カナシミノムコウ」
その日は、昨日の青空を覆い隠すように、朝からどんよりとした雲が広がっていました。のどかさと雄大さとダイナミックさが融合されたアイスランド特有の風景が、もやに包まれていっそう幻想的になります。
「昨日と同じ道とは思えない」
途中まで昨日と同じ海岸線なのに、夏のそれと冬のそれの違いくらい別のタイミングで来たかのようです。お腹空いていないと言ったものの、朝から散歩をしていたせいか、さっそくサンドイッチをほおばりながらアイスランドの朝を走り抜けていました。
「あれ...」
遠くに羊らしき姿が見えます。羊はそれまでもいたるところで見てきましたが、どうも様子が違いました。いつもなら車が近づくとよけるのに、動く気配がありません。車に気付かないほど熟睡しているのかとも思いましたが、通常3頭単位で動いているので一頭だけというのも気になります。しかも道路脇でなく、道の中央に。
「おかしいな...」
やがて僕は、その羊が眠っているのではないことに気付きます。道路の真ん中に一頭の羊が倒れていました。呼吸もなく、目を開き、口を開けたまま。
胸をしめつけられる思いでした。いたるところで放牧されているから、道路を横切る羊をひいてしまう事故があるとは聞いていたものの、実際運転してみると、よほど乱暴な運転や夜中などでなければ、そのようなことはないように思っていました。そんな乱暴な車が走っていたのか、もしかしたらこの羊は夜中にうろうろしていたのかもしれません。
車を降りてしばらく呆然と見つめていました。しかし、これ以上どうすることもできません。羊の死体を素手でつかんで道路わきに移動させる勇気もありません。僕にできるのは、ただ、ほかの車が轢いてしまわないことをひたすら願うだけでした。うしろめたい気持ちと、そうするしかできなかったという罪悪感に襲われながらアクセルを踏みました。もしも自分がひいてしまったら、きっと、一生頭からはなれず、アイスランドにはもういかなくなっていたかもしれません。羊への愛着が強かっただけに、この光景は激しく心に刻まれました。
やがて海岸線を抜けると、ガソリンスタンドが見えてきました。アイスランドのガソリンスタンドは無人のセルフタイプが多く、カードであれば24時間使用できるようになっています。
「あれ、どうやってやるんだっけ?」
一年ぶりの機械に、使い方を忘れていました。都市部ならまだしも、めったにみかけないガソリンスタンドなので、ここで給油できないといつ遭遇できるかわかりません。無理してガス欠にでもなったら、東京のようにどうにかなるものでもありません。そして、途方にくれる準備をしようとすると、ちょうど一台の車がはいってきました。
「すみません...」
運転席に女性が乗っていました。
「使い方を教えてもらいたいんですけど」
「いいわ、カードは持ってる?」
彼女は僕に説明をしながら機械を操作すると、雨の中、給油までしてくれました。
「ありがとうございます!」
こんなちょっとしたやりとりも、旅の途中だととても印象的なシーンとして記憶されます。車と同じ様に、心も満たされていました。
「あの人が来なかったらどうなっていたことか」
滅多に車とすれちがわない場所で、たいして待たずに済んだのはとても幸運なことでした。しかし、ガス欠の危機は回避できたものの、別の危機が迫っていました。
「これは大丈夫か」
山をのぼると、一気に視界が悪くなりました。深い霧に覆われて、まるで雲の中に突入する感じです。晴れていれば見晴らしのいい道なのだろうけど、すっかり霧に覆われてほとんどなにも見えません。カーブに気付かず直進してしまえばそのまま山から転げ落ちてしまいます。
「ちょっと、ぜんぜん見えないよ」
「わかってる、だからゆっくり走ってるでしょ」
車はゆっくりと進んでいきました。さすがにこのときばかりはヘッドホンをはずしています。そして慎重に走ること1時間。(あんなに深かった霧が嘘だったかのようにすっかり晴れてきました。)ようやく霧を抜けるとそこには、小さなかわいらしい街がありました。それまで反射板だけだった道路脇に街灯が並んでいます。
「ここで一休みしよう」
アイスランドには、全長1500キロほどの道路が円を描くように走っています。それがリングロードと呼ばれる1号線なのですが、ほとんどアスファルトでできていて、それに乗って走れば迷うことなく一周できるのです。渋滞も、信号で停められることもなく、気分のまま走れることは東京では考えられません。出発したら自分の意思がないかぎり、停車することはないのです。
僕がいた北西部は、そのリングロードの左斜め上で、たどり着くまでかなりの距離があります。そのリングロードにぶつかる少し手前に、その町はありました。
それは、ブーザルダールルという小さな街でした。通り沿いにあるスーパーにはちょっとしたラウンジがあり、ラウンジマニアである僕としては、入らずにはいられません。さすがに日本のようにラーメンやらお好み焼きやらがあるわけではないですが、ちょっとしたファーストフードがあり、なにより、この地域で生活しているかのような感覚になれるのが、とても好きなのです。
「チーズバーガーとポテトと...」
迷ったらポテトを頼め、これは海外経験をつんだ結果うまれた言葉です。ポテトはどこの国で食べてもはずれはなく、たいがい美味しく感じるものなのです。だから、冒険することも時には必要ですが、へたに冒険して味覚の違いに打ちのめされるよりは、ポテトを注文したほうが無難なのです。
また、日本ではなんてことない買い物も、海外だとそのつど緊張や不安が伴い、それだけひとつの買い物ができたときに達成感があります。たかが「フライドポテト」や「水」の一単語がまったく通じず、一苦労したこともありました。それだけに、自分の思い描いたとおりのものがでてくると、ものすごい満足感が得られるのです。
ラウンジの窓から日が差し込んでいます。お昼時ということもあり、徐々にお客さんも増えてくると、観光地でもない小さな町を訪れた見知らぬアジア人を、皆、物珍しそうに見てきます。
「そろそろ出発しよう」
またいつか訪れる日が来るのだろうか。もし訪れたとき、どんな気分になるのだろうか。なんてことない小さな町も、しっかりと旅人の心に刻まれます。帰り際に注文した海外サイズのソフトクリームが指までたれてきそうなのと格闘しながら、その町をあとにしました。ブーザルダールルは太陽にきらめくアクセサリーのような町でした。
1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS | 09:50
2008年10月19日
第333回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第六話 サンドイッチの朝」
「4時かぁ...」
ヨーロッパに行くと必ずそうです。時差ボケでやたら早く起きてしまい、いつも朝食までの時間を持て余すのです。もう一度寝ようとしてもどうも眠くならず、ホテルの周辺を散歩することにしました。
昼間は10度近くまであがるものの、朝晩はかなり冷え込み、手袋が恋しくなります。日が昇る気配もなく、ただ一本の街灯が暗闇を薄めています。湾の向こう側にはパトレクスフィヨルズルという町があり、その街明かりがぼんやりと浮かんでいました。娘さんが言うにはそこが一番近い街で、往復1時間半かかるそうです。5分でコンビニにいける世界ではありません。空は灰色の雲で覆われ、いまにも泣き出しそうです。羊や馬たちはまだ眠っているようで、ただ波の音だけが時折きこえてきます。
「今日はどうしようか」
特にきっかり予定を決めていなかった僕は、夕方の飛行機で昨年訪れたアークレイリという街に行こうと思っていましたが、なんだか無性に車で行きたくなってきました。というのも、その場所への直行便はなく、一度レイキャビクを経由しなければならず、また、来た道を戻るよりも見知らぬ地を通過したいからです。たとえば大阪から金沢にいくために、一度羽田によらなければならないのなら、大阪から金沢まで車で行ってしまおう、みたいなことです。さらに、アークレイリの先にある温泉にはいるには夕方の飛行機だと間に合わなくなる可能性もあり、それこそ悪天候で飛行機が飛ばなくなる恐れだってあります。
とはいえ、実際予想される距離は大阪から金沢どころの話ではありません。500キロ近くあるのでおそらく車で7,8時間はかかるでしょう。となると、朝食までじっとしているこの状態がいてもたってもいられなくなります。これが10日間くらいの旅であればのんびりもできるのだけど、今回の日数だとどうしても無駄にしたくないという思いが強くなるのです。
「よし、出発しよう!」
そして旅人は荷物をまとめはじめました。朝食を待たずに出発することにしたのです。外は明るくなってきたものの、誰も起きている気配はありません。まるで夜逃げするように荷物を車に運んでいると、お見送りするかのように、3頭の羊が山から下りてきました。
「これでいいかな...」
入り口の机に置手紙と宿泊代金を置き、車に向かいました。しかし、どうも心がついてきません。体はチェックアウトできても心がだめなのです。昨晩、時間をともにした人たちに黙って出ていっていいのだろうか、挨拶せずに帰っていいものだろうか、そう思うとエンジンをかけることもできません。そんな自問自答をしていると、建物から食パンを抱えた娘さんが出てきました。
「おはようございます!」
早起きに驚いた様子でした。
「あの実は、急遽予定を変えて、もう出発することにしたんです」
そして、お金を置いたことを説明しました。
「そうなの?わかったわ。ところで、朝食は?」
「あ、大丈夫です、そんなお腹すいてないですし」
「いいわ、つくってあげる」
「いや、大丈夫ですって!」
僕の言葉が言い終わる前に彼女は厨房へはいっていきました。冷蔵庫の開く音や包丁の音が聞こえてきます。そして5分もたたないうちに彼女は戻ってきました。
「はい、これ持っていって」
それは、茶色の食パンで作った、ハムとチーズのサンドイッチでした。
「ありがとうございます!ここに泊まってほんとによかったです。あと...」
続けて言いました。
「手紙にも書いたんですけど、昨日一緒に食事をしたアメリカ人の夫婦にも...」
「もちろん、伝えておくわ」
そして二人で写真をとると、握手をかわし、また来ることを約束しました。
「やぁ、おはよう!」
サンドイッチを手にして車に戻ると、その横で荷物の整理をしている男性がいました。
「早起きだね、どこかいくのかい?」
昨日一緒に夕食を食べた男性です。僕は彼女と同じ様に、経緯を話しました。
「そうか、もう出発か。あ、ちょっと待ってな」
写真が趣味という彼は車の中にもぐりこむと、中から三脚つきのカメラを取り出しました。
「じゃぁそこの前に立って」
静かな朝にシャッターを切る音が響きます。そして僕のカメラにも二人の姿がおさめられました。
「幸運を祈るよ!少年!」
「はい、奥さんにもよろしくお伝えください」
「わかった、伝えておくよ。気をつけてな」
「はい、ありがとうございます!さよなら」
砂利道を走るタイヤの音が彼と白い建物を遠ざけていきます。
「直接伝えられてよかった」
うしろめたい気持ちは一切なくなりました。もしなにもいわず出発していたら、気になって途中で引き返していたかもしれません。
それにしても、ほんの一日なのにどうしてこんなにもせつないのでしょう。人と人とが知り合うことが、どうしてこんなにも素晴らしいと感じられるのでしょう。もうあの夫婦と出会うことはないかもしれない、でも、この一度きりの出会いは一生、僕の心に残るはずです。幸せとせつなさとが涙になってあふれてきます。
「いつかかならず...」
沿道の羊たちは、朝食をとりはじめていました。
<サイン会情報>
本日10月19日14時〜金沢・文苑堂書店にて
「ジャパニーズ・スタンダード」のサイン会を行います。お近くの方はぜひご参加ください。
〜「ジャパーズ・スタンダード」(KKベストセラーズ刊)〜
〜 発売記念サイン会金沢にて開催! 〜
10月19日(日)14時〜
文苑堂書店示野本店
(イオン金沢示野ショッピングセンター内)
問い合わせ先: 076-267-7007
※上記書店にて「ジャパニーズ・スタンダード」をご購入の方に整理券を配布します。
1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS | 09:25
2008年10月12日
第332回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第五話 レットイットビー」
大自然に囲まれた場所に、そのホテルはありました。そもそもアイスランドではレイキャヴィクを離れると大自然に囲まれないほうが難しいのですが。ホテルのまわりでは馬や羊たちがのんびり草を食み、反対側には入り江も見えます。ホテルという名前はついているものの、その外観は一階建ての小さな箱。そこに窓がいくつかある程度で、むしろコテージやユースホステルという言葉のほうが近いかもしれません。
キーをまわすと、エンジン音が空に吸収されていきました。経営しているのかわからないくらい、人の気配がありません。一抹の不安を抱きながら建物に向かう僕を迎えてくれたのは一頭の羊でした。「ようこそ」といわんばかりに僕を見ています。不安になるとあらわれる、羊はもしかすると神様か神の使いなのかもしれません。その姿をカメラに収めると、ゆっくり扉を押しました。
「こんにちは...」
中は静まりかえり、物音ひとつしません。しばらくして奥から足音が聞こえてきました。
「あの、予約した者なんですけど...」
出てきたのは、おもいのほか若い女の子でした。彼女は頷きながらノートを広げます。
「リ、リ・ヨ・ウ?フッカーワ?」
裸足のまま僕を部屋に案内すると、彼女は中の設備を簡単に説明して戻っていきました。ベッドと窓と机とランプ。とてもこじんまりした部屋は窓から牧場が望めます。7時くらいでもまだ外はあかるく、夜になる気配がありません。僕は、デジカメなどの充電をしながらベッドに横になりました。
「はたして夕食はでるのだろうか...」
のどかでいいものの、若干そのことが気がかりです。そういえばホテルでの朝食以来なにも食べていません。最悪、お菓子で乗り切る覚悟はしているものの、できることならちゃんとしたものが食べたいのです。旅館のように連絡がくるのだろうか、ガイドブックには食事らしきマークが記されているが、それは朝食のことなのだろうか。ほかに宿泊客がいなそうなのに、僕のためだけにつくるだろうか。
「すみません...」
いてもたってもいられず、再び声をかけにいきました。
「ご希望であれば、作りますよ」
きいてみてよかった、きかなければベビースターになるところでした。それにしてもどこで食べるのだろうか。どう考えてもレストラン的な場所は見当たりません。言い方からして、私が作りますっぽかったけど、彼女が作るのだろうか。そしたら彼女と向かい合って食べるのだろうか。そもそも彼女ひとりできりもりしているのだろうか。ほかの従業員はいないのだろうか。なんだか、いろんなことが気になってきます。
「っていうか、何時なんだろ」
夕食の時間が気になるものの、また声をかけたら「この日本人しつこいな!」と思われるかもしれません。そんな葛藤を繰り返していると、ドアをノックする音がしました。
「夕食ができたので、隣の建物にきてください」
ちょっとした別館といったところでしょうか。ホテルの横に小さな小屋のような建物がありました。中にはテーブルがいくつか並び、それぞれにオレンジ色のランプが点いていました。
「よかった、ほかにもいる」
一番手前に二人組が座っていました。見た感じ40代の夫婦のようです。その横のテーブルに座ろうとすると、男性の方が声を掛けてきました。
「こんにちは、お一人ですか?よかったら一緒にたべませんか?」
突然の誘いに一瞬とまどいました。
「ありがとうございます...でも、英語得意じゃないですけど、いいでしょうか?」
「全然かまわないよ、さぁどうぞ」
そして僕は、アメリカからやってきた夫婦と3人で夕食をとることになりました。
「アイスランドははじめてですか?」
「アメリカからだと何時間くらいですか?」
「日本人で知っている人はいますか?」
お皿の上には、アイスランドの家庭料理といった感じの、とても素朴でシンプルな料理がのっています。僕が話すたびに彼らは手をとめて、しっかりきいてくれました。
「お口に合いましたか?」
すっかり打ち解けてきた頃、奥からおばさんがでてきました。おそらく彼女のお母さんなのでしょう。
「おいしかったです。あの、あれって弾いてもいいんですか?」
近くに年季の入った木製のピアノが置いてありました。
「どうぞどうぞ」
「なんだ、きみ弾けるのかい?」
フタを持ち上げると、鍵盤にはいろんな落書きがされています。このホテルに昔からあるものなのでしょう。鍵盤を指で押すと、少し歪んだ音が鳴りました。
「すごいじゃないか」
演奏が終わると、ホテルの母娘、そしてアメリカ人の夫妻が拍手をしていました。日本からはるか遠い異国の地で、まさかこんな風にピアノを弾くとはおもいませんでした。もしかしたら、海外でピアノを弾くことは初めての経験だったかもしれません。それまでまったく知らなかった人と心を通わせられたことに、胸が熱くなります。なんにもない、ケータイもつながらない。でもなんだかすごく、心が満たされていました。
「朝食は朝8時からです。ではおやすみなさい」
ようやく辺りも暗くなりました。ベッドに横になって窓から空を眺めているうちに、まぶたが重たくなってきます。デジカメの充電ランプは消え、ラートラビヤルグの夜は、静かにふけていきました。
<サイン会情報>
10月19日14時〜金沢・文苑堂書店にて「ジャパニーズ・スタンダード」のサイン会を行います。お近くの方はぜひご参加ください。
1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS | 09:58
2008年10月05日
第331回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第四話 地の果て」
「あと80キロ...」
ようやく今日の目的地である「ラートラビヤルグ」の文字が看板に現れました。アイスランドの道路標識は必要最低限しかないので滅多に見かけません。それだけ混乱することもなく、ましてや普段大都市で無数の看板や交差点で鍛えられている人にとっては、よほどのことがないかぎり道に迷うことはなさそうです。それだけ、この国で運転していると、普段いかに無意識にいろんな情報を確認しながら運転しているのかを痛感するのです。
「あと60キロ...」
ところで先程からでている「ラートラビヤルグ」とは一体なんなのかというと、アイスランドでも特別メジャーな場所というわけではありません。ガイドブックなどを見ても必ず載っているわけではなく、なんとなく軽く触れている程度。それこそ、このアイスランド北西部というエリア自体が、「神秘的なエリア」とか「不思議な体験に遭遇するかも」、といった抽象的な表現ばかりで、明確な観光名所が提示されていないのです。僕自身、映画の舞台となっていなかったら訪れていたかわかりません。それでも今回の旅の目的にしたのは、そこで体験したいことがあったからです。
「時間のある人は、ぜひラートラビヤルグで地の果てを実感して欲しい」
本に書かれたこの文字が、僕をその場所へ向かわせたのです。
「地の果てって一体どんな感じなんだ」
ラートラビヤルグはアイスランド北西部の先端、右の手の平をひろげたときの小指の先に位置します。そこに、何百メートルにもわたる、高さ数十メートルの断崖があるのです。逆に言えば、断崖があるだけです。しかし、その崖に立ったときの感じる「地の果て」は、なかなか体験できるものではないだろうと、勝手な期待をしていたのです。
「あと15キロ...」
起伏が激しく、ぐんぐん登ったかと思うと、一気に下っていく、そんなことを何度もくり返します。羊を見かける頻度もだいぶ下がってきました。そして、インフォメーションの人の言うとおり、車を借りてから5時間ほどたった頃です。
「ここだ...」
その道の終点が訪れました。もう先に道はなく、ガラス越しに灯台らしき小さな白い建物がみえます。エンジンをとめてドアを開けると、一気に風が流れ込んできました。車を降り、ゆるやかに傾斜している地面を歩いていくと、白い灯台の向こうに海がひろがってきました。夕方5時くらいなのに太陽が真上から照らしています。周りには誰もいません。ただ、風の音と波の音とが入り混じってきこえています。
「ここが地の果てか...」
まるで大陸が刃物で切り落とされたような断崖がそこにありました。やはり柵もなにもありません。そこでばっさりと大陸が終わっています。あと一歩前にでたらそのまま海に転落するというところに立ち、真下を覗き込むとさすがに足がすくみます。ただ、そこはまだ一番高いポイントではなく、崖のふちに沿って歩いていくと、崖はそこから空に続くようにさらに高くなっていきます。
「結構歩いたな...」
ラートラビヤルグの断崖の一番高いところに僕はいました。車はもうはるか遠くにいます。崖の下からたくさんの鳥たちがものすごい勢いで飛び、もう人間の領域ではない場所にやってきたかのようです。風と海の音、太陽の光とそれに照らされた海の輝きを一度に感じられる「地の果て」は、なんだか現実と非現実の境界線のよう。人類の支配がとてもちっぽけで愚かにすら感じてしまいます。
「これはやばいかも」
さっそくオーディオプイヤーをとりだし、ヘッドホンをはめると、自分の息遣いが鮮明に聞こえてきました。そして音楽が流れてきます。部屋で聴くと退屈に聞こえるようなゆったりとした音楽も、こうした場所できくと見事に自然とシンクロするのです。フィルムにやきつけるように、光景や肌で感じたものを音楽の中につめこみます。いわば、極上のサンセットシーンのインストールです。
時間があるので、しばらく崖に腰掛けて眺めていようとしましたが、突然誰かが押すかもしれないという恐怖に襲われて座っていられません。それですこし内側にはいったところに座ろうとすると、意外なものが目に飛び込んできました。
「こんなところにも?」
それは羊たちのフンでした。羊たちがこんなところにまで来ていたことを証明するかのように、フンが散らばっていました。もしやと思い周辺を見渡すと、とおくで羊たちが草を食んでいます。本当にアイスランドは羊の国です。羊の国に人間が住まわせてもらっているようです。
日が沈むまで眺めていたい気分もあったものの、ほんとにそんなことしたら真っ暗な道を確実に泣きながら帰ることになるので、その前に出発することにしました。
「どうだった?」
「いやぁ、すごかった...」
「すごかったって、どう?」
「とにかく、地の果てって感じ?」
それは確かに、言葉にならない、感じるものかもしれません。あえていうなら、人間の支配できる世界とできない世界の境界線のようなもの。地の果てをあとにした車は、ホテルを目指しました。