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2008年04月27日

第314回「世界は自分」

 これは、あくまで僕がいま感じていることであって、当然みんなに押し付けるわけでもなく、これが絶対に正しいと思っているわけでもありません。ただこんな風に考えることもできるんだ、くらいに思って聞いて下さい。また、少し刺激が強いかもしれないので、疲れている人は決して読まないでください。そんなことを言われると逆に気になるよ、という場合は、体力のあるとき、めちゃめちゃ暇なとき、もしくはなかなか眠れないときなどに読むことをおすすめします。それでもいま読むという人は、少しだけ想像力を用意して先にお進みください。
 「世界は自分」
 この言葉だけではあまりよくわからないと思いますが、タイトルとしてはこれ以上足すことも引くこともできません。これが今回僕の一番伝えたいことのすべてです。どういうことかというと、自分と自分以外との間に境界線はない、ということです。あるいは、自分というものを肉体で切り取らないで、ということです。これでもわかりづらいですよね。では、一度忘れてください。
 優秀な上司というのはどういう人でしょう。何でもできてしまうスーパーマンでしょうか。いや、そうではありません。まわりにいる部下たちの能力を発揮させられる人が優秀な上司といえるでしょう。ひとりで全てをやるのではなく、部下を信頼して、彼らのやる気を起こさせ、各々の力を十二分に発揮させることができたとき、彼らはまさしく上司の両腕となって動いてくれるのです。優秀な部下を探すものではありません。上司の姿が部下たちに反映されてくる、ということです。
 いい友達というのはどういう人でしょう。自分のために悲しんでくれる人、自分と一緒に喜んでくれる人、そんな人たちをいい友達と呼べるのではないでしょうか。でもはじめからいい友達を探してもなかなか見つかりません。顔や名詞に「いい友達」とかかれてないし、スーパーやデパートで売っているものでもありません。友達は、いつのまにかまわりにいるものなのです。自分の生き方が友達に反映されるのであって、友達の姿は自分の姿なのです。だからもし、いい友達が周囲にいなかったら、それは自分自身に問題があるわけで、自分の生き方を見つめ直さなければならないのです。
 このように、部下も友達も、自分の生き方が反映されている、ということはなんとなくわかってもらえたでしょうか。では、自分の周りにいる人たちと、自分の手や足と、そこになにか違いがあるでしょうか。そこに違いなんてなにもないのです。指にささくれができることも、部下に問題が起きることも、友達に嫌なことを言われるのも同じことなのです。つまり、友人も部下も自分の一部なのであって、肉体で切り離したらだめなのです。なんとなくイメージできましたか?
 では、せっかくなのでそのイメージをもう少し拡大してみましょう。人は皆、自分とそれ以外を区別します。自分の肉体を基準に境界線をつくってしまいます。でもそれは物理的なことであって、世界をそんな風に切り取らず、もっと柔軟にイメージするのです。頭の中に描かれた世界をすべて心で受け止めるのです。そうすると、肉体という枠組みを突き抜け、世界全体が自分であることに気づくのです。草花も木々も海も空も、宇宙も。この世に生を受けた瞬間、世界はすべて自分なのです。
 そんなのありえない、そんなわけない、遂に頭がおかしくなったのかと思うかもしれません。仮にイメージできたとしても、だからなんなんだと憤る人もいるかもしれません。でも、「世界は自分」だと感じることができたなら、いろいろな変化が訪れます。
 「世界は自分だ」と思うことができたなら、人に優しくなれます。すべてに愛情を注ぐことができます。くだらないことで腹を立てたり、怒ったりすることもなくなります。だって、自分のことなのですから。他人だと思うからそこに愛が生まれにくいのであって、皆が「世界は自分」と思うことができたなら、世界は愛に包まれるのです。
 そしてもうひとつ。「世界は自分だ」と思うことができたなら、いつもあなたは幸福に満ち溢れているはずです。どんな逆境も、どんな苦しみも、そしてこれから訪れるすべての悲しみも、すべて受け入れられることでしょう。あなたをとりまくすべてがあなたなのですから。
 さぁ、無事にたどり着きましたでしょうか。非常にややこしかったのではと思います。とても感覚的な話なので、無理に考えて理解しようとしないほうがいいと思います。
 「世界は自分」
 この言葉を、心のどこかにしまっておいてください。

1.週刊ふかわ | 09:19

2008年04月20日

第313回「トビラノムコウ」

 僕があの場所を好きな理由はいくつかあります。お酒がおいしかったり、店員さんが気さくだったり。こじんまりしたところもその理由のひとつかもしれません。でも、そんな中で一番は、扉です。あの無機質で重たい鉄の扉が、僕は好きなのです。
 開けるときの重量感と、その扉から吸い出される音と空気。どこか異次元空間にはいりこむかのような感覚になります。もしもあれが軽い扉だったらそのようにはいきません。それこそ引き戸だったり襖や暖簾だったりしたら、僕はあの場所に何年も通うことはなかったでしょう。扉を開けるというなにげない動作の中で無意識に体全身で感じているあの重量感こそ、僕があの場所でDJを続けられた一番の理由なのです。
 扉の向こうには、いろんな人がいます。毎月来てくれる人もいれば、ふらっと立ち寄った会社帰りの人。ときには外国人もいます。かつてタヒチ80がふらっと遊びにきたり、有名人の方が踊りまくっていることもありました。べろんべろんに酔っ払って床でぶっ倒れている人。トイレで眠ってしまう人。扉の向こうでいろんな人を見てきました。
 でも、僕がいつも気にしていたのは、酔っ払ったり、楽しそうに踊っている人たちではありません。あの空間の片隅でひとり座っている人。光があたらない場所で、いるのかどうかさえわからないような人。決して楽しそうにしているわけではないものの、なんだかんだ終わりのほうまでいたりする。そんな人を、いつも気にしていました。
 この人はどんな気分でここに来たのだろうか。なにか考え事を抱えてきているのか。嫌なことがあったのだろうか。なにかを決意してやってきたのだろうか。こんなうるさいところにひとりで来るのだからなにかあったのだろう。ひとりで大丈夫なのだろうか。そんなことを考えてしまうのです。だからといって、僕からは話しかけたりはしません。そっとしておくのです。もしかしたら一人になりたくて来ているのかもしれないし。
 そうして今月、「ロケットマンデラックス」は8周年を迎えることになりました。こんなにも続けたのかと思うと自分でも感心してしまいますが、8年もクラブでイベントをやっておきながらいまだにビールも飲めずカシスオレンジというのも不思議な話です。時折、以前よく来ていたお客さんが何年かぶりに遊びにきたりすると、卒業生を迎える学校の先生のような気分にもなります。なにを学んだわけでも、なにを教えたわけでもないけれど、あのときあの場所で流れていた音楽を、僕たちはしっかりと覚えているのです。
 扉の向こうにはいつもいろんな人がいます。それぞれの道を歩んでいる人たちが、それぞれの想いを抱えてやって来る。うまくいってる人、うまくいっていない人。いろんな人生が、あの扉の向こうで混ざり合うのです。鉄の扉は、そんな想いがこぼれおちないように、しっかりと支えてくれているのです。三宿WEBのスタッフ、そしてこれまで遊びに来てくれた人たちへの感謝の言葉にかえて。

1.週刊ふかわ | 09:10

2008年04月13日

第312回「アースデイはういろうの味」

 4月22日は何の日かご存知でしょうか。そうです、タイトルのとおりアースデイです。地球に感謝し、美しい地球を守る意識を共有する日。1970年にアメリカでうまれたアースデイは、現在世界184の国と地域、約5000ケ所で行われ、国境・民族・信条・政党・宗派を越えて多くの市民が参加する、世界最大の環境フェスティバルに成長しました。個人的には、いっそ日本はアースデイを休日にして、ゴールデンウィークとくっつけて、アースウィークにしてしまえばいいのにと思いますが。
 テレビでも新聞でも、なにかと地球環境問題が取り沙汰され、地球を大切にするということがもはや世界共通の価値観になったいま、この日本においても、アースデイに限らず、様々な場所で環境イベントが開かれるようになりました。このアースデイにおいても各地で開催される中、22日に先立って、19日20日の土日に、名古屋でアースデイ愛知が開催されます。学生さんが主となって運営されるこのイベントは、今回「地球と踊る」というコンセプトのもと、いくつかのステージでトークやライブが展開されます。
 「ダンスミュージックと環境問題を掛け合わしたらロケットマンしかいないんです!」
 この言葉を出されてしまったら、どうにも断るわけにはいきません。19日の土曜日、一番大きなステージで日本一地球のことを考えているDJ、ロケットマンが登場することになりました。
 「ここら辺にしようか」
 歩き疲れたふたりは、テレビ塔が見える公園のベンチに座りました。
 僕と彼女が出会ったのは、もう10年以上も前のこと。たまたま仕事で名古屋を訪れたときです。当時はまだケータイもメールもない時代。かろうじてポケベルがあったかもしれません。時折連絡をとりあっているうちにお互い惹かれあったのか、それから一ヶ月とたたないうちに、また名古屋で会うことになりました。いわゆる遠距離恋愛が始まろうとしていたのです。
 「そうだ、今日ね、渡したいものがあるの」
 しばらく話をしたあと、彼女は思い出したかのように言いました。
 「渡したいもの?」
 「うん…」
 そう言って、彼女は鞄の中をごそごそやると、中から大きな包みを取り出しました。
 「なに?」
 「好きって言ってたから、作ってきたの。」
 手渡されると、結構な重さがありました。
 「なんだろ?食べ物?」
 袋から、プラスチックの容器がでてきました。
 「どうしよう、なんか恥ずかしくなってきた…」
 フタを開けると、中には容器いっぱいにゼリーのようなものがぷるぷると揺れています。
 「え、もしかして?」
 「うん、作ったの」
 「全部?」
 「そう。ちょっと多かったかな」
 それは、容器いっぱいに広がる真っ白なういろうでした。
 「帰りの新幹線で食べて。多かったら捨てちゃっていいから」
 「ううん、全部たべるよ、ありがとう」
 辺りはいつのまにか暗くなり、ういろうの表面にテレビ塔の灯りが反射していました。
 「そろそろ、行かなきゃ」
 「そっか、もう時間だね」
 そして僕は、新幹線の中で、大きなういろうをひとり、食べて帰りました。
 それから何度か会ったものの、距離に負けてしまったのか、遠距離恋愛といえるまでもなく、連絡が途絶えてしまいました。あの頃は若かったから。
 いまでも仕事で名古屋を訪れることはありますが、時折彼女が頭をかすめます。ただ、いま思い出せることは、とにかく大きなういろうを作ってきてくれたこと。冬にマフラーを編んできてくれたこと。あとはスピッツをよく聴いていたということくらい。彼女がいまどこでなにをしているのかもわからないし、知るすべもありません。あれから十数年。あのとき二人で話した公園でDJをするのは、ちょっとだけ胸がキュンとするのです。

P.S.:
19日の19時頃の出演予定です。

1.週刊ふかわ | 08:32

2008年04月06日

第311回「アナ・トレントの鞄」

 こんなにも胸を締め付けられるような気分を味わうとは思いませんでした。彼女の瞳はあまりに美しすぎて、子供がいかに純粋な生き物であるか、そして自分がいかに汚れた生き物であるかを痛感したのです。
 「ミツバチのささやき」という映画をご存知でしょうか。僕自身、知人の紹介で知ったのですが、1970年代のスペインの映画で、日本では80年代に単館系で公開され、当時はそれなりに話題になったそうです。監督であるビクトル・エリセは、これ以外にもいくつか映画を作りましたが、どれも素晴らしく、美しいものばかりです。同じ映画でも、ハリウッドのそれとはまったく別物と思ったほうがいいくらい、芸術的で詩的な映画なのです。それほどまでに素晴らしい映画なのに、いまとなってはどこのビデオやさんにもどこのツタヤにもなく、レンタルすることも購入することも難しい状態で、とても貴重な映画になっているのです。
 「いかなきゃ絶対後悔する!」
 その、入手困難であることは、普段爆睡している僕の物欲を目覚めさせ、定価の10倍近くする値段を突き破りました。
 「届いてる...」
 ポストを開けたときに、なんとなく「ミツバチのささやき」だとわかりました。小包からもうその雰囲気が漂っています。
 「これか...」
 静かに包みをはがすと、姿を現しました。そのジャケットから、スペインの田舎らしき風景が垣間見えます。この中に素敵な世界がつまっているかと思うと胸が高鳴りました。
 「さぁ、いよいよだ」
 遂に公開のときが訪れました。観るのは、一番好きな日曜日の深夜と決めていました。もう、絶対に嫌いな作品ではないという確信がありました。これだけハードルが高くなっていても、きっとそれを越えてくれるだろうという自信がありました。テーブルの上に飲み物やお菓子を並べ、万全に環境を整えると、僕の部屋はゆっくりと暗くなると、遂に「ミツバチのささやき」の扉が開かれました。
 舞台は40年代、内戦後のスペイン。いわゆる派手なスペインの景色ではなく、荒涼とした台地やひなびた田舎の村が映し出されます。それらの景色はあまりに美しく、観ていると、画面に吸い込まれそうになります。アナ・トレントという少女と、姉のイザベル、そしてミツバチの飼育する父、過去の恋に思いをよせる母の4人の家族が登場します。
 「だから言ったんだよ...」
 もう、体が動きませんでした。終わってからも、しばらく起き上がることができませんでした。これが映画館だったら、次のお客さんが来てしまいます。好きなタイプだとは予想していたものの、まさかこんなにも衝撃を受けるとは思いませんでした。これは映画というよりも芸術作品、芸術作品というよりも不思議な世界をのぞき見てしまったような、なんともいいようのない感覚に陥りました。あんなにデヴィッド・リンチの色に染まっていた僕の頭、そして体は、一瞬にしてビクトル・エリセの色に染まっていたのです。
 僕は気絶したようにぼーっとしていると、数々の光景が勝手に頭の中を巡ります。完全に映画の世界が僕の脳を支配していました。中でももっとも強く残ったのはやはり、主人公アナ・トレントの瞳です。それがいつまでたっても頭から離れないのです。
 「大人になるってなんなのだろう」
 アナ・トレントの瞳を見ていると、いろんなことを考えさせられます。僕たちはいつ現実というものを意識し、非現実に気付くのか。いつ孤独を知り、いつ大切なものに気付くのか。いつから嘘をつきはじめ、いつから心でなく脳で判断するようになるのか。社会とはなんなのか、大人とはなんなのか。結局現実ってなんなのか。そんな自問自答が始まるのです。
 現実と非現実の境界線がない彼女の瞳に映るものはすべて真実であり、それは彼女の純粋な心を映し出しているのです。そしてその、まぁるい瞳が閉じられた瞬間、観る者全員の心が、一瞬にして奪われてしまうのです。
 彼女はいつも、小さな鞄を手にしていました。彼女がずっと持っているあの鞄の中には、一体なにがはいっていたのだろう、そんなことを考えるだけで胸が締め付けられるように苦しくなります。アナ・トレントの鞄の中身は、大人には見えないものなのかもしれません。

P.S.
どこかで上映会できたらいいのに。

1.週刊ふかわ | 09:18